イナゴ身重く横たわる
東福如楓
序章 旅団、かつてソ連で
『背信者が聖堂の扉を粉砕し、そこに隠された命を盗みとったのだ!』
『マクベス』というシェイクスピアの悲劇がある。魔女の甘い言葉に惑わされ、仕える王を殺した男の物語である。
先の叫びは、暗殺された主君を目の当たりにした忠臣・マクダフが劇の中で発したものだ。
だがもちろん作者はあくまでこの台詞を創作したに過ぎず、断じて観客に「そうせよ」と勧めたわけではない。
――その少女がこの戯曲を知っていたのかどうか、今となっては定かではない。
だが少なくとも、彼女が俺に教えてくれたのが命を盗みとる作法だったのは、間違いがなかった。
▼
この稼業では、
人間の目は構造上、標的に照準を集中して合わせられるのが四秒と言われている。確実に決めるなら、その四秒間に全てを賭けなければならない。
今では骨董品に近いドラグノフ狙撃銃を捧げ持った左手の指先が、小刻みに揺れる。
震えは、寒さばかりのせいではない。恐怖。緊張。おののく心臓が、激しく肋骨を打つ。
理性の
「……今日は不肖わたくしが、
『彼女』が務める風見、というのは狙撃の際のポジションの一つだ。狙撃手はその役目柄、周囲の状況に気を配ることができない。
そこで後顧の憂いなく狙撃手が狙撃に臨めるように周囲を警戒し、風向きなど気象状況についても狙撃手に伝える。それが風見の役割だ。
「
「問題ない。拠点を出る前に済ませてある」
拳銃のような短距離用の銃器は別として、歩兵銃や小銃、狙撃銃のような長距離用の銃には、目標との距離や射手のクセを調整するための機構がたいてい備わっている。
ダイヤルを回して弾道と射手のクセをアジャストすることを、『零点規正』と俗に呼ぶ。
「よろしく頼む」
モスクワの闇夜には、粉のような雪がしんしんと舞い降りている。
銃床が空洞になったドラグノフ狙撃銃を
「天候、雪。湿度、八十九パーセント。気温、マイナス三度。風速、秒速五メートル。目標に対し二時の方角から」
無機質なデータを口に出して復唱しながら、彼女はタブレット端末にデータを入力していく。
「風速の誤差修正が必要ですわね。ダイヤル、左に一クリック。あとはそのままで大丈夫のはずです」
言われた通りスコープに微調整を加えると、俺は再び目標に銃を向けた。自らの白ささえ甘く見える俺の吐息が、レンズの向こうの視界をわずかに奪う。
「済ませたら逃走用のロープを垂らして、下に降りて撤退しますわ。バックアップ用の
「拳銃は苦手でな、あんまり頼りにしないでくれ」
今夜の俺達のお相手は、豚のように肥え太った一匹の
「アカ豚を始末したらどうする?」
「……そうですわね。モスクワを離れて、北へでも参りましょう」
俺は屋上で
油断は大敵だが、この距離なら狙撃に失敗するほうが難しい。むしろ問題は、いかに速やかに現場を脱出できるかにある。
銃声が消音器にかき消され、窓ガラスの割れる音だけが夜の街にこだまする。狙撃銃が反動で真後ろに後退し、軽やかに回転する
標的の影が倒れ込んだのをスコープ越しに確認し、顔を上げる。すると彼女は、退却用のロープをこちらに投げやった。
「参りましょう、
その少女はまだ熱い薬莢をさっと拾い上げると、鮮やかなロープさばきでビルの壁を降下していく。
俺もドラグノフを背負うとそれにならい、壁を伝って路地裏へと降りる。そして証拠を残さぬよう、ロープをすぐさま回収した。
――その
「ち……」
情報が漏れていたのだろうか――大通りの向かいにそびえる古ぼけたビルから、幾人もの兵士がなだれを打って飛び出してくる。
奴らは何かに憑かれたように、こちらへと突進してきた。軍服を着た
俺が顔を出してマカロフを乱射すると、連中は一瞬だけひるんだ。
「う、動くな貴様らッ、我々は……」
大声でわめき散らす敵の指揮官。全てを聞き遂げる前に、そいつの額の上に照門と照星とをつなぎ止める。
「参りましょう。遅れたら、そこでおしまいですわ」
俺は、走り出した少女を路地裏の奥へと追う。冷たく眠るモスクワの静脈に、おのが身を隠そうと。
ライフル弾の弾幕が後ろから飛来した。年季が入ったコンクリートの壁が、瞬く間に破片へと姿を変えていく。
「うおっ」
瞬間、激痛が走り、俺は思わずつんのめった。
「しっかり!」
少女は俺の手を取ると、路地裏の四つ辻を曲がった。背後からは、軍靴の響きが俺達を追ってくる。
「走って! 全速力で!」
と、俺の意識が混濁を始める。一刻も早くこの場を離れないといけないのに、足が思うように進まない。ただ、前を走る小さな背中が視線の先にあった。
足がもつれ、俺は雪の積もった地面に体をしたたかに打ちつけてしまう。少女が振り返ったのが、気配で分かった。
「同志ニコライっ!」
それは俺の名ではない。本当の名ではない。だが少女は、その名を呼んだ。
――間に合わない。そう悟ると同時に、敵意のこもった固い感触が後頭部に訪れた。恐らくはカラシニコフ突撃銃の銃口だ。
「手こずらせてくれたな、『白色旅団』の犬め」
強く押しつけられる銃口に、俺は
「貴様の身柄に関しては、『生死不問』ということになっているそうだ。そして貴様にとって運の悪いことに、今宵の俺はちょいと機嫌が悪い」
銃口がいっそう強く押しつけられ、俺は生命の危機を感じた。
「……一思いにやれよ。ろくな情報も持っちゃいないが、拷問されるくらいならそっちのほうがマシだ」
覚悟を決めて、そう吐き捨てる。敵方に落ちた鉄砲玉の末路なんて、ろくなものじゃない。
「殊勝な心がけだな。
その言葉と共に、引き金に指がかかる気配を感じる。かすれゆく俺の意識は、そこで暗転して途切れた――
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