わたしはかえらない
賢者テラ
短編
「……お姉ちゃんと一緒に行く」
妹のその言葉を聞いた姉は、一瞬来るなと叫ぼうかと思った。
しかし、すぐにその考えは雲散霧消した。
姉もまた、最後の瞬間に妹がいてくれることを望んだ。
望んではいけない願望だが、妹自身の言葉で叶う。
しかしもはや、姉には妹に命を大事にしなさいとは言えなかった。
助かるかもしれないから、などとはさらに言えなかった。
ここ、アウシュビッツに収容されたが最後——
はっきりと聞いたわけではないが、そう噂されていた。
姉妹は、ポーランド人だった。
しかし、母方の親戚にユダヤ人の血が混じっていた。
彼らをかくまっていることがナチス親衛隊に嗅ぎ付けられ——
親戚は、その場で射殺された。
父と母も、今となっては死んでいるのか生きているのかすら分からない。
しかし、それももうどうでもよい。
もうじき、死ぬのだから。
姉はそう直感した。
『今からシャワー室で体を洗ってもらう』
監視員は、そう告げる。
しかし、恐らくそれは……
だって、前にそれで連れられていった人達は、帰ってこなかった。
この世界には、トイレというものがない。
体力の残っている者だけが外で用を足せた。
しかしそれができるのは、5人にひとり程度という現実があった。
部屋の中は、糞尿とその臭いで満ちていた。
食事もほとんど与えられず、男か女かも分かりにくい者さえいた。
だから今更、風呂にいれてやると言われても、信じられるわけがない。
「……何だお前は」
一目で将校と分かる立派な制服の男は、姉についていこうとする妹の前に立ちはだかった。男の顔には、ありありと理解できない、というような表情が浮かんでいた。
そして、間を置いて意味ありげに、妹にこう尋ねた。
「神様は、助けてくれたか?」
さかのぼること、1ヶ月前。
この姉妹は、両親から引き離され、このアウシュビッツ強制収容所に来た。
両親はおそらく、オーストリアのマウトハウゼンに連行されただろう。
どちらにしても、地獄であることに変わりはなかった。
男は、直接的には、女子収容所の管轄ではなかった。
女性の被収容者に関わるのは、あくまでも女性の監視員である。
しかし。男はナチス親衛隊の一員であることを利用して——
彼の性的欲望を刺激するような女性が収容されてくると、強姦した。
収容所に入れられると、女性は僅かな期間で見るも無残になる。
だから、女はまだ抱く対象として見れるうちに楽しむのだ。
この男は、連合国の女をモノ以下として扱う、色魔だった。
こともあろうに、男は12歳の妹の方を自室に連れ去った。
姉は、必死で男に
「連れて行くなら私にしてください」
とすがりついて懇願した。
男もちろん、「後で」そうするつもりだった。
姉の方も味見せねばだが、まずは男を知らないはずの妹から楽しむ。
とりあえずすがりつく姉の腹を蹴り上げて、妹を引っ張っていった。
部屋に着くなり、男は妹を一発殴った。
そうしておけば、女はみな恐怖心を植え付けられ——
抵抗しても無駄だ、ということを悟る。
だからいらぬ抵抗もしなくなり、行為中むだな叫び声も上げなくなる。
這いつくばった妹の首根っこを掴んで立たせ、ベッドに投げた。
収容所で支給される、服とはとうてい呼べない布地を剥ぐのは、わけない。
妹に馬乗りになり、まだ幼さの残る唇を貪った。
唾液に、鉄臭い味が混じる。
……しまった。もう少し殴るの、加減すりゃよかった。
非道の限りを尽くしながら、男にはその程度の認識しかなかった。
しかし、男は少し疑問を抱いた。
少女が、泣きもわめきもせず、置物のようにじっとしてることだった。
一体、なぜ取り乱さない?
されるがままにしていることは、男にとって都合が良かったのだが——
何か、釈然としない気味の悪さを感じた。
「……私、信じてるんです」
この部屋に来て初めて、妹は突然声を発した。
男はぎょっとして少女の体から顔を上げた。
「何だって」
懇願や泣き言でないことが、サディストである男の癇にさわった。
続く少女の言葉は、さらに男の劣情に火を注いだ。
「神様は、きっと私たちのすべてを見てくださっています。
きっと、希望を持ち続けて信じていれば、神様は何とかしてくださいます。
私たち姉妹は、そして他の人もきっと、ここから救い出されるでしょう」
「……面白い」
男は、いきなり性行為に及んだ。
相手への思いやりなどかけらもなかった。
未発達な上に濡れてもいない状態でのその行為は、拷問であった。
激痛であるはずなのに、少女は一言も叫び声を上げない。
男は、12歳の少女に負けている気分に襲われた。
それを隠すように、男はなりふりかまわず腰を激しく打ちつけた。
「どうだ
これでも神様は救ってくれるのか?
お前を救う神はどこにいるんだ!
ホラ
言ってみろおおおお」
妹は、叫び声も発さず天井の一点を見つめ続ける。
ガクンガクンという振動に翻弄され続けながら——
一筋の涙が、ツーッと目じりから滑り落ちた。
何度も精を注ぎ込んで。
あらゆるおぞましい道具も試して、望みは達した。
だが、やり場の無いモヤモヤした怒りに襲われた。
次は姉を、と考えていた男だったが——
その気分も失せ、結局手をつけることはなかった。
少女はその晩の出来事で、子どもの産めない体になった。
そこから生きて出ることは不可能だ、と考えたら——
そう変わりはないのかもしれない。
その時の出来事が今、男の脳裏によみがえってきた。
実のところ、男はそれ以来どう普通に振舞おうとしても——
その普通とは、他者にとっての『異常』ではあったが——
気分が優れなかった。
現象的には、自分の方が相手を支配したわけである。
でもどう解釈しても、自分の方が『大人気ない』ように思えてきた。
少女の方が、自分なんかが及びもつかない高い精神世界を生きている。
その怯えから、男は今日まで開放されてはいなかった。
そして、いよいよ姉の方が先にガス室送りになる、ということが男に知れた。
あの時以来、姉妹のことが気になっていた男は、あえてやってきた。
建前上、収容者にお前達をガス室に入れて殺すぞ、なんてことは言わない。
でも、ほとんどの者が何らかの形で気がついているだろうから、同じことだ。
姉との別れに際し、あの気高き少女がどういう反応を示すか。
やっぱり何も助けてくれない。神なんかいない。
そう言うところを見たかった。そして溜飲を下げたかった。
いいや、それは正確ではない。
奥底の無意識の部分では、実は見たかったのかもしれない。
人間なんて、環境に支配される生き物だと思っていた。
絶望的な環境に置かれれば、皆自己中心の醜い生き物になる。
それを見て笑うのが、体制側の人間の楽しみだった。
でも、この子はそれは違うということを証明するだろうか。
例え、自分の身に降りかかる運命は避けられなくても——
その出来事に対する『反応』までは強制できない。
『それに屈しない』『希望を持ち続ける』のを選択できる、ということを。
人の体の自由は奪えても、精神の自由までは奪えないのだ。
今の姉妹は、収容所にやってきた時の愛らしい面影はなく——
最悪の栄養状態の中、皮と骨だけになっていた。
しかし、男を見上げた少女の目には、別の世界があった。
男は、こんな目を見たことはなかった。
しかも、死にゆく姉に自分もついていく、と言う。
そりゃあ、後でも先でも結局同じ、と言えばそれまでだ。
しかし、死に急いでいるようには見えない。
そんな低い次元にいるのではない。
少なくともこの子は……
「神様は、助けてくれたか?」
男がそう聞いたのは、決して冷やかしの意味からだけではなかった。
この瞬間に及んでも、少女が希望を捨てないのだろうか?
少女の魂に、男は関心をもったのだ。
「残念ながら、神様は私たちを助けてくれませんでした。でも——」
「でも?」
「やっぱり、神様はいました」
姉にすがりつき、妹は笑った。
……な、なぜ笑える?
「なんで、そんなふうに考える? 」
自分をひどい目に合わせた男とは思っていないような眼差しで、こちらを見る。
男は、少女から発せられる最後の言葉を聞いた。
この時、間違っているのは自分だ、と明らかに悟った。
「私じゃなくて、いいんです。
いつか分からないけど、この戦争は終わります。
そのあとで、私じゃない誰かが、きっと幸せになります。
それで、いいの。」
「うわあああああああああああああああ」
これを聞いた男は、奇声を発して廊下の向こうに消えていった。
「怖く……ない?」
「ううん、お姉ちゃん」
「よくがんばったね……神様もそう言ってくれるかな」
ガスのゆえに断末魔の叫びを上げる者をよそに——
姉妹はしっかりと抱き合い、身じろぎひとつしなかった。
「うん。この戦争……早く終わる……といい……ね」
二人は、眠るように目を閉じた。
男は、処刑実施後、あの姉妹の死体だけ持ち出した。
もちろん命令違反であり、厳罰の対象である。
しかしもう、男にはどうでもよいことであった。
男は抱き合ったままの二人を引き離そうとしたが、ムリだった。
どんなに力を入れても、姉妹を離すことはできなかった。
あきらめた男は、そのまま二人を墓地に埋葬した。
男は墓石に、こう彫った。
『闇の中の光 ここに眠る』
次の日、男は姉妹の墓の前で死んでいるのを収容所監督に発見された。
死体はうずくまって、祈っているような姿勢であった。
不審死として死体を調べたが、自殺なのか他殺なのか結局分からなかった。
今でもその墓は、収容所跡の小高い丘にある。
そして21世紀を生きる土地の人々を、子ども達を——
見守っている。
わたしはかえらない 賢者テラ @eyeofgod
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