第十三話「百倍スポイト」(3)
(3)
わたしの口がつるつると滑ってしまったために、すっかりとやる気をなくしてしまった金魚屋は、おずおずと、スポイトと瓶を木箱に納めると鞄の中にしまい込み、わたしとプフの顔をうらめしそうに見てから、とぼとぼと、路地の奥へと歩き始めた。大変にわざとらしい動作だった。
「反対だよ」
ちょっと、調子に乗ってけなしすぎたな、言い過ぎちゃって傷つけちゃったかもな、と思ったので、我が家と反対方向に進もうとする金魚屋を引き留めた。
「まあ、待ちなよ、金魚屋。わたしはね、本気で思ってることを、ついつい、口に出しちまっただけなんだ。悪気なんてこれっぽっちも無いんだよ」
「そういう所だよ、ヨタ。悪気がないのに悪口言うなんて、どういう口してんだよ。お前の口こそ、百倍悪口だよ。こんな俺でもね、そこまで言われちゃあ、傷ついちゃうぜ」
「悪かったよ。ごめんよ」
「ちぇっ。ちぇーっ。俺だってよ、良い恰好しようと思ったんだぜ? これ、本当にすごい魔法道具なのによ。びっくりするのによ」
金魚屋は口をとがらせながら、木箱の蓋を開けたり閉めたりした。演技かと思ったけれど、本当に拗ねてしまったのかもしれない。
「ごめんよ、金魚屋。とりあえず信じてやるからさ。その、百倍スポイトとやら、そう、そのすごいやつでさ、プフにくっついたスライムをなんとかしてやっておくれよ。ほら、見てごらん、プフの顔を。痛痒そうな顔をしてるじゃないか」
プフの方へと視線を促す。そこには、わたしと金魚屋の顔を見比べながら嬉しそうに笑う、歯が欠けた女の子がいるだけだった。
「あーあ。スライムも大人しいことだしよ。ヨタの家の近くのクリーニング屋とやらでよ、スライム爺さんとやらによ、ぱっと、とってもらえば良いじゃないか。そうだよ。そっちのほうが確実なんだろう?」
完全にへそを曲げてしまったようだ。失敗したね、言い過ぎた。
「俺は本当にすごい魔法道具屋なんだぜ? 俺は自分のことはなんにも分かっちゃいないけど、魔法道具のことだけは、よくわかったし、それで、今までやってこれたんだぜ。ヨタ。お前の舌がよく回るのはすごいけどよ、もうちょっと、ひとの気持ちってやつを考えて喋ってほしいよな」
金魚屋は、ひどくまっとうで、まともな批判を浴びせてきた。ひとの気持ちを考えろ、だなんて。ううっ。まさか、この男から道徳について諭されるとは思ってもみなかった。
ああ、困った。わたしは謝ることに慣れていないのだ。
「謝るよ、金魚屋。今度からお前さんにも、ほかの誰とも同じくらい気を遣ってやるからさ」
「ほんとうに?」
「本当だともさ。話し屋ヨタは約束は守る猫なんだ」
「指切りげんまんしなくても、か?」
「しっぽの先でやってやるよ」
「おお。それは面白いな!」
金魚屋の顔から、一瞬にして寂しそうな色が消え、すっと右手の小指を立ててわたしの前に突き出した。こいつ、いまのはまるっと演技だったのではないだろうね? そんな気持ちの切り替えの早さだった。しかし、おいおい。本当にやるのかい? 金魚屋はわくわくした顔をしている。自分も加わりたいのか、プフまで、短い小指をぶきっちょに突き立てた。
「わかったよ。やるよ」
わたしはしっぽを器用に使って、金魚屋の指、プフの指にからめてやった。
「ふふふ。いいな、これ」
「きゃはー。くすぐったい。いいな、いいな」
ふたりは嬉しそうだった。なら、いいさ。
「ようし! やる気が出た!」
金魚屋は、パンと膝を叩いた。
「では。ご披露しましょう。これぞ、稀有の大錬金術師にして偉大なる変人マ・シュケール博士が作った魔法実験道具その一、百倍スポイトの力です」
金魚屋は、あらかじめ考えてきたであろう前口上と共に、スポイトの先端をプフの腕、肘のあたりでぶるぶると震えているスライムに近づけた。
金魚屋がポンプを摘まむと青白い煙がぼっと輝く。
その状態のまま、吸い口をスライムのべとべとの体に押し当て、刺激しないように突き立てた。
目玉が動き、体の中に侵入してきた異物を捕らえる。
スライムが見つめる先で、吸い口はゆっくりと動き、体の中に押し込まれた。
そこから先は一瞬で、驚くほどにあっけなかった。
「はい!」
金魚屋の掛け声ひとつ。
しゅるっ、しゅぽんっ。
スライムは、その目玉ごとスポイトの中に吸い込まれてしまった。
「おお!」
わたしは歓声を上げた。
プフの手のひらと同じくらいの大きさだったスライムが、こんなに細いスポイトの中に、すべて、すっぽりと、吸い上げられてしまうだなんて。百倍スポイトは、金魚屋が言う通りの代物、つまり、本物の魔法道具だったというわけだ。
「わああ! おもしろい!」
プフも、大きく瞳を見開いて歓声を上げた。
「凄いじゃないか! 金魚屋!」
わたしは、あいにくと拍手が出来ない体なので、しっぽを左右に勢いよく揺らして素直に感想を述べる。心底驚いた。感心したよ。褒めてやらねばなるまいね。いや、まったく、どうして、金魚屋ったら大した物をお持ちだよ。
「えっへん! どんなもんだい!」
スライム入りの百倍スポイトを指揮棒替わりにして、金魚屋はリズムを取りながらお辞儀をした。いつもだったら腹が立つ態度だったろうけど、なかなかどうして、感心したわたしには様になって見えた。
「コツは力加減です。今回のように異物が混入している場合、あんまり勢いよく吸い込んじゃうと、吸い口が欠けたりするのでポンプを操る力加減には注意が必要です」
金魚屋は得意げだった。にやりと笑った顔にいやらしさはなく、その表情は、信用に足る人物然としていて、頼もしくさえ見えた。ふむ。心象というので、大分とひとの見方ひとつで変わるものだね。いま、そのスポイトを売りつけられたのなら、思わず購入してしまいそうだよ。猫に扱えない商品で良かった。
「金魚屋。よく見せておくれよ」
わたしはねだる。すると金魚屋は上機嫌で「勿論いいぜ、ヨタ。どんどん見てくれよ、ヨタ」と、スポイトをわたしの鼻先に近づけた。
細いガラスの管。そこにはふたつのこぶがついていて、ポンプに近い側のこぶに青白い気体が、もうひとつのこぶの方にスライムが収まっている。驚くことに、スライムの量は、こぶの半分にも満たない。ガラスのこぶは、金魚屋の小指の先くらいのふくらみでしかないのだから、百倍以上に圧縮されてしまったように見えた。そして、スライムの目玉も、植物の種、せいぜいがひまわりの種くらいの大きさにまで縮んでしまっていた。
スライムの目玉はガラスのこぶの中に浮かんで、ぎょろぎょろと動き、自分、いや、自分たちの身に起きた出来事を理解しようとしている様子だ。
スライムという魔物は、しゃべったりは勿論出来ないのだけれど、ああ見えて、知能の方は多少あると聞いたことがあるから、きっと「なんでこんな狭いところに! どうして体が縮んでしまったんだ!」と、びっくりしているに違いない。
「ねえねえ。ぷふもみたい」
わたしの顔に、自分の顔を近づけてきたプフは、そのまま、頬でわたしの頭を押しのけようとする。ただでさえ大きな瞳をらんらんと輝かせていて、その好奇心は最高潮に高まっている様子だけれども、わたしだって、もう少し観察していたいのだからね。わたしも、自分の頭でもってプフの頬をぐいっと押し返した。結果、小さい頭と、更に小さい頭とが、くっ付き合って金魚屋のスポイトの前に並ぶことになった。
「うふふ。嬉しいなあ。俺は嬉しいぜ、ヨタ。それから、プフ。俺の魔法道具は、実にすごいだろう?」
「きんぎょや、すごい。えらい。やればできる」
「そうだろう? やればできるだろう?」
「疑って悪かったよ、金魚屋。わたしは見直したよ」
「おおっ! ヨタあ! おおううおおお!」
歓喜に震える金魚屋が抱き付こうとしてきたけれど、わたしが褒めたらそうするだろうな、と分かっていたので、するりと交わし、プフの背中を伝ってその小さい肩の上に陣取った。わたしの脇腹に、プフが頬をすり寄せてきたけれど、そっちは無視することにした。
「わたしだって、心底感心したなら、それをちゃんと伝える口は持っているのさ。だから、抱き付こうだなんて考えるんじゃないよ。せっかく、お前さんの評価があがったというのに、急降下していったら嫌なんじゃないかい?」
「ぐぬぬ。確かに。いまは、ヨタが褒めてくれたことを、俺も素直に受け取ろう。ふふふ」
金魚屋は一瞬だけ悔しそうな顔をしたけれど、すぐまた、嬉しそうな顔で言った。子どものような笑顔だね。この男は、褒めることで調子に乗せてやった方が、わたしの都合の良いように振舞ってくれるかもしれないな。でも、やはり、そうするのは釈然としないので思い直しておかねば。
「きんぎょや、ぷふも。ぷふもやりたい。やらせろ。やらせろくださいませ」
プフの手がスポイトに伸びたけれど、届かなかった。金魚屋の手がプフの額、いや、顔面を押し返したからだ。それでもプフは「やらせてよう」と金魚屋の手を顔面の力で押し戻す。
「分かった。分かったから。いいぜ。プフの番だな。使わせてやるから、だから、ちょっと待てってば」
金魚屋が制止すると、プフは「ちょっとだけな。ちょっとまつな」と言い返した。
「じゃあ、こいつは瓶に移し替えるからな」
金魚屋は小瓶の蓋を開けると、片手に持ち、百倍スポイトの口をその中に突き刺した。
そして。
しゅぽっ、ぽん!
これまた、あっという間の出来事だった。
スポイトの中から小瓶の中へ、実にあっけなく、スライムは移し替えらえたのだった。
「おお!」
わたしは再び感心の声をあげる。プフも同様に「やりたい! やーりーたーいー!」と、子どもらしい歓声を上げて飛び跳ねた。おっとっと。これだから子どもは乗り心地が悪い。それでも肩の上からは降りないよ。
「ほらほら。金魚屋。そっちの方も早いところ見せておくれよ」
さらにねだる。金魚屋は「勿論いいぜ、ヨタ。どんどん見てくれよ、ヨタ」と、先ほどとまったく同じセリフの後に、わたし達の目の前にスライム入りの小瓶を差し出した。わたしとプフは、再び、お互いの顔を突き合わせた状態で小瓶を観察する。
小瓶の方も確かに魔法道具だったのだ。
元のスライムのサイズよりも、小瓶の方だってはるかに小さいというのに、しっかり収まってしまったのだから、凄いね。まったく、魔法道具ってのは凄い道具だよ。
スポイトの時と変わったところを上げるとすれば、小瓶の容量いっぱい、ほとんど満タンに近い量となったことだろうか。スポイトよりも圧縮率が小さいのかもしれない。目玉のサイズも豆粒大くらいに膨れたようにも見える。
しかし、そんなことくらい微々たる違いだろう。それよりも、見てごらんよ。またしても目玉はぎょろぎょろと動いて「何が起こっているんだ! どうしたらいいんだ!」と、動揺している様子だよ。
「かわいい!」
段々とプフの乗り方がわかってくる。小瓶に収まったスライムを見て、プフは興奮してその身をよじった。
「やるよ。取り替えっこしよう」
金魚屋は、小瓶の蓋がしっかりと閉まっていることを確認して、プフに差し出す。
マルセロの腕付きランタンと交換しようってことらしい。
スライム入り小瓶と、真に取り替えっこしたいのは、ランタンの方のみなのだろうけど、腕とランタンはひっついて離れない間柄なのだから仕方が無い。しかし、プフの手は素早く動いた。
「これはぷふの」
交換は成立しなかった。
スライムの小瓶も奪われてしまった。
プフは、マルセロの腕の方を小脇に挟むと、落っことさないように注意して脇を締めたまま、両手で小瓶を持って、じいっと両の目を近づた。瓶の中で泳ぐ目玉と視線が合わさると「わあ、かわいい!」と叫んだ。そんな目玉付きスライムのどこが可愛いのやら。人間も亜人も、女の方は小さければ何でも可愛いと言いたがる生き物なのだ。小さく縮んでいたって、そいつは魔物なのだからね。
「言っとくけど、転んで割ったりするなよ」
「ばかにするな」
「本当かよ。割れて中身がこぼれたら、元の大きさのスライムに戻るんだからな。気を付けてくれよ」
「わかってる。ぽけっとにいれるからだいじょうぶ」
店主のおやじのシャツは、胸ポケットがある。でも、そこに入れて転んだりしたら、そっちの方が余計な怪我まで負いかねない。
「プフ。歩く時は金魚屋の手を握るんだよ」
わたしが注意すると「しかたなし」と、プフは頷く。
「あとは。そうさ。スライム爺さんを見付けたら、中身は返すんだよ」
「いやだ! ぷふがもらったんだもん!」
プフは小瓶を握りしめると、肩に乗ったわたしに渡すまいと、腕をめいいっぱい伸ばして、わたしから遠ざけてみせた。それから、マルセロの腕付きランタンを、自分の肩の前に持ってくる。盾替わりにしたつもりだろうか。
やれやれ。お前さんの短い腕だなんて、せいぜいが痩せ細った不出来な大根と同じくらいの長さだろうよ。それに、その大根は、わたしの胴体の長さもありやしない。ひょいとやって、ぱっと奪い取るのなんて造作もないことだけれど、取り上げるつもりなんてない。
けれどね。いざ、爺さんを見付けてスライムを返却する段になってから、散々と駄々をこねられても面倒だ。あらかじめ決めていることを子どもに守らせるには、最初が肝心なのでよく言って聞かせないと。
「スライムなんて持って歩いて、どうするつもりだい?」
「かうの」
「飼うだって?」
「かうだってだよ」
「プフ。犬猫じゃないんだ。そいつはスライムだよ? いくらなんでも、お母さんが許しちゃくれないだろう」
「だいじょうぶ。おかあさん、いない」
母親がいない? わたしはプフの顔を覗き込んだけど、プフは小瓶の中に夢中だ。
「どういうことだよ。お父さんは?」
金魚屋も慌てて聞く。
「いないよ。ぷふは、ぷふのみ」
プフはスライム入りの小瓶をうっとりとした表情で眺めながら答えた。
◆
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