第十三話「百倍スポイト」(2)

 (2)


 金魚屋の提案は魅力的であった。


 いくらスライム爺さんのスライムが大人しくしているからと言ったって、スライムなんてどろどろでべたべするものをいつまでも体に貼り付けておくというのは気持ちが悪いだろうし、くすぐったさの挙句、プフの腹がよじれて破裂してしまってもいけない。


 それに、だいたいスライムは魔物なのだ。


 調教されていたって魔物であることに変わりはないのだから、いつ、牙を剥いて(無いけれど)プフの肌を溶かしにかかるかわからない。


 わたしの場合は毛があったから、半袖になるだけで済んだし、毛が生え変わってしまえばいつもの長袖に戻るだけだから良いけれど、プフみたいな毛のない連中の場合、皮膚を直接溶かされてしまい、溶かされた痕は火傷を負ったみたいにただれて醜くなってしまうだろう。いくらなんでもかわいそうだ。


 金魚屋の魔法道具、百倍スポイトとやらで、一刻も早く、プフの体から取り除いてやるのが得策であることは十分にわかっている。


 でも、同時に。


 というよりも、ほとんど自動的に。


 失敗する予感が脳裏に浮かんでしまう。


 そいつは、ひとえに、金魚屋という男、彼自身の信用度の低さのためだ。


 金魚屋との出会いがもっとまともであれば違ったかもしれない。


 身なりや素行もきちんとしていて、目もぱっちりとしていて、アネストとか、ホランドとか、まともな名前があった上で、きちんと自分の素性や生い立ちを覚えていて、品性を備え、言葉遣いが丁寧で、なによりも猫の扱い方にもっともっと愛情を感じられたならば、まったく違っていたことだろう。


 どうぞ、紳士の魔法道具屋さん。その魔法道具でわたし達をお救い下さい、なんておねだりを自分の方から体をすりつけていってしたことだろう。


 でも、目の前の男は、おねだりに値しない男だったのだ。


 そして、おまけに。


 というか、なによりも。


 魔法道具そのものが信用ならない。


 魔法道具なんてのは、昔話やおとぎ話、遠い異国の噂なんかで耳にはするけど、実際に見た者はほとんどいない、それこそ、架空の道具、空想の産物、というのが、世の中の一般常識なのだ。


 それは、魔法道具を生み出す「魔法使い」という連中の数が極端に、極めて、絶望的に、少ないせいもある。


 魔法使い。


 その名の通り、魔法を使う連中で、あり得ないことを現実のものにする存在だ。


 国にひとり、か、ふたり。


 いるかいないか。


 いたとしても、よっぽど大きな国の話だし、そこのお抱え魔導士とか宮廷魔術師とかで、庶民の目に触れる機会はほとんどない。


 例えば、年に数度、国王が国民の前に姿を現して、ありがたそうな言葉を言ってみたり、わがままなタイミングでもって、どこそこ国に戦争をしかけちゃうぞ、なんて宣言してみたりする場面で、うっすらと、後ろの方に控えているのを見かける程度だろう。それも、そういう場面ならば、大抵、望遠鏡で覗いたって見えないくらい遠くからだから、その人物が魔法使いなのか、よぼよぼの爺さんや婆さんなのか、カーテンの模様なのか、魔法使いを見たこともない連中には区別が付くはずが無い。


 もちろん、この世は果てしなく広い訳で、巨漢ルン・ドランカーだとか、双生児バルエラとタラモディス、砂漠のハッタウト、なんていう有名だったり悪名高かったりする魔法使いは実在している。広く知られた彼らならば、新聞や雑誌、書籍などでも、その姿くらいは目にする機会もあるだろう。


 ルン・ドランカーなどは、ただひたすらに白米と酒が好きな爺さんで、魔法使いらしいのは長くて灰色の髭くらいで、とんがり帽子と黒いローブを着ていなかったら、ただの、巨人のデブだ。実際、どんな魔法が使えるのか公表されていない。自由きままなデブなのだ。


 タラモディスに至ってはラジオ電波に乗せて魔法を詠唱したことがあったから、声を聞いたことがあるやつもいるだろう。

 ただし、その時にラジオを付けてたやつらは、相当に不運だった。タラモディスが実験と称して行った「地に足がつかない魔法」によって、今でも地面に足をつけることが出来なくて不便を強いられている連中は、いったい何百人、何千人といるのかわからない。すーっと空に飛んで行って、そのまま見えなくなってしまった遭難者がごまんといる。


 タラモディスの魔法被害者はこの町にも少なからずいて、地面に立てなくて、屋根の上で暮らすはめになってしまったから、ここでは「屋根歩き」などと呼んでいる。屋根歩きについては、ここで生活してれば目にする機会もあるだろうから、その時に。


 国に召し上げられていたり、名前が知れ渡っている連中以外にも魔法使いはいるにはいるらしいのだけど、タラモディスが行った迷惑な魔法実験によって、魔法使いイコール嫌われ者、厄介者のレッテルが貼られてしまったがために、自分の正体を隠したまま人里離れて暮らしていたり、人里に居ても一切素性がばれないように工夫して(それこそ魔法で正体を偽って)生活する羽目になってしまったのだと風の噂に耳にしたことがある。


 そりゃそうだ。わたしが魔法使いだったら、あらぬ疑いや火の粉が降りかかるのは嫌だから、正体なんて黙っているよ。


 結局のところ、一般人、一般猫が魔法使いに出会うなんてことは、まったく、これっぽっちも、無いのだ。


 したがって、それほど数が少なく世間様に顔向けできない魔法使いが作ったという魔法道具なんていうのは、魔法使いと同じかそれ以上に貴重な代物であるし、さらに、その魔法道具を商売の種にしている魔法道具屋というのも、果てしなく珍しい職種と言えるのだ。


「ヨタ。なんで黙ってんだよ」


 スポイトのポンプをしゅっしゅっとやりながら尋ねてきた男が、その魔法道具屋であると言い張るのだけど、正直、わたしは自分の興味本位と直感を信頼して、こいつが正真正銘の魔法道具屋だと信じていいのかわからなくなっていた。


 わたしは金魚屋の顔を見て、それから、プフの腕についたスライム、そして、マルセロの腕付きランタンへと視線を移した。


 金魚屋は、このランタンも魔法道具で、確か、星屑のランタンとか言っていたっけ。


 マルセロのちょん切れた腕が掴んでいる取っ手は朽ちかけた木製で、プフが振り回した時にひびが入ったガラスは透明だけどすすで大分汚れている。「つる」の部分やオイルタンクといった、ランタン本体については、銀か鉄製のようだけど、大分とくすんでしまっていて、ぱっと見て薄汚い印象しか無いのだけれど、よくよく目を凝らしてみれば、マルセロの御守りや、金魚屋がスポイトと一緒に紹介してきた小瓶に刻み込まれていたような、何らか意味がありそうな模様が施されていた。


「ヨタったら。やっちゃうよ? 吸っちゃうよ?」


 金魚屋が再びしゅっしゅっとやる。


 空気が出し入れされるときに、スポイトの胴体、そのふくらみのひとつに封じ込められた青白い気体が、ふいごで拭かれた焚火のように、ぼっぼっと輝きを増す。「おわー。ひかってる。やらせて」とプフが手を伸ばすけれど、金魚屋は「あーとでな」と、角が生えかけた額に手のひらをあてて押し戻した。


「ねえ、金魚屋。お前さんの、そいつは、本当に魔法道具なんだろうね? 信用していいんだろうね?」


 目の前のこの男は、わたしにしか見えない半透明の金魚を連れていて、その一点だけで、相当に特別な人間であるのは間違いないのだけれど、でも、人間としては信用に値しないせいで、本当に、非常に稀な魔法道具屋という商いをやっていたとしても、この町にならば掃いて捨てる程いる、ペテン師野郎にしか見えないのだ。


 この男の、魔法道具とやらは、本当に大丈夫なんだろうね?


「信用? あ、さては手品の道具か何かだと疑ってんだな?」


「そうさ、疑ってるね。お前さんの道具ってだけで心配しかないんだからね」


「俺自身の問題かよ」


 金魚屋は首を振り「ヨタ。無垢な仔猫ちゃん」と、わたしに手を差し伸べ、実に芝居がかった仕草でもって「魔法道具を初めて見るやつは、たいてい、ヨタみたいな反応をするもんさ。でも、百聞は一見に如かず、だぜ。一回俺が魔法道具を使う所を見れば、その素晴らしさにうっとりしちゃうだろうね。そして、俺という魔法道具屋の素晴らしさにも気付いたヨタは、ねえ、他の道具は無いのかい? もっと見せておくれよ、お願いだよお、なんて、朝から晩まで俺の脛のあたりをうろちょろとして、ずうっと、おねだりすることになるんだぜ」と続けた。


 金魚屋は自信たっぷりに、実に晴れ晴れとした顔つきで言った。


 細目から覗いた眼球に、一点の曇りなど無かっただろう。


 なぜなら、金魚屋という魔法道具屋が、自分のことを何にも覚えちゃいないくせに、今からやろうとしていること、百倍スポイトという魔法道具のことを、頭から信用しきっていて、使いこなせる自信に満ちているからに他ならない。


 道具を信用している。いや、それは違うね。


 とにかく、自分のことを信用しているのだ。


 自分のやることは全て正しく、全てが万事、そっくりと上手く行く、ってね。上手くいかなくたって、それは自分のせいではない、とも思っているはずさ。


 そして、金魚屋の仕草やセリフは、わたしが、喋る猫を初めて見たやつに対して、いくつかの決まり文句を準備していて、実際に、何度も何度も繰り返し使い込んできたような、そんな、流ちょうでいて、手慣れていて、実に自然な感じで口をついて出たような、至極当然な振舞いに見えた。


「やれやれ」


 わたしは首を振る。


 きっと、今までもずっと、こうやって魔法道具を売り歩いていたのだろうね。


 この、記憶を失い、金魚だけ連れてやってきた魔法道具屋は。


 その細い目からちらりと見えた光には、わたしやプフを騙してやろうっていう輝きは、まったく、見て取れなかったよ。


 でも、セリフの方はいまいちさ。


「わかったよ。仮にお前さんに素晴らしい所ってやつがあったとしたら、そいつは、わたしに取り付いているノミやダニよりも、よっぽど小さくて見付けづらいのだろうから、その時がきたら、いま、俺は素晴らしいよ! と大声で叫んで教えておくれよ。そうしたら、わたしも、いくらかでもお前さんの素晴らしさってやつを、目を凝らして見付け出してやろうって努力してやるよ。その時には、きっと、こう言うだろうね。やっぱり、金魚屋の魔法道具なんていんちきだったね。思った通り、期待しなかっただけ、損をしなくてよかったよ。さあ、プフ。いんちき魔法道具屋なんて捨て置いて、ふたりで一緒に家に帰ろう。それで、ご近所のクリーニング屋に怒鳴り込んでいって、スライム爺さんの尻を蹴飛ばしてやるんだ。そうしたらすぐに、変なスポイトなんかに頼らなくたって、確実に、スマートに、スライムをとってもらえるんだからね、ってね」


 そうそう。このくらいには舌が回るように日ごろから練習しておかないといけないよ。わたしに言われて、金魚屋は「ひーん」と泣いた。


   §

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