第十話「魔物ゼリー幼女添え」(4)

 (4)


 目を凝らす。「子どもだって?」ようく、目を凝らす。半透明の魔物ゼリーであるけれど、金魚屋の金魚と違って向こう側が透けて見えるようなことはなく、大小さまざまな気泡だったり、苺のつぶつぶのような得体の知れないものだったり、ふたつの目玉らしきものだったり、視界を邪魔するものがいくらでも含まれている。


 目玉、だって?


 わたしは前足で目をこすった。魔物ゼリーの中心近く、ちょうど内臓があったであろう場所に、体外に引きずり出された胃袋の残りの部分があって、それは紫芋のプリンみたいなものに変化しているのだけれど、そこをよくよく観察すると、ぽっかりと、穴が開いている場所があった。ストレスで胃に穴が開いたのかもしれないその暗闇に、光る双眸そうぼうを見付けたような気がしたのだけど。


 ぱちくり。


「ひゃあっ!」


 わたしは飛びのく。胃袋の穴の中から、子どもの顔がひょっこりと飛び出したのだ。金魚屋も、わたしと同じような悲鳴を出した。金魚屋が言った通り、ゼリーの中に子どもが居たのだ。


 紫色プリンの中の子どもは、目をぱちくり、ぱちくりと数度瞬きをした後、「あっ。引っ込んだ」胃袋の中へと戻ってしまった。今度は、顔面の代わりに小さい手が二本穴から飛び出す。穴の周りを掴んで、崩しているようだ。それから、先程よりも大きくなった穴から再び顔を覗かせ、わたし達を見る。


「驚いたね。なんだって子どもが?」わたしは紫プリンの穴から出たり入ったりを繰り返しながら、穴を広げていく子どもを見つめたまま、隣の男に意見を求めてみた。


「分かんねえよ。でも、ひょっとしたら俺達みたいに魔物に食べられてたんじゃないか?」


 それくらいしか考えつかないよね。わたしもそう思うさでも、「胃袋の中に居たかい? こんな子ども」胃袋の中で出会ったのは、なんともしょぼくれた顔をして不思議な金魚を連れた男だけだった。


「俺は見なかったぜ」


「わたしもだよ」


「でも、俺の体は途中で引っかかってたからな。胃袋の奥の方にでも隠れていたんじゃねえのか?」


 そういえば、と思い出してみると、金魚屋の体は魔物の胃袋の途中でひっかかり、肉壁の間で、まるで瓶に栓をしたようにぴったりとはさまっていたね。


 ははん。わたしは思案する。胃袋ってのは腸に繋がっているものさ。ひょっとしたら、この子はそっちの方まで運ばれていたのかもしれないね。魔物からはらわたが摘出された後、わたし達は番犬達によって助け出された訳だけど、この子は体が小さくて誰も気づかなかったのかもしれない。

いや、でも、わたしと比べたらうんと大きい訳だから、ついてなかっただけかもしれない。それでも、消化されずに残っていたのだから、やっぱり運は良かったのだろう。


 もしかすると、魔物の胃袋は、牛と一緒で四つもあったのかもしれない。別の胃袋に納まっていたってことも考えられる。紫芋プリンは、ぐにゃぐにゃとしていて、どこまでもひと塊にも見えるし、途中で別の胃袋になっているようにも見える。魔物のやつときたら、目玉や手足の数もおかしかったのだから、胃袋だって、相当おかしい数を備えていたって不思議じゃないだろう。


 いずれにせよ、この子は、噛み砕かれもせず、消火されもせず、魔物の体の中でちゃあんと生きていたんだ。ラッキーな子だよ。


「ともかく、さ。助けるか?」


 金魚屋は尋ねるまでも無いような発言と共にナイフを構えた。両手で柄をしっかりと握り自分の胸の位置に据える。いつの間にか胸の辺りまであらわになった子どもの、その頭、さらにその上に十分な余裕をもうけたところに慎重に狙いを定める。ここで間違って子どもをズブリなんてやった日には目も当てられないからね。ナイフをゼリーに突き立てようとしてから「いや、こっちか」と、金魚屋が右に一歩ずれる。子どもがいる位置をまったく避けて切れ込みを入れた方が確実に安全だろう。


 意外と冷静に物を考えられる男じゃないか、と一瞬だけ思ったけれど。 


「助けるったって」わたしは言葉を切った。「自力で出て来れるんじゃないのかい?」


 ゼリーの中の子どもは、わたし達の顔と、金魚屋が構えたナイフとに関心を寄せながらも、両手を頻繁に口に持っていく動作を繰り返していた。その動作と連動して、口を上下に動かしている。


 もぐもぐ、と。


 何をやっているかは明白だった。磯蟹が餌をついばむように、周囲のゼリーを食べているのだ。


 ゼリーの中の子どもは、しっかと目を見開き、わたし達をじっと見据えたまま、手を頻繁に動かしては自分の周囲のものを口に運んでいる。自分の周りのゼリーやらプリンやらを、あますことなく食べてやるぞ、という気概に満ちた目をしている。そんな風に見えた。幾度か、げほげほっ、とせき込む音すら聞こえてきそうなほどむせ込みながらも一心不乱にむさぼり食べているのだ。


「食べて、大丈夫なのか?」


 金魚屋の問いかけが聞こえたかどうかはわからないけれど、魔物ゼリーの中の子どもはにたあっと笑ったように見えた。手についたゼリーをべろべろと舌で舐め取っている。金魚屋は物欲しそうな顔をして唾を飲み込んだ。


「試してごらんよ。現にあの子は美味しそうに食べてるじゃないか」


 ばくばく。


 むしゃむしゃ。


 ごくん。げほっ、げほっ。


 食べるのを止めない。まるで何かに憑りつかれたように、次々に手づかみで口の中にゼリーを放り込んでいく。あの顔は、あの目は、美味しい物を前にして、自制が効かなくなったやつのそれだよ。わたしも、小魚を醤油と生姜で炊いたやつを前にしたらああなる。じゃこのやつも美味しいけれど、鰯くらいの大きさは欲しい。勿論、骨はトロトロになっていなければならない。他に具はいらないけれど、三つ葉なんかが添えてあれば洒落ていて良いじゃないか。まあ、そんなものは最初だけで、一心不乱にがっつくだけなのだけどね。


「うん、まったく、美味そうに食べてるなあ。ああっ! でも、俺には無理だ。勇気が出ない!」


 わたしだってそうさ。甘い物は嫌いじゃあ無いけれど、そいつの原材料が魔物となれば話は別さ。いくらその子がむしゃむしゃと食べているからといって、さも美味しそうな顔、得も言われぬ表情で口を動かしているからといって、今更、食べてみようだなんて思えなかった。でも、子どもの表情を見ていたら食べてみたくなるのだから、試しに、自分の中の勇気だとか蛮勇さだとか、無謀さ、とかを見付けてみようとしたけれど、心臓のへりにも、髭の先にも見つからなかったから、ほっとした。


 しかし。この子は、魔物ゼリーなんか食べてお腹を壊さないだろうか。そんな怪しいものを食べるのはおよしよ、なんて声に出して言ってみたところで、ゼリーの肉厚に阻まれて中には聞こえないだろうし、もう食べてしまっているのだから手遅れだ。


 それに、相当手遅れだろう。


 子どもは内臓ゼリーを食べつくすと、体の部分も食べ進めていって、ほどなく、わたしと金魚屋の目の前にまで到達した。


 魔物ゼリーの中から、にゅっと子どもの小さい手が突き出す。


 すると、ゼリーが弾けた。


 ぶしゅー。


 赤いジュースと一緒に子どもの体が勢いよく吐き出された。


 そして、そのまま、勢いに任せて、子どもはべちゃっと前のめりに床に倒れ込んだ。墨汁滴る筆のように、バケツの水を含みすぎたモップのように、長い髪が床に貼り付く。顔面も道連れに。


「ぶべっ」


 蛙でも潰れたような声が漏れた。


 ゼリーの中から現れた子どもは、胃袋の中で溶けてしまったのか、赤いどろどろまみれの体には、布切れが多少ひっついているくらいで、衣服を一切まとっていなかった。 ゼリーと同じくらいぷりんとした艶のあるお尻を天井に向けて突き出し、顔面を床に押し当てたまま、小刻みに震えている。


 実に、実に痛そうだ。


 しかし、子どもは鳴き声を上げることなく、尻を左右に振るだけだった。その可愛らしい尻には、わたしにとっては見慣れたものだけど、金魚屋にとっては親しみに浅いものが生えていて、尻の動きに連動してぴこぴこと動いていた。


 しっぽだ。


 毛はうっすらと産毛が生えている程度で、まるでホットドッグに挟む細長いウィンナーのような、ごぼうよりも短く、人参よりかは長い、中途半端な長さと太さのしっぽだった。しっぽが生えているやつは沢山いるのだから珍しい訳じゃあないのだけれど、目を引いたのはその先端さ。先端は尖っていた。だけど、わたしのや、トカゲっぽいひと達のそれと違って、先細りしておらず、逆に膨らんでいるのだ。膨らんでいるといっても玉が付いている訳じゃあない。おでんのこんにゃくか、厚揚げか、はんぺんか、とにかく三角形に尖っていて、ひしゃげていた。その部分だけはちょっと硬そうな感じがする。ミミズの親戚みたいなやつに、そういう形の頭を持ったやつがいたね。魚の尾ひれにも見えなくはないけれど、大分と遠い。とにかく変わっていて、初めて見る形だった。


 わたしと金魚屋は顔を見合わせて、口々に「大丈夫かい?」「生きてるよな?」と声をかけた。


「ぷふっ」


 その子は両手を床に着くと勢いよく顔を上げた。その拍子に髪についたゼリーが辺りに飛び散る。わたしと金魚屋は驚いて後ずさった。


「ぷふっつ、りんほふ。のひー。ぷふっ、げほっ、えほっ」


 子どもは聞いたことが無い言語を喋り、ゼリーの食べかすを辺りに撒き散らした。単に口の中がまだゼリーでいっぱいなのに無理して喋ったからそんなことした言えなかったのかもしれない。子どもは、わたしと金魚屋の顔を交互に見ながら、もぐもぐと口を動かして、中身を咀嚼し、飲み込んだ。


 わたし達を見るそのふたつの目は、好奇心の塊だった。とても大きく見開かれ、瞳の中に宇宙が広がっているかのように、キラキラと輝いており、それからとても綺麗な緑色をしていた。深い森の中、迷い込んで出会った苔むした湖のようだ。おお、なかなか綺麗な表現じゃないさ。でも、まさにそんなイメージだった。まつ毛も長く、まばたきするとバサバサと揺れた。


「だ、大丈夫かい?」


 子どもの顔を覗き込み、わたしはもう一度声をかける。


 子どもはわたしと目を合わせたまま、指についたゼリーを舐めとっている。十本の指を丁寧に舐め終えると「ねこっ」と幼い子ども特有の甲高い声を上げた。


 にんまりと笑う。


 歯が一本抜けていた。


 子どもがわたしに向かって腕を伸ばして来る。子ども、というだけで嫌な気配を感じ取っていたわたしは、既に、すぐには手が届かない場所まで距離を取っていた。子どもの腕に着いていたゼリーがわたしと子どもとの間にべちょっと落ちる。


「あっ」


 子どもは床に落ちたゼリーを拾って口に運んだ。汚いよ。ゼリーにくっついた床のごみまで一緒に食べたように見えた。


 ずるずる、ごっくん。魔物ゼリーは余程美味しかったに違いない。腕や体についたゼリーを、猫のように、べろべろと舐め取っている。それからにやりと笑って「ぷふっつりんほふ、のひー。どっどこどーん。どんどーん」と、訳の分からない言葉を喋って立ち上がり、両腕をばたばたと動かした。


 立ち上がっても金魚屋の腰の辺りまでしか身長は無かった。店主のおやじより小さいかもしれない。胸は真っ平で、またぐらもつるっとしている。しっぽの他にぶら下がっているようなものが見受けられないから、わたしと同じ女であるけれど、歳は随分と若く、生まれてそんなに経っていないと思う。仔猫みたいなもんだろう。髪の毛とまつ毛、眉毛以外に体毛は生えておらず、耳も尖っていない。


 ほとんど人間の子どもに見えるけど、しっぽが生えている時点で亜人の子に違いない。


「ねこ! まーすた! ぷふっつりん。ふぁーらんどん」


 女の子はわたしと金魚屋を指さす。訳のわからない事ばの中に、聞き取れるものがひとつだけあった。「ねこ」の部分は間違いなくわたしのことなのだろうね。指までさして猫って言ったのだから。


「そうそう。わたしは猫さ。喋るけどね」


「ねこ! しゃべった! かわいい!」


「おお。喋れるじゃねえか」


「まーすた! でかい! ひと!」


「まーすた? 俺のことか? でかいひと、だぜ。そうそう。高身長だからな。俺は金魚屋だぜ」


 金魚屋が自分のことを指さす。


「ねこ! きんぎょや? たいらん? すているあん? どっどこどーん!」


 女の子は、興奮した様子で金魚屋とわたしとを交互に指さし、何かを伝えたいような、でも一向に伝わらない言葉と大げさな身振りで訴えかけてきた。


「ヨタ。俺にはこの子が何を言ってるのかさっぱりわからん」


「わたしもだよ」


「ねこっ、ねこっ。しゃべった。かわいい」


 女の子はわたしを抱っこしたくて仕方が無いと言った表情を浮かべている。それだけはわかるのだけどね。


「ヨタ。猫、喋った、可愛いと言ってるぜ」


「ああ。そうだね」と言ったわたしに悔しそうな顔をした金魚屋は「俺は? 金魚屋、かっこいい、男前」と、女の子の前にしゃがみ込んで言った。


「きんぎょや? へん」


 目の前の男の感想を短く伝えた女の子に、わたしは思わず噴き出した。


「分かってるじゃないか。よく理解しているよ、この子は」


「腑に落ちない」


「ぷふっつりんほふのひー」


 女の子は万歳をした。ガッツポーズかもしれない。いずれにせよ、理解出来ない言葉と共に表現された身振りからは、意図も意味もさっぱり伝わってこなかった。女の子は、わたしと金魚屋に理解出来る言葉もあれば「どっどこどーん。もるでるん。ぷふつりんほふのひー」とまったく意味を成さない言葉も操って、なんだかんだと語り掛けて来た。


 わたしはある結論に達する。


「商売柄、結構な国の言葉やいろんな種族が使う言語は知っている方なんだけどね。この子が扱ってるのは、子ども言語だよ」


「子ども言語?」


「そうさ。その起源はバブバブ言語までさかのぼる」


「何だよ、そりゃあ。つまり、ちびだから上手くしゃべれないっていうことか?」


「要約するとそういうことさ。この子は赤ん坊に毛が生えたくらいなものなのさ」


 わたしは首を左右に振って見せた。これくらい小さい子どもは、赤ん坊からいくつも成長しておらず、まだ、まともな言葉なんていくつも喋れないものなのさ。そもそも言葉を知らないのと、上手く舌が回らないのだろう。


 わたしの場合は、ええっと、覚えちゃいないけど、きっと仔猫の頃はニャアニャア、フニャフニャなんて、喋っていたに違いないよ。


 しかし、背格好からすると、亜人を人間に例えるのはそもそも正確さに欠ける訳だけど、人間の子なら四、五歳にはなっているように見える。けれど、つたない言葉からは二、三歳にも感じられた。亜人というのは成長度合いも種々様々だからよくわからない。


「ふうっ」


 女の子は喋り疲れたのか、わたし達に伝わらない事を悟ったのか肩をすくめて首を左右に振って見せた。


 わたしの真似をしたのだろうか。


 わたしの仕草は、もうこれ以上喋ったってらちがあかないよ、って意味だったのだけど。


 女の子はくるりと尻を向けると身を屈めた。わたし達の方を振り返ると「ぷふっつりんほふのひー」と言ってしっぽをぴんと立てると、尻の穴を見せながら、再び魔物ゼリーの中に入って行ってしまった。


「え、ちょっと」

「おいおい。どこ行こうってんだよ」


 女の子の行動に、わたしは声だけ上げただけだったけれど、金魚屋の方は四つん這いになってその後を追いかけた。


「待て待て、ストップ。お前、ちょっと、待ってくれよな。いったい何がしたいんだよ」


 魔物ゼリーの中に半分体を潜り込ませると、女の子を捕まえて引っ張り出した。


「わーわー」


 金魚屋に抱きかかえられた女の子は両手をじたばたさせて暴れていたけど、その手には何かを掴んでいた。


 それは、古びたランタンと、鱗が生えた片腕だった。


「うわっ! 驚いた!」


 わたしもだよ!


「俺のランタンじゃないか」


「いや、腕! 腕の方だろうよ!」


「ヨタ、これだよ。これが星屑のランタンだよ」


「だから、そんなものより、腕の方だろうってば」


「わかってるって。この腕は、ひょっとしてもしなくても、あのカナヘビ野郎の腕だぜ」


「ああ、間違いない。マルセロの腕だ」


「なんてこった。俺のランタンは、あいつの腕と一緒に魔物に食べられちまってたんだな」


 マルセロの千切れた片腕は、ランタンの取っ手の部分をがっしりと掴んでいた。わたしのしっぽの時と違って、二度と開くことはなさそうだ。死んでも離すものか、と固くきつく握りしめられていた。それこそ、死後硬直というやつだ。わたしは思い出し、身震いした。しっぽがじんじんするような気がするよ。


 金魚屋は「ほら、返してくれ」それらを女の子の手から取り上げようとした。


 けれど。


「ああんあー。ぷふっつりん。ぷふっつりんほふのひー。ぷふの、なのー」


 抵抗された。


 マルセロの腕も、子どもの腕も、金魚屋のランタンを返したくないようだ。


「何だよ、気に入っちまったのか?」


「ぷふー。ぷふー」


「俺のお気に入りなんだよ。返してくれよ」


「やーだー。ぷふ。ぷふの、のひー」


 女の子はマルセロの腕とランタンとを胸にしっかりと抱きかかえると、頬をぱんぱんに膨らませ。尻を左右に振りながら抗議を現した。それでも手を伸ばしてくる金魚屋に向かって「わんわん!」と威嚇している。


 金魚屋は子どもの駄々に悩むお父さんみたいな顔になっていた。


 ふたりは、ぎゃあぎゃあ言い争いを始めてしまった。


 ああ。


 はあ。


 わたしは、急に疲れが押し寄せて来たのを感じる。


 朝からばたばただった。


 あっちこっちで騒動に巻き込また。


 初めから思い起こしてやろうかと思ったけれど、思っただけで、もう霧の向こうに現実逃避に出掛けようなんて気にも、元気もなかった。


 わたしは、ああ、いま! どっと疲れたよ。


 色々あった。


 挙句、魔物に食べられた。


 そこで、不思議な金魚を飼っている、飼っているわけではないか? 記憶喪失の男に出会った。


 金魚屋だ。金魚屋、ということにした。


 魔物の胃袋から助け出された後、メガラテに出会った。


 マルセロにしっぽを鷲掴みにされた。ゾンビかと思って恥ずかしい騒ぎを起こしてしまった。


 マルセロが礼にとくれた御守りは、魔法の御守りだった。金魚屋は魔法道具とか言っていた。


 その魔法で、魔物はゼリーに変わってしまった。


 番犬達と店主のおやじにも、何かの魔法がかかって、眠ったり、気絶したり、その辺はよく分からないのだけど。


 びっくりすることばかりだった。


 ああ、その前に。


 金魚団子にも驚かされたのだっけ。


 最後に、女の子どもが現れた。


 そして、いま。


 マルセロの腕付きランタンを金魚屋と取り合って、わあわあ、ぎゃあぎゃあ、どっどこどーん、と暴れ倒している


 もう、訳がわからない。


「疲れた」


 めまぐるしい一日だった。


 いや、まだ朝か。夜が明けて、どのくらい経ったんだ?


 うん? ひょっとすると、もう昼前なんじゃないか?


 壁の穴から見えていたお日様も、いつの間にか見えなくなってしまっていた。もう、すっかりと高いところまで登ってしまったのではないだろうか。それは、まずいよ。まずい。


 それから、と耳を澄ませる。


 店の中からは女の子と金魚屋の争う声の他に、番犬達のいびき声が聞こえていた。そこに外の方から、別の音も混じって聞こえてきていた。がやがや、どたばた。こいつは、近所のひと達が集まって来たのかもしれないぞ。


 やめとくれ。


 いま、この場に居ない誰かがやってきたならこう言うだろう「これはどういうことだい?」ってね。そんな問いに答えられる訳が無いじゃないか。わたしには、何が起こったのかさっぱりわからないのだからね。それに、もう、こちとらへとへとで口を動かすのも億劫になってきているんだ。話し屋ヨタの口が疲れるのは、そらあもう、相当に疲れて、舌の根に深刻な疲労が蓄積されている証拠なのさ。


 もうこれ以上の面倒ごとには付き合っていられないよ。


「ふたりともいい加減におしよ!」


 わたしは力を振り絞って言い放つ。ぴしゃり! 切れのある一声に、金魚屋と女の子がわたしの方を見る。


「わたしは早く家に帰りたいのさ! いつまでもじゃれてるようだったら、わたしだけ先に帰っちまうからね!」


 金魚屋と女の子は顔を見合わせた。


 魔物ゼリーは、女の子が平らげた部分に向かってぐんにゃりと変形していた。おまけに、時間が経ったせいなのか、気温が上がってきたせいなのか、全体的に溶け始めており、元がどういう形だったのか、元の魔物だった頃の姿を知らない者ならば、なおさら、単なる馬鹿でかいゼリー状の塊としか認識できないような形にまで、変化してしまっていた。


 店のドアを開けるのに、もはや邪魔になることは無い。ドアノブに飛びつけば、わたしの体重でもドアを開けることは容易いだろう。


「そうだな。うん、そうだ。帰ろうか」


 金魚屋は女の子の顔を一度見ると、わたしに向き直って言った。


 女の子はマルセロの腕とランタンを大事に抱えたままだ。


 捨てて帰る訳にもいかない、のだろうね。


 金魚屋も女の子も、ランタンもマルセロの腕も。


 腕の方は後で病院に届けてやったら、ひょっとしたら持ち主の腕にくっつくかもしれない。わたしが知っているトカゲっぽいひとのは確かくっついたはずさ。


 わたしは改めて金魚屋と女の子を見る。


 こうして見ると父と娘みたいだね。


 そういえば金魚屋の歳はいくつなのだろうか?


 子どもが居たっておかしくない年齢なのではないだろうか?


 それすらも忘れているというのだろうか。


「うん?」


 わたしの視線をいぶかしんだのか、勝手に解釈をして「まさかこの子を置いてくつもりじゃないだろうな?」と尋ねられた。


 金魚屋は女の子の手を握っていた。


 金魚屋の、細すぎる目の奥に、不安の色を感じ取る。女の子よりも、よっぽど、心細そうだ。まったく、わたしときたら。随分と短い間に、やたら細いところが気に掛かってしまうようになったものだよ。雨の日なんかに路地の奥に目を凝らすとね、たまにいるだろう? ずぶ濡れになった仔犬が。この男は、やたらめったらと、俺は世界から見捨てられちまったんだよ、というような表情をするのだから鬱陶しい!


 金魚屋とは対照的に、女の子の方はと言えば、見るからに、これから始まる新しい一日にわくわくしているし、これから連れていかれるところだって、自分が期待する通りかそれ以上のわくわくが待っていると信じて他ならない、そういう顔をしていた。それは単に子どもらしい屈託のない表情だったけれど、それとは別の、この子の本性というか、底抜けのポジティブさみたいなものを感じ取った。いや、気のせいか? 何を考えているのか、わたしの頭はうまく回っていない。とにかく、女の子と金魚屋は対照的だった。


 わたしは溜息をひとつ付く。


「連れて行けばいいじゃないか」


「親を探してやらんとな」


「ああ、そうだね」


「それから俺の記憶探しもな」


「はいはい」


「ヨタあ。ヨタよお」


「情けない声を出すんじゃないよ。ふたりとも、捨て置いたりしないから」


 わたしが答えると金魚屋は明るい顔で「そうだよな! 俺もこいつも置いて行ったりしないでくれよな。ちょっと、布を探してくる」と言って店の奥に走って行った。


「布って。金魚屋、店主のおやじの服があるだろうから、そいつを取っておいでよ」


 わたしは大声で言った。裸の子に着せる物を探してくるのだろう? だったら、店主のおやじと女の子は背丈があんまり変わらないようだから着られるはずさ。


「そうだ。それから紙と筆も探してきておくれ。メガラテに言付けを残しておかないと」


 金魚屋はよれよれになったシャツを一枚掴んで戻って来ると、女の子の頭から被せた。蝶ネクタイもひっぺがして来たようだけど、そいつはいらないからね。


「ぷふっ。くさい」


 女の子は嫌がってシャツを脱ごうとする。


「おっさん臭いけど、我慢しろよ」


「おやじが着ていたやつを脱がしてきたん、じゃないだろうなと思ったけど、そうなんだね」


「だって、他の服をどっかにしまってるかななんて、分かる訳ないじゃないか」


「やれやれ」


「で? 紙もペンもちゃんと取って来たぜ。なんて書くんだ?」


 金魚屋は壊れかけのカウンターの上に紙を広げた。


 わたしはカウンターに飛び乗る。


 そこに日めくりカレンダーが数枚、裏向きに置かれていた。


「おやまあ。こいつはまた、迷惑をかけそうな紙を選んで破ってきたもんだね」


 店がこんな有り様だったら気が付きゃしないか。いや、でも。店主のおやじは几帳面だからなあ。たとえ店が爆発していたって、何がどう変わってしまったのか、いちから説明を始めるかもしれない。まあ、どっちだっていいや。


 メガラテには先に店を出て家に帰ったこと、明日の正午に地獄の蓋の所で待ち合わせをしよう、という内容の伝言を残す。別の紙におやじのシャツを借りたことも書いてもらった。


「金魚屋。わたしの足に墨を塗っておくれ」


「なんで? 猫拓でも取るのか?」


「サインさ」


 金魚屋は、ああ、と合点が言った顔をすると、にやりと笑った。


 前足にインクを塗ってもらう。


 くすぐったい。


 わざとくすぐったくなるように塗ってるな。


「なになにー」


 カウンターの下で女の子が目を輝かせながら飛び跳ねている。びたんびたんと足音を立てながら何度も跳ねるが、ほんの数センチしか床から浮き上がっておらず到底カウンターまでは届かない。ジャンプ、下手だなあ。


 わたしはぽんっと肉球のスタンプを残した。


 これでわたしからの伝言だって気が付くことだろう。言伝は、金魚屋に頼んでメガラテの買い物袋と、おやじのズボンのポケットにそれぞれ入れて来てもらった。


「それじゃあ、帰るとしようか」


「ああ。帰ろう、帰ろう」


「金魚屋、お前さんも明日の昼に地獄の蓋まで来ておくれよ」


 鞄を取って来て女の子の手を引いた金魚屋は「え?」と目を丸くした。


「お前ん家に行くんじゃないのか?」


「はあ? どうして?」


「え? え? てっきりそうだと思ったんだけど」


「どうして見ず知らずの男と子どもを連れて帰らなくちゃいけないのさ」


「だって、俺、宿なんて取ってないし。そうだよ、大体、この町に着いてすぐに魔物に食べられちゃったんだもん。そんな暇無いよ。それに、この子どうするんだよ。俺みたいな大人が、こんな素っ裸の子どもなんて連れて宿に入って見ろ、そりゃあもう、めちゃくちゃ変な目で見られるじゃないか」


 シャツは着ているものの半裸で、さらにゼリーでべちゃべちゃの子どもと、それよりもさらに汚い毒きのこみたいな男を受け入れてくれる宿屋は無いだろう。


「はああああ」


 わたしは深く深くため息をついた。


 こんな小さな女の子を、頼りない魔法道具屋だかなんだかと一緒に、危険で溢れた我が街に放ってしまうなんて出来やしない。


 わたしは心の中でもう一度深くため息をつくと「分かったよ」とカウンターの上から、何事か期待感を膨らませている表情の金魚屋と、「なになにー」とやたら楽しげに低空飛行を続ける女の子とを見下ろした。


「とにかく。ふたりとも、我が家に招待するとしようか」


 わたしの言葉に金魚屋は「いえーい」とあからさまに喜んで見せた。女の子の方も「ぷふー」と金魚屋の真似をしてガッツポーズをした。


 こうして、わたし達はようやく店を後にしたのだった。


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