第十話

第十話「魔物ゼリー幼女添え」(1)

 第十話


 (1)


「ヨタ。ヨタ? 大丈夫か?」


 ふう、ふう、とお腹の辺りが熱かった。


 そろりと目を開くと、金魚屋がわたしの腹に顔面を埋めていた。


 金魚屋の胸にわたしが抱かれていたはずなのに、わたしの方が金魚屋の顔面に抱き付くような態勢に変わっていた。なぜそうなったのかは全く分からないけど、転がった拍子にこんがらがったんだ、と思い込んでおくことにする。


 すぐに離れたかったけれど、出来なかった。出来ないように思えた。わたしと金魚屋は随分と狭苦しい所に押し込まれていたのだ。


「金魚屋。これはどういうことだい?」


 これは、というのは、この光の渦のことだ。


 わたしと金魚屋の周りには、もの凄い数の金魚達の姿があった。大きさや種類、体の模様も様々な金魚達が、わたし達を取り囲んだまま時計回りに泳いでいる。


 金魚屋の半透明の金魚は、一匹だけであれば周囲の景色に同化してしまい、ほとんど見えないくらい希薄な存在だった。


 けれど、無数の金魚達が幾重にも重なりあって泳いでいる姿は、金魚の川か、金魚の竜巻か、今までは夢の中の存在だったものが現実に現れたような、実際、金魚屋の金魚は彼とわたしにしか見えない存在なのだけど、いまや、圧倒的な存在感を持ってわたし達を取り囲んでいた。


 しかしながら、金魚の輪郭、境界はあくまであいまいなまま、一体が二体に、三体が一体に、まるで分裂と融合を繰り返しているようにも見え、姿形を変えていくようにも見えた。金魚の体はこんなにもぼんやりとしているというのに、渦巻く無数の目玉だけは、はっきりと、ぎょろり、じろり、とわたし達に無数の視線を浴びせていた。


 改めて、金魚屋の金魚の得体の知れなさを感じたけれど、不思議と怖い思いはしなかった。


 ただただ、こいつらは一体何者なのだろう、何でこんなに増えているんだろう、という疑問符だけが金魚の数だけ湧き上がってきた。


 ここはとても狭い。


 金魚団子と形容するのが一番正しく思える塊は、人間一人と猫一匹を収容するにはあまりにも手狭だった。


 さっきから、わたしの髭を撫でる金魚の数は一匹や二匹の話ではない。


 撫でる、と言っても実際にはすり抜けていくだけなのだけど、存在感を増した金魚達からは、空中をかき分けるひれの音や、口を開け閉めする音すらも、聞こえてきそうだった。わたしと金魚屋の体にぎりぎり触れるか触れないかの辺りを金魚達はわざわざ選んで泳いでいる、そんな感じがした。金魚密度が高すぎて、床も壁も天井も見えやしない。


 そういう状況だったから、金魚屋は、猫がそうするように、その身を抱えて丸くなっていた。そこに、その顔面に、わたしが自分のおっぱいを押し当てへばりついているのだ。金魚達に隠されていなかったら、なかなかにばつが悪い態勢だったに違いない。


「これって、これのことか?」


 ふう、ふうとお腹に息を吹き掛けながら金魚屋が分かり切ったことを問う。


「分からないよ。俺も初めてだもん。こんなに金魚が増えたの」


「さっきも増えてたみたいだけど?」


「ああ、そうさ。俺の金魚はびっくりしたら増えるんだ」


「びっくりしたからって、これは、いくらなんだって増やしすぎってもんじゃないかい?」


「増やしすぎ? そんなこと言われたって、なあ。意識して増やしたり減らしたり出来ねえんだから。仕方ないだろう」


「でも、そうだ。あれはどういうことだい? さっき、お前さん、マルセロの御守りを手に取ってた時に金魚がどうこう言ってたじゃないさ」


「言って、たっけ?」


「言ってたよ。こいつらがこうなってる時には何かあるって、ね。何かは分からない、とも言ってたようだけど」


「分かってるよ、言ったのは。でも、違うんだ。分かって無いんだよ」


「はあ?」


「察してくれよ。思い出せないんだって」


「察して、って。ああ」


 記憶喪失。金魚屋は、自分の正体も、半透明な金魚が何者であるのかも、覚えちゃいないのだったね。


「小骨が引っ掛かってる感じだよ。ちょっと、思い当たった節が、あったような気がしたのになあ。それでポロッと口から出てきた言葉だったんだよ。そうだな、うん。さっきのはびっくりしたから増えたって感じじゃなかった。ああいう増え方は、初めて、うーん、いや。前にもどこかで、あった、ような気がするんだけどなあ」


「思い出せないかい?」


「やってみる」と言った後すぐに「うん、駄目だ。やっぱり駄目だわ。思い出せない」


「なら、お前さんの金魚が団子になっちまった原因は、とりあえず横に置いといて、だ。この状況、どうにかならないもんかね?」


 狭い狭い金魚団子の中、このままずっと、暑苦しく息を吹き掛けて来る金魚屋の顔なんかにへばりついているだなんて、相当うっとうしいし恥ずかしいので、早いところ別々になりたかった。


「俺は、ぎゅうぎゅうなのが返って落ち着く気がするんだけどな」


 金魚屋はわたしの腹の中で顔を左右に動かしながら、そして、大袈裟に口を開け閉めしながら、わざとらしく息を吹き掛けてくる。癇に障る男だよ。


「まあ、でも、いつまでもこのままじゃ、いかんよな。どれ」


 金魚屋は、金魚の渦に手を伸ばした。すると、今までとまったく同じで、金魚は、金魚屋の手のひらをすり抜けていき、そのまま泳ぎ続けていった。


「出られそうかい?」


 所詮は実体の無い金魚なのだから、かきわけていく必要はなく、前にさえ進めば、そのままするっとすり抜けて、容易く団子の外に出られそうなものだけど。


「あれ? なんか、ちょっと、痛いかも。ピリピリする」


 しばらくの間、金魚の渦の中に手を突っ込んでいた金魚屋は、そう言って手を引っ込めた。それから、確かめるように再び手を突っ込んで「わっ。やっぱり、ピリピリする! クラゲに刺されたみたいだ」と、手を引っこ抜いた。


 手のひらをヒラヒラさせるが、わたしが見る限り金魚が刺した様な形跡はない。わたしは痛い思いはしたくないから、確かめてみようなんて思わない。


「ピリピリしたんだよ! ええっ! ピリピリとか、絶対に、初めてな気がする。普通、すり抜けるんだぜ? なあ、ヨタも見てただろう。なんか、ショックだ」


 金魚屋は落ち込んだ声を発した。


 飼い犬に手を噛まれた気分だろうか。


 ペットなんて飼ったことが無いから分からないけど。


 じゃあ同居人に引っぱたかれた心境かもしれないな。


 わたしは引っぱたかれたことなんて無いけど。


「いや、でも。もう一回チャレンジしてみよう。ちょっとヨタ、顔の前からどけてくれ」


「わっ。や、やめてって」


 わたしは金魚屋に掴まれると、顔から引き離されて胸のところで抱きかかえられた。さわさわと背中の毛を金魚に撫でられた気がしたけど、金魚屋と違ってピリピリとするようなことは無かった。


「ヨタ、捕まっててくれよ」


「え? わっ。急に手を離すんじゃないよ」


「ようし。やるぞう。お前ら、道を開けよ」


 金魚屋は両手を合わせると、そおっと金魚の渦に差し込んだ。


「ひゃあああ。ピリピリする。うわあ。チクチクっと、ひゃあ、ゾクゾクする。ほらほら。ちょっと、外がどうなってるか見るだけだから。お前ら、どけてくれ」


 顔をしかめながら、合わせた手と手を開いて行く。金魚団子に切れ目が生じた。


「おおっ。割れて来た。行けそうな気がするぜ。それに、ピリピリも、慣れてきたら、おほほ、案外と痛気持ちいいって言うか。おい、変な顔で見るなって」


「顔色ひとつ変えちゃいないし、ひとの趣味に口を挟んだりしないさ。で、どうだい? そこから覗いたら外の様子が見えるんじゃないのかい?」


「気になる言い方だなあ。でも、ああ。もうちょっと広げてみよう。ほら、みろ。金魚も素直になってきたぞ。もう、ピリピリしない。どれどれ?」


 金魚団子をかき分けて切れ目を大きくしていく。金魚達は、相変わらず金魚屋の腕の方はすり抜けていくのだけど、切れ目になった空間の方は避けて泳ぐようになった。


「見えた見えた。おおう。赤い煙が充満してるぜ。ほら、爆発する時、赤い煙出たろう? たぶんあれだ」


「わたしにも見せておくれよ」


「いいぜ、ほら」


 金魚屋に両手で掴まれて金魚団子の切れ目から外を覗く。


 そっちが上だったのか。店の天井が見えた。金魚屋が言う通り赤い煙が店内に充満していたけれど、それだけで、もっと爆発の衝撃で屋根まで吹っ飛んでしまっているのではと期待したのだけど、大方、天井の様子は元々のままだった。あの大爆発は、大量の赤い煙を吐き出して終わったようだった。そして、その煙は一方向に向かって動いていた。店の壁に開いた、魔物が入ってきた穴から外に流れ出ているのだと思った。


「すぐに煙は晴れそうだよ」


「そうなのか? 代わってくれ。おお、本当だ。真っ赤だったのにな。もっと広げてみよう」


 金魚屋の胸に戻る。今度は金魚屋に片手で抱えられる恰好になった。しっかりとお尻を触られる。残った方の手で、切れ目を広げていく。しっ、しっと追い払うように。


 するとどうだろうか。


 フワッとか、バッとか、実際に音はしなかったけれど、急に金魚団子が切れ目から弾けたのだ。


 金魚達は四方八方てんでんばらばらの方向に泳いでいき、そのまま、淡く輝く鱗粉を残して次々に空気に溶けていく。


 そこからはあっという間に数を減らしていった。金魚屋の周りに数匹だけ残してみんな見えなくなってしまった。あれだけ居たのが嘘みたいだ。


 わたしと金魚屋は床と壁との間で丸くなっていた。


 わたし達がいた辺りだけ、赤い煙が立ち込めていなかったけれど、金魚がいなくなった途端に煙が押し寄せてきた。何となく煙に触れてはいけない気がしたので身を縮める。けれど、一旦は押し寄せてきた煙も、すうっと壁の穴の方向へと引っ張られていった。見れば、壁の穴からどんどんと煙が外に吐き出されていた。しばらくと見ていない間に煙は完全に店から吐き出された。


「おわっ!」


 金魚屋が悲鳴を上げた。理由はすぐに分かった。


「見て見ろよ、ヨタ。魔物、なのか? ええっ? さっきのやつなのか?」


 わたしは呆気にとられた。


 赤い煙の中から魔物の姿が現れたのだ。


 当たり前だ。


 ずっと前からそこに居たのだから。


「なんだ、こりゃあ? ゼリーみたいになってるぜ」


 ただし、金魚屋が言った通りで、魔物は、魔物の形をしたゼリー状の物体に変化していた。


   §

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