第九話「ワンワンパニック」(2)

 (2)


 ぎゃわわん!


 わんわん!


 ばばばばわあっ!


 しゅーしぃーっ!


 少し犬の鳴き声が混じった気もするけれど、魔物特有の訳の分からない鳴き声が店内に響き渡った。


 空気が振動でビリビリする。


 魔物のそばにあった椅子やテーブルは倒れ、カウンターの上のグラスは割れ、壁に掛かった額縁や調度品は全て床に落ちた。


 わたしが咄嗟とっさに金魚屋の肩に駆け登ったのと「うおおっ! なんだってんだ!」とびっくりした金魚屋が座っていた椅子から転げ落ちたのはほとんど同時だった。わたしは金魚屋がひっくり返る寸前に肩からジャンプして、魔物からうんと離れた壁際まで走って逃げる。


 金魚屋もわたしの後を追って四つん這いで逃げて来た。


 その金魚屋の後を、半透明な金魚が十数匹追いかけて来る。飼い主がびっくりしたせいでまた増えたのか?


 ふたりと金魚達はテーブルの下に避難した。


「なんだこりゃ! なんなんだこりゃ!」


 金魚屋はテーブルを倒して盾にする。わたしは金魚屋の背中に隠れて二重の盾を得ると、様子をうかがう。


「グわばっ! ぎゃワンばわんっ!」


 空気が、まるで太鼓のように打ち鳴らされたような叫び声が、お腹にずしんずしんと響く。本能的に耳を反対に動かしたけれど、単純に叫び声が大きすぎるせいで、鼓膜が破れてしまいそうだ。


 魔物は大口を開け、喉ちんこ(気持ち悪い! 二個も付いていたのかい!)を震わせる。十個の目玉からは涙が零れ落ち、巨大な顔面を上下左右に動かして、口からは叫び声と一緒によだれや血へどを吐き出して辺りを汚す。


 わんわんと泣き叫ぶ姿は、なんだか苦しそうに見えた。いまさら、やっと、自分のはらわたが腹の中から引きずり出されたことに気が付いたのかもしれない。


 ビシッ! テーブルに何かが突き刺さる音がした。


 釘だ! 釘の先端がテーブルの天板を突き破っている。


「あっ! あぶねえ!」


 ダンッ! ビインッ!


 二発、三発と釘の弾丸が飛んできてテーブルを貫通する。間一髪、頬をかすめたのか、金魚屋の右頬にうっすらと血がにじんでいた。金魚屋は細い目をものすごく大きく見開いて、ひいひいと息を漏らしている。


 元々長くて太い釘だったので、テーブルの厚みくらいでは盾にならなかったようで、テーブルを貫通した釘は、しかし、威力がそがれたようで、壁の方にまでは突き立つことはなく、床に何本か転がっていた。肉の壁の方は貫通しないでおくれよ。わたしは金魚屋の、たいして広くない背中に隠れて、より一層身を縮める。危ないから一瞬だけ顔を出したのだけど、魔物をぐるぐる巻きにしていた鎖が、暴れる体を抑えきれなくなって何本か解けてしまっているようだった。


 ビンッ!


 ビッ!


 ダンッ!


 天井や壁に釘が突き立つ。テーブルは、半分くらいが木っ端になってしまった。わたしと金魚屋は「ひゃあ!」と叫んで別のテーブルに避難する。


 魔物は、八本の、腕なのか脚なのかよく分からないもので床に踏ん張ると、体をよじって鎖から抜け出そうと必死だ。手近のものを掴んで放り投げたり、カウンターに手(足)を掛けてそのまま押しつぶしたりと、とにかく、わたし達が危ないことは間違いないし、それから、魔物が鎖から完全に解き放たれてしまうのも時間の問題に思えた。


「大変だ! 鎖が解けかかってる!」


 店の奥から、犬っぽい男が飛び出して来た。


 番犬だ!


「さすがに騒ぎを聞きつけたようだね。遅いんだよ、まったく!」


 わたしの悪態は男の耳には届かなかった。男が魔物に殴り飛ばされてしまったからだ。壁に打ち付けられて「ぐええっ」とうなった。


「ちっきしょう! 痛いじゃねえかよ!」


 頑丈だね。番犬の男は無事だった。


 まるっきり犬の頭の男は、牙の生えた口から、げぼぼっ、と血の代わりに酸っぱそうなしゃ物を吐き出しながら、でも、よろめきもせずに立ち上がった。


 茶色い毛並みの大柄な男で、下半身だけ鎧を付けており、上半身はランニングシャツというふざけた格好をしていた。胸元の毛に食べかすがいっぱい付いている。きっとクラッカーだ。この店にはクラッカーが山ほど置いてあるからね。そいつを摘まみながら一杯やっていたのだろう。手には武器の代わりにビール瓶が握られていた。吹っ飛ばされたくせにまだ握りしめているなんて、余程大事な物なのだろうね。


 口元の汚れを腕の毛でぬぐったところに、魔物の腕が振り下ろされる。


「うわあっ! あっ、危ねえな! おい!」


 すんでで避ける。わたしには魔物の腕が伸びたように見えたのだけど、見間違えではなかった。入り口の魔物のところから、反対側の壁の番犬まで、まあまあ距離があるっていうのに、壁には穴が開き、そこに魔物の腕が挟まっている。魔物の腕はタコやイカみたいに伸縮自在だったっていうのかい? なら、わたし達は店の真ん中でのんきにおしゃべりに興じていたけど、実はどこで何をしていたって魔物の手の内だったってことかい? おお、怖い! よく無事だったね! そんなことを思ったところで、魔物の腕がひじの辺りで不自然に折れ曲がり、床の上でだらしなく伸びているのに気が付いた。


「嘘だろう。力任せにやって関節が外れたのか? こいつ、滅茶苦茶しやがるな」


 茶色い番犬はビール瓶を口にやり、ぐびりとやった後にぐちゅぐちゅぺっと吐き出した。腰に手をやり、大ぶりのナイフを引き抜いて構える。


「あんたら! 危ないからもっと離れてろ!」


 命令口調で指示されたって、さっきみたいに無理やりに、腕なのか脚なのか、なんだかよく分からないものを伸ばしてこられたなら、この店の中にいる限り、どこもかしこも安全そうな場所なんて無いだろうよ。


「無理だよ! とにかく早い所やっつけておくれよ!」


「そうだそうだ! 頑張れ!」


 わたしと金魚屋はテーブルの陰から声援を送った。


「やっつけられたら最初からそうしてるって!」


 茶色い番犬はわたし達の方を一瞥すると、落ちている鎖を拾いあげ、ナイフを構えながら魔物との距離を縮める。男の肘から指先まで長さがあるナイフは、ひと様相手だったなら、十分に殺傷力のある凶器に思えただろう。でも、魔物を前にするとせいぜいが食事中に扱うナイフにしか見えてこない。


「おーい! お前ら、何もたもたしてんだよ! さっさと出てきやがれってんだ!」


 店の奥に向かって大声を発した。ついでに持っていたビール瓶を放り投げる。ビール瓶は回転しながら放物線を描き、店の奥に吸い込まれた。どこかにぶつかって割れる音の代わりに、ゴツンという鈍い音が響いた。


「痛い! ビール瓶が飛んできやがった!」


「ひっく。うぃっく。ちょっ、飲み過ぎたし。あはははっ」


「笑ってないで早く出て行って下さいよ! 後ろが詰まって出られないですよ! 副班長! 無事ですか!」


 店の奥から男達が三人飛び出して来た。


 最初の男と同じ犬の頭をしたやつが一人、人間の頭だけど耳だけ犬みたいに大きくて毛深いやつが一人、それから犬の頭部を模していて、ご丁寧にちゃあんと耳まで付いた鉄の兜を被った全身鎧のやつが一人、計三人だ。兜を被っていない二人は、最初に出てきた茶色い番犬と違って、鎧の方は上下ともちゃんと着込んでいた。まあ、着込んでいるだけであちこちに何かの食べかすが付いているところは変わりない。


「副班長! はいっ! 武器です!」


 食べかすをひとつもつけていない全身鎧の男が茶色い番犬に大きな機関銃を放って寄越す。


「もたもたしやがって! お前ら! 帰ったらぶっ殺してやるからな!」


 副班長と呼ばれた男は、カチカチと機関銃を操作すると構えて魔物に向けて撃ち始めた。


 ガガガガガッとすごい音と共に弾丸が発射される。


 薬きょうが辺りに散らばる。


 魔物が雄たけびを上げる。


 しかし、弾丸は魔物の体を撃ち抜かなかった。


 代わりに魔物のそばにあった物をことごとく粉々にした。弾丸は全部、魔物のぬるぬるの皮膚の表面を滑って弾かれてしまったようだ。


「無駄弾だわっ!」


 茶色い番犬は機関銃を壁際の方まで放り捨てた。邪魔になるだけと悟ったのだろう。


「ファッジ! こいつの手足を押さえつけろ! ザネッティ! お前は早く斧を取ってこい! 新入り! お前、鎖当番だったな! 半端な仕事しやがって! 何べん言ったら分かるんだよ! お前だけは許さねえからな! とにかく、釘と金づち持って来て、抜けた所全部打ち直して周れ!」


 栗毛の犬頭が魔物の腕に捕り付いて、力任せに押さえにかかる。毛並みの上からでも筋骨隆々なのが分かる。こいつがファッジだろう。


 じゃあ、犬耳の毛むくじゃらがザネッティだ。


「ひっひっひ。俺はもう酔っ払っちゃったから、武器とか振るうの無理そうだけどなあ。ひっく」


 千鳥足で再び店の奥に消えていく。ちゃんと戻ってくるか心配でならない。


 残る全身鎧の新入りは、店の奥に大慌てで駆け戻る。途中、邪魔になったザネッティを跳ねのけて、大きな金づちと袋を取って大急ぎで帰ってくると、すぐさま、副班長に言われた通り、鎖を床に打ち付ける作業に取り掛かった。


 副班長は魔物の手足に飛び掛かり、ファッジと一緒に取り押さえに掛かる。副班長の方もファッジのと引けを取らないくらいにムキムキな筋肉がついている。


 魔物の手足は八本あり、二人で二本を取り押さえた所で、関節が外れて動かない一本を除いたって残り五本は自由なのだ。そのうち一本が動いで釘を撃ち付けていた新入りを天井高く吹っ飛ばした。


「きゃんっ!」


 新入りの体は、天井まで舞い上がったところで梁にぶつかり、そのまま落下して床に打ち付けられた。ぴくぴくと痙攣したきり動かなくなる。


「伸びやがった! 副班長! こりゃちょっとまずいぜ」


 押さえ付けていた魔物の腕と、他の腕とを鎖で巻き付けながらファッジが言った。何がまずいのか一目瞭然だ。番犬の手が足りていない。


「ちっ! おい! お前!」


 副班長がこちらを向いて怒鳴った。


「お前だよ! 若いの! 手伝ってくれ!」


「え? えっ! 俺?」


 金魚屋が上ずった声を上げた。


   §

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