第七話
第七話「マルセロ」(1)
第七話
(1)
上体を起こしたカナヘビ青年は、わたし達三人の顔と、上半身裸の自分とを見比べると、反射的な動きでもって、胸の前で両腕をクロスさせようとした。しかし、出来なかった。ちょん切れた方の腕はメガラテが掴んでいるので動かない。だいたい、おっぱいがある訳じゃないんだから恥ずかしがらなくたって良いだろう。
それからすぐに、自分が男だったことに気が付いたのか、残った方の腕で、ちょん切れた方の腕を掴むと、自分の方に引き戻そうと試みる。何度も、ぐっ、ぐっと自分の右腕を引き寄せようとするカナヘビ青年だったけれど、びくともしなかった。本当にメガラテは力強いんだな。それにしたって、だよ。メガラテ。お前さんも、すんなりと腕を放してやればいいものを。
「なっ、何してんだよ!」
カナヘビ青年の声は上ずっていた。意識を取り戻して、すぐ目の前に、虫っぽいひとの怖い顔面があって、おまけに、ちょん切れた腕を何故だか離してくれそうにないときたら、誰だって声くらい上ずる。悲鳴を上げないだけ度胸が据わっているだろう。カナヘビ青年は、右目と左目の瞼を別々に開閉させながら、怯えた顔、と思われる表情を浮かべる。トカゲっぽいひと達もメガラテ達と一緒で顔面の皮膚が硬いせいで表情が分かりにくい種族なのだけど、口と目を大きく開き、震える身をよじる姿には明らかな恐怖が感じられた。
「は、離せよ!」
今度は語気を強めて言う。目を細めて、牙を剥いて。
「危害を加えようって訳じゃありませんよ。私達はあなたを介抱していたんですから」
メガラテはカナヘビ青年の腕をつかんだままで言う。まったく説得力の無い態度だ。
「腕はちょん切れてますけど、他は大丈夫ですか? ほかに外傷は無いように見えましたけど、吐血していましたし、内臓に損傷があるかもしれません。腕の方は後で包帯を巻いてあげますけど、お腹の中身は私には何も出来ませんから、ちゃんと病院に行って診てもらって下さいね」
メガラテは矢継ぎ早に告げると「あっ、私はメガラテです。どうぞよろしくお願いします」最後に名乗って小首を傾げた。何度かその仕草をするけれど、いったい何のつもりだろう? 掛ける声に優しさや温かみが感じられるから、ひょっとしたら本人は会釈のつもりでやっているのかもしれない。
「そ、そうか。俺は、えっと? そ、そうだ。俺はマルセロと言います」
メガラテの勢いに気おされたのか、カナヘビ青年は引きつったような声で名乗った。メガラテの、顎を左右に動かしてする笑顔というのは、見る者によっては、自分の腕をかじったやつがまたぞろ現れて、片腕だけではお腹が膨れていないから、もう一本の方もよこせ、と言っているようにしか見えなかったとしても、わたしには仕方がないように思えるね。
「マルセロ、ですね。よろしくお願いします」
メガラテは掴んでいた手を上下に揺らしてから放した。握手のつもりなのか知らないけど、握手ってのは手と手を繋いでやらなきゃ意味が無い。腕が千切れている相手にとっては痛いばかりだよ。
「俺は、えっと魔物に、腕を、食いちぎられた、んだったか?」
マルセロは腕の切断面を指でなぞって、顔をしかめた。
「いたたっ。そうだ、そうだった。あいつだな、あの魔物に噛みちぎられたんだ。俺の腕は」
マルセロは入口の前のあいつに視線を向ける。魔物はマルセロが生き返ったことに一切興味が無いように見える。金魚屋が蹴飛ばしたリンゴに向かって、口をすぼめてみたり、舌を伸ばしてみたりしている。食べたいのか遊びたいのか、魔物の考えなんて分かりっこない。
「確か、その後すぐにあいつの腕? 足? とにかく張り倒されて、頭を打って、それで気を失った、のか? たぶん? 記憶があいまいだな」
マルセロは自分に起きた状況を整理しようと、ぶつぶつと、独り言をつぶやく。それから右腕を上げた。頭か額を押さえたかったのだろうけど、途中で千切れているのだからそうもいかない。改めて、千切れた腕を見て首を振った。
「俺の腕は、あいつの中、か。くそっ。俺はどのくらい気絶していたんだ? ううっ。気分が悪い。血を失ったせいか? 前触れ、か? あの魔物、まだ魔物のまま、ま、魔物だから? ろれつが回らない。そんなはずは、でも大丈夫、なのか? あれは、ううっ。ああ、気分が悪い」
わたしは相当に耳が良いので、そんなようなことを言っているように聞こえたけれど、ただただ、混乱したまま思い付いたことが口から出ているようにしか思えなかった。ふう、ふう、げほっ、と辛そうな顔をしながら、しばらく、ぶつぶつ、もごもご、ほにゃらら、と要領を得ない、訳の分からないことを呟き続けた。口の端から血が滴っている。
マルセロは急に呟くのを止めて、メガラテの顔を見た。幾分か平静を取り戻したように見える。
「すまない。取り乱してしまった。メガラテ、さん。あなたが俺を助けてくれたんですね。ありがとう。こんな状況だったんで気が動転してしまいました。悪く思わないでほしい」
マルセロは謝りながら、はだけた胸を隠そうと着物を引き上げたけれど、肩に掛ける部分も、胸の前で交差する部分もズタボロに引き裂かれてしまっていたので元通りになりはしなかった。帯で止まっている分で満足するほかないと分かると、諦めて、半裸のまま、床の間に正座をし直した。
「本当にありがとう」
片手を床につき、深々と頭を下げた。わたしは、こんなに礼儀正しいやつを、しばらく見かけたことが無かっただろうよ。いいや、いまだかつて、無いと言い切っても良いね。
「頭なんて下げなくても大丈夫ですよ。それから、メガラテで結構ですよ」
「そんな。命の恩人を呼び捨てには出来ません」
「まあまあ。ふふふ、マルセロは律儀ですね。でも、呼び捨てで結構ですからね。ほらほら、いい加減に頭を上げてください」
「そうです、か。分かりました。メガラテ」
マルセロはようやく頭を上げて上体を起こしたけれど、首だけぺこりとやって頭を下げた。
「それにしても命があって良かったですね。てっきり死んでしまったと思ってました。えっと、すみません。いま思い出しましたけど、確か私があなたを死体袋に詰めたんでした。ごめんなさいね」
メガラテは頭を下げた。ついでに着物をズタボロにしたのも彼女だ。それにしても、着物を引き裂く必要があったのか、今にして思えば謎だ。着物なんてものは、帯を緩めれば簡単にはだけるというのに。メガラテは、こう見えて、案外とせっかちなのかもしれないな。
「それで死体袋なんかに入ってたんですね。でも、仕方がありませんよ。俺達は急激に血を失うと仮死状態になったりするんです。そうなると、普通、死んでるのか生きてるのか見分けがつかない。それに、そうですよ。メガラテ。俺が生きていることに、あなたが気付いてくれなかったら、そのまま死体のままだったかもしれないのだから、やっぱり、ありがとうございます」
マルセロは再び額を床にこすりつけた。
「えっと、それですけど」
メガラテは一瞬間を開けてから「マルセロが死体じゃないと気が付いたのは確かに私なんですけど、お礼を言うならこちらの話し屋さんにも言ってあげてください。彼女があなたが生きてるかもしれないって教えてくれたんです」とわたしの方を手で示した。
「彼女?」
土下座をしたまま、マルセロがわたしの方をちらりと見た。
§
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます