第二話「乗れない自転車」(2)

 (2)


 わたしは心臓の鼓動が早くなったのを感じた。


 わたしと金魚屋とは結構と距離が離れていたというのに、飛びのいたわたしのしっぽに金魚屋の指が触れたんだ。


 わたしは猫だよ?


 あの、すばしっこい猫なんだよ?


 獣人とか亜人とかで俊敏しゅんびんな種族だったなら、猫なんか捕まえるのは朝飯前かもしれない。


 けれど、ただの人間なんかにわたしは捕まりっこないのだ。今まで生きてきて、気を許していない相手に捕まった事なんて一度もなかったのに。


 この男、魔法道具屋とかなんとか言っていたけど、本当は猫をとっ捕まえるのを専門とする職業じゃないのかい?


 自分で言っておいてなんだけど、そんな職業あるのかい?


 猫の皮でも欲しいとか?


 まさか、三味線しゃみせん屋か!


 わたしは金魚屋を観察する。


 ふむ。三味線が似合いそうな風体だ。いかにも三味線を弾きながら唄でも歌いだしそうな雰囲気がある。


 分かっているさ。


 わたしが疑っているせいでそう見えているのは、分かっている。


 けれど、もはや、三味線屋にしか見えなくなってきた。連中は悪魔の手先だよ。


 わたしは三味線屋の魔の手が届かないように、めいいっぱい距離を取る事にした。


 魔物のそばまで歩いて行こう。


 ちらり、ちらりと、男の動きを気にしながらだ。


 ひょっとしたら金魚屋は人間に見えて、腕が伸びたりする種族なのかもしれない。そうに違いない。そんな種族の噂、どこかの酒場で聞いた気もするし。


「どこ行くんだよ、ヨタ」


「うるさい! お前さんは、いちいちと! 声も身振りも大きいんだよ! 手を動かさないと口が動かない生き物なのかい? どういう体の構造しているんだか。じっとしたまま喋れないのかい」


「ははっ。面白いこと言うね。そうなんだよ、俺はね、身振り手振りをつけないと喋れないんだよ。いいか、見てろよ」


 と動きを止めてじっとする金魚屋。


 何をやろうっていうんだ。


「な? 動きをやめたとたん、声が出ねえんだ」


 この男ときたら!


「本当に! 馬鹿なのかい、お前さんは! わたしは天井裏でもつたって出て行くとするよ!」


 わたしは歩き始めてみた。


 そうなんだよ。


 わたしは猫さ。


 体の柔らかさといったらイカやタコの親戚みたいな生き物なんだ。


 ちょっとした隙間からするりと出て行けばいいんじゃないか。


 魔物がいるからって、店の中にぱんぱんと詰まっているわけじゃないんだ。どこかしら隙間を見付けて店を出ていきゃあよかったんだよ。


「わっ、待て待て! 待ってください! 冗談。冗談だって、ね。悪かったよ。もうしないから。だから、そんなに遠くに行かないでくれよ。ほら、魔物がにらんでるよ。危ないからこっちおいで」


 床に膝をつき、ぱんぱん、と両手を叩いた後に両腕を広げてみせる金魚屋。


 今さらそんな猫を呼ぶ仕草なんかやってみせたって、ほいほいと近付いて行ったりするもんですか。


 簡単に出て行くことはできたのさ。


 でも、やめにした。


 そうだった。


 こんなところに居座ったのはね、面白いことになりそうだな、と思ったからさ。


 わたしは金魚屋に興味がわいたのさ。


 話しのタネになりそうだなってね。


 だからわたしはこの男から、どうあったって話を聞きだして、面白おかしい話にしないといけないのさ。


「お前さんと同じテーブルにいるくらいだったら、魔物の近くの方が安全だって分かったのさ。さあ、話す気が無いのならわたしだって聞く気も無いからね。本当にどこか抜け出せそうなところを見付けて出て行っちまうからね」


 わたしがやりたい事を思い出し、そうは言っても出て行く気なんて失せてしまっているのだけども、わたしは啖呵を切ってみせた。


 この男にはビシッと言って聞かせないと、それも本当にやっちゃうぞっていう意思を持ってさ。


 でないと、のらりくらりと無駄話を続けられて、いつまでたっても本題に入っていけないのは今までのやりとりで十分に分かっていた。


「話すから、ね。話すからさ、出て行くなんて言わないでくれよ」


「話すんだね? だったら? どうするんだい?」


 男が本当に話す気になったのか見極めなければ。


 わたしは袋のひとつに腰を下ろした。


 死体袋だ。


 おや、まだ若干体温が残っているね。こりゃあお尻があったかくていいや。


「どうするって」と金魚屋は黙って手を広げて、ぷらぷらと振って見せた。「じっとして喋りますとも」ニコリといやらしい笑顔もつけて。


 わたしは遠目でそれを見て、見て、見続けてやる。


 こういういやらしい顔の時はだめだ。


 元々、いやらしい顔つきかもしれないけど。


 信用するのは、まだ早い。


 それに、わたしは良いあんばいの座布団を見付けたところさ。丁度良い温かみと座り心地の良い死体袋という座布団をね。わたしは金魚屋の準備が整うまで、いつまでだって待っていられるのさ。


 わたしは一言も喋らない。


 ただ、じっと黙って見つめてやるのさ。


 猫の眼力をなめてもらっちゃ困る。まあ、猫に限らずだろうけど、黙ったまま見つめられてちゃ、誰しもお尻がむずがゆくなってきて、気まずくなってくるものさ。


 ほら、だんだんと不安になってきた様子だよ。


 笑顔だった表情が段々と崩れていく。


 やがて目が泳ぎ、口角もどんどんと下がっていき、しまいには困ったような顔に変わったところで、ようやく手を後ろに隠した。


「厳しいなあ、ヨタは。分かったよ。心を入れ替える。すーはー。よし、入れ替わった。今度は本気さ」


 金魚屋は部屋の空気でも入れ替えるように深呼吸をした。


「本当に?」


 すーはー、すーはー、と一回、二回、三回も深呼吸をする。


「本当だとも」


 それから目を閉じ、少しだけ時間を置いて見開くと「ヨタ。聞いて欲しい」静かに話し始めた。


「俺の記憶は失われちまってる。残念ながら本当のことなんだ。俺は自分の事を何一つ覚えちゃいない。名前も、年齢も、生まれも。生まれてから、今まで、何をやって来たのかさえも。ひとつとして思い出せやしない。俺に父親や母親はいたのか? 兄は? 弟は? 男兄弟か? いや、せっかくなら、姉妹のどっちかが居て欲しいよ。そっちの方が華やかで良い。年の離れた可愛らしい妹? 姉? ううん、姉はなんとなくいない気がするな。とにかく、生まれてから今までの記憶がすっぽりと抜け落ちてしまっているんだ。いや、抜けるも落ちるも、初めから記憶なんて無かったんじゃないかって思えたよ。ある日、突然、大人の姿のまんま、この世にポンッと生まれちまったような、そんな不思議な気分だった。孤独、そう、とにかく寂しくてぽっかりした気分だった。俺の記憶はね、とある街角から始まるんだ。ぼーっと、馬鹿みたいな顔して、雨の中突っ立っていたところからね」


 そこで区切り、細目でわたしのことを見る。


 嫌だ嫌だ。


 わたしはね、嫌だよ。


 急に、そんな、ほら、そういう顔だよ。


 しおらしい顔をするんじゃないよ。


「俺にあったのは、金魚と、このカバンさ」


 金魚屋は膝の上に抱えている箱型のカバンをポンポンと叩いた。魔物の腹の中でも、寝ている最中も、起きてからもずっと大事そうに抱えていたカバンだ。カバンの上をすーっと金魚が横切った。


「随分とラッキーだったと思うぜ。このカバンの中には魔法道具が入っていたからさ。俺はそれの使い道を、なんとなくこうかなってやったら、まあ、大抵の物を扱うことが出来たんだ。魔法道具の知識があった? いや、違うな。勘、に近いな。不思議なもんだぜ。あの感覚は、そうだなあ、例えるなら自転車に乗るようなもんかな」


「自転車?」


「そう。自転車。輪っかがふたつ付いてる乗り物」


「自転車は知ってるさ」


「ふふ。自転車の乗り方は一度覚えたら、何年と乗らないでいたって体が覚えていて乗れるもんだろう? って言っても、ヨタには分かんねえか。猫だもんな。猫は自転車なんて乗らないよな? え? まさか、お前、自転車に乗れるとか?


「乗れないよ。見てわかるだろう、ハンドルにもペダルにも足が届かない」


「だよなあ。驚いたぜ。それから、まあ、俺だって自転車なんかにゃ乗れないんだった。あれは難しいなあ。どうやってバランスとってんだ?」


 脱線が始まろうとしたので、わたしは修正する。


   §

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