第二話

第二話「乗れない自転車」(1)

 第二話


 (1)


 記憶喪失者の相手をするのはこれが初めてではない。


 この街には結構多いんだ。


 大体、夜更けから明け方にかけて多く出没する。


 大半が足取りも怪しく、うつろで、ろれつが回っておらず、自分が何者で、どこへ向かうのかすっかりと忘れて思い出せない。


 いや、昼日中ひるひなかからおかしくなっている連中も少なくはない。そうなってくると一日中おかしい事になっちまうのだけど。


 この街の飯屋は朝も早くから営業しているところも多いし、たいていどこでもお酒も置いているから仕方ない、と言っては店のひとに怒られるだろうか。


 だって、家を出る頃には既に出来上がっていて、記憶をどこかに放り投げている輩だっているのだし。


 とにかく、それだけだらしのない連中も多いし、その受け入れ先だって多い街なのだ。


 酔っ払い、これすなわち、記憶喪失者。


 そういう扱いをわたしはしているし、わたしだけとは言わず、誰だって、この町で記憶を失った者を見かけたなら「また酔っ払いか」と決めつけて然るべきなのさ。


「だからあ。酔っ払いじゃないってば。正真正銘、ここはどこ、わたしは誰ってやつなんだって」


 男は鼻の頭に出来た真新しいひっかき傷を押さえながら涙目で訴えた。


 ふむ、多少は正気に戻ったようだね。


 せっかく牙までむいてシャーとうなる準備を済ませたのに。男が望む猫らしさってやつで冷静になってくれるのだったら、いくらでも噛み付いてやるところなのに。


 噛み付いておこうか?


「猫ちゃん、噛み付こうとしてる?」


「してる」


「案外と鋭い牙をお持ちなのね。俺は本当に酔っ払いじゃないから。記憶喪失なんだ」


「にわかには信じられない話だね。お前さん、見るからにいい加減だし、このわたしをからかっているんだろう?」


「そんなことしないよお、猫ちゃん」


「おっと! それ以上動くんじゃないよ!」


 わたしは威嚇する。猫の様にうまくいかなかったが男の手は引っ込んだ。


「撫でたりしないから。引っかかれるし」


「引っかかないよ。噛み付こうとしているだけさ。それから、撫でたり、じゃなくて、抱き付いたりの間違いだろう?」


「抱き付きたいんだよ」


 なんて馴れ馴れしい男なんだ。


「いいかい。お前さんが一日でも早く爺さんになりたいのだったら止めやしないよ。手の届くところに、こんな見目麗みめうるわしい猫がいれば誰だって毛並みを撫でたくなるもんさ。誰だってそうさ。いいとも。そのしょぼくれた顔を差し出せば、三度くらいは撫でさせてやっても構わない。ただし、その間にお前さんの顔面は皺くちゃになっているからね。毎日丁寧に研いでいるこの爪で、爺さんになるまで皺を刻んでやるって言ってるんだ。それでも足りないってんなら、鼻の頭にピアスの穴を開けてやるよ。ひと噛みで四つも穴を開けられるからね。分かったら、わたしの前では芋虫よりもゆっくりと動くことだね」


 わたしの啖呵たんかを、しかし、男は拍手で受け止めた。


「ひゅー。すごいじゃないか。ぺらぺら、ぺらぺらと、まったく、上手いもんだね。本当に流ちょうだ。いったいどこで練習したんだ? この町には猫に言葉を教えてくれる教室でもあるのか?」


「お前さんは喋りすぎだよ。どれ、わたしが舌を二つに割いてやるよ。そうしたらヘビのようにしゅるしゅるとしか喋れなくなる」


「おおっ、怖い。猫ちゃんも肉食獣なんだなあ。でも、そんな顔を続けてたら可愛い顔に皺が寄っちゃうぜ」


 わたしに握りしめるこぶしがあったのなら、爪が肉球に食い込んでいるところだよ。


 男は見るからにいい加減な表情を浮かべ、へらへらしている。完全にわたしをからかって楽しんでいるな。


 暖簾のれんに腕押し。


 この男に、爪を出したり牙を剥いたりしたって、一切、無駄の様な気がする。


「はあ」溜息一つつき「お前さんのそれは性格なんだろうね。で、本当に記憶喪失なのかい? 名前も覚えていないのかい?」


「ないね」


「名前だよ? 名前なんて忘れるもんかい?」


「忘れちゃったんだもん、仕方がないよ」


 子どもみたいな言い方だ。


「でも、猫ちゃんが金魚屋と呼んでくれたから、今日から名無しじゃなくなった。初めまして、金魚屋と申します」


「はあ?」


「今までは魔法道具屋って呼ばれてたんだけどね。長いじゃない? 魔法道具屋、ってさ。それに魔法道具屋は俺の商売のことだろう? 名前って感じがしなかったんだ。その点、金魚屋ってのは良いね。短いし。なんか、こう、粋な感じがする。それに、話し屋と金魚屋。ほらね。二人とも、実に響きが良いね。猫ちゃんもそう思うだろう? 思うよな? 金魚屋。良いね、金魚屋。なあ、俺っぽいじゃない?」


 男は、ぴんと立てた人差し指で半透明の金魚を突っつきながら「だろう?」と微笑んで見せた。


 金魚はいつの間にか数が減っていて、元の一匹だけに戻っていた。


 驚いたら増えると言っていたけど、冷静になったら減るのだろうか?


 なんだいそりゃあ。金魚屋と言うよりも「金魚男だろう」と口ごたえしてやろうと思った。金魚男の前に怪人と付けるのも良い。


 けれど、この怪人暖簾に腕押し金魚男に対して(言ってみたけど、そこまでいくと冗長だね)ああだこうだと言っていても、いちいちと話がつっかえて前に進んでいかなさそうだからやめておこう。


 それに、本人も金魚屋というニックネームをえらく気に入ってしまった様子だから、ここは一旦、この金魚屋という男は、記憶を失ってしまっていて、本当に、哀れで馬鹿で間抜けなやつ、という事にしておいて、話を進めていくとしよう。


「お前さんがそう名乗りたきゃそうすりゃいいさ」


「ありがとう、猫ちゃん」


「その猫ちゃんはやめとくれよ」


「猫ちゃんじゃないか。まさか、犬なのか?」


「馬鹿だね。猫だよ、猫」


「びっくりした。喋る犬かと思ったじゃないか。猫みたいな犬で、おまけに喋る犬っていうんだったら、そりゃあいくらなんでもややこしすぎるぜ」


「うるさい男だよ、まったく。誰だい、こいつに言葉を教えたやつは。ぶん殴ってやりたいよ」


「ははは。肉球で?」


「この野郎」


「だから皺が寄るよ、そういう顔してると」


「とにかくね! わたしにはお前さんと違ってちゃんとした名前があるんだからね。猫だ犬だって呼ぶのは止めて、名前で呼べばいいのさ」


「いいのか? 名前で呼んで。なんだか照れくさいなあ」


 もじもじするんじゃないよ。毒きのこがひねて胞子を振り撒くだけなんだから、気持ちが悪いよ。


「別に無理して呼ばなくったっていいよ。こっちもこだわりがある訳じゃないからね。ただ、お前さんがわたしを猫扱いするのが気に入らないだけさ」


「俺は猫ちゃんが好きなんだよお」


「だから! その猫ちゃんってのはやめとくれ! お前さんに呼ばれると背筋の毛がぞわっとするんだよ。わたしはヨタ。話し屋ヨタさ」


「わかったよ、ヨタ。ヨタちゃん?」


「ヨタでいいよ」


「ヨタ。ヨタあ」


 嬉しそうな顔でわたしにダイビングしてこようとする金魚屋をひらりとかわす。


「だから! そういうところだよ、猫扱いしてるっていうのは! わたしはこねくりまわされるのが嫌いなんだ!」


「ふふふ」


 この男はわたしの扱いを変えるつもりは毛頭ないようだ。わたしはため息をついて続ける。


「じゃあ、金魚屋」


「なんだい、ヨタ」


「いちいちと名前を呼ばなくたっていいんだよ」


「名前で呼んで良いっていま言ったばかりじゃないか」


「いちいち、呼ばなくて良いんだ。お前さんはね、わたしに言われた事にだけ答えてりゃいいんだよ。分かったかい?」


 金魚屋はふふふと笑っただけだった。分かってないし、分かろうとしていないな、この男は。


「それで。お前さんときたら、正真正銘の記憶喪失者なのかい?」


「その通り」


「名前はおろか、なんだって金魚なんかをまとわりつかせているのか分かっちゃいないのかい?」


「そうなんだよ、ヨタあ。なあ、どうしよう?」


「おっと、動くんじゃないよ。忘れたのかい?」


「ちっ」


 その舌打ち、聞こえているからね。とことん油断のならない男だよ。


「いったいいつから記憶が飛んじまったんだい?」


「聞いてくれるかい?」


「さっきから聞いているじゃないか。わたしはね、話がつっかえひっかえするのが嫌いなんだよ」


「記憶が無いってのは、これがほんとに大変だったんだよお!」


「だから!」


 わたしは飛びしさった。


 まったくこの男ときたら!


 一向に懲りる様子もなければ、ほんとに、まったく!


 まったく!


 な、なんだってこんなに素早いんだ!


   §

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