プロローグ「金魚が見えたなら」(2)

 (2)


「なんてこった、俺の店が!」


「大変だ! 話し屋と客が飲み込まれた!」


札付ふだつきの旦那だんな達、のんきに飲んでいないで何とか追い払ってくれよ!」


「酔っ払いじゃ役にたたねえ! 誰かひとっ走り番犬ばんけん達の詰め所まで行ってこい!」


「痛い! 腕を食われた!」


 店主やお客さん達の悲鳴や怒鳴り声が、随分とくぐもっていて聞き取りづらいけれど、「外側」も大変な騒ぎになっていると教えてくれる。


 それでも「内側」に比べれば、まだましだろう。


 内側ときたら、店中をどったんばったんとひっくり返す音に合わせて、上下左右、しっちゃかめっちゃかにのた打ち動き回っているものだから、わたしごときちっぽけな体なんて、その度に宙に舞い、ぶよぶよした内壁の間を行ったり来たりしながら、「ぐえっ」とか「おえっ」とか嗚咽おえつをもらすだけで精一杯だった。


 地面が落ち着くにはしばらく時間が掛かり、わたしの体が無事に着陸出来た頃には、すっかりと目が回っていて、今度は「げえげえっ」と毛玉と一緒に胃袋の中身を吐き出すことに熱心にならざるをえなかった。


 信じられるかい?


 わたしは「魔物」の腹の中にいるんだ!


 魔物、そう、あの魔物だよ。知っているだろう?


 悪魔が面白半分でこしらえたっていう迷惑な生き物たちの事だよ。


 魔物の胃袋の中なんて、これほど居心地が悪い場所に入ったのは生まれて初めてさ!


 不幸中の幸いとは言いたく無いのだけど(なんてったって不幸の真っただ中にあるのだから!)、わたしは丸飲みにされたおかげで頭のてっぺんから尻尾の先まで、五体満足、どこにも怪我を負っていなかった。


 ならば!


 魔物の腹を切り裂いて出て行ってやろうと自慢の爪を突き立ててやる。


 わたしの爪は鋭いよ。


 障子紙なんて一発でずたぼろさ。


 でも、胃袋のひだひだにこびりついた食べかすを綺麗にかき出してやっただけだった。


 それじゃあ口の方から脱出してやるまでさ。


 脚力には自信があるからね。


 どんな急斜面だっていともたやすく登ってやるんだ。


 いま来た道を駆け上がってみれば、途中で足を滑らせてすってんころりん、体中を胃液でコーティングして、より一層消化されやすい状態になった。お気に入りの羽織も、丁寧に舐めて繕った毛並みも、胃袋の中でバウンドしている時から台無しになっていたけれど、最後の一押しをされた気分だ。


「最低だ! 今日一日を気分よく締めくくろうと思っていたのに!」


 体は無事でも自力での脱出は叶いそうになかった。


「おーい! わたしは生きてるよ! 誰か助けて!」


 大声を張り上げて助けを求めてみるも、残念ながらわたしの体は小さく、腹から出せる最大ボリュームもたかが知れている。ぶよぶよで、ぬるぬるで、ぐねぐねと動いている肉壁にわたしの声はあっさりと吸収されてしまい、外には一言も漏れ出していきはしなかった。


 しかし、内側の誰かさんの耳には届いたようで「その声は喋る猫ちゃんか?」と男の声で返事があった。


「誰だい? 誰かいるのかい?」


 声の方に目を凝らすと、真っ暗闇だと思っていた胃袋の中で、ぼおっとした、ろうそくよりも遥かにか細い光りがゆらゆらと揺れているのが見えた。


 ひとよりも夜目が効く方なので、その相当に頼りない灯りだけでも結構なことが見て取れる。


 まずは胃袋の中身。


 元がなんだったのかあまり想像したくない肉片や骨片がそこら中に散乱している。


 そして、わたしをべちゃべちゃに汚し、最低な気分にさせているのと同じ粘液がそれらを覆ってまくを作っていた。


 わたしを飲み込んだ魔物は、まったくの肉食のようで、大根とかニンジンとか野菜の類はひとつも落ちていなかった。


 いずれにせよ、お手伝いさんでも雇わなきゃ片づけるのにめっぽう苦労しそうな程の汚れっぷり、散らかりっぷりだった。


 次に、声の主。


 哀れにもその汚らしい食べかすにまみれて、肉壁に隙間なくぴったりと挟まっている。


 男は、わたしの物よりも安っぽい着物を着ていて、余程大事な物なのか、単に身動きがとれないからそうしているだけなのか、箱型のカバンを腕と足とで挟み込むようにして抱きかかえていた。


 頭が肉壁と食べかすの間にすっぽりと埋もれてしまっているせいで、どんな顔をしているのか分からないけれど、とにかく窮屈きゅうくつそうで、ふがふがと呼吸をしながら「俺だよ、俺。さっき同じテーブルに居たじゃないか」と返答した声はとても苦しそうだった。


「俺とか言われても覚えちゃいないよ」


 酔っ払った札付きの勘定を手伝ったあと、気を取り直して別の席で次の話を披露ひろうしようと、ぴょんとテーブルへ飛び乗った、ところまでは覚えているのだけど、そこで魔物が店のガラス窓を壁ごとぶち破って入って来たものだから「あっ」とか「わっ」とか驚いたりしているうちに、ここ、胃袋の中におさまっていた。


 だから、テーブルにいたお客さんの顔だなんて、じいっと観察している余裕なんてなかった。


 でも、と記憶を呼び起こしてみる。


 さっきのテーブルというと、わたしや男の格好と同じで着物姿のお客さんが何人か座っていたっけ。


 ええと、確か三人で「そういえば人間っぽいのと、昆虫っぽいの、それからトカゲっぽいのが座っていたね。どいつだい?」出来れば一番力が強そうなトカゲっぽいひとだったら嬉しいのだけど。


「その中で言えば人間っぽいのだ」


「なんだい。役に立ちそうにないね」


「ひでえな!」


 ああ、ひどいとも。せめて昆虫っぽいひとだったなら、強力なあごで肉壁を食いちぎってくれたかもしれないのに。


「まあいいさ。とにかく無事なんだね?」


「ああ、なんとか生きてるよ。猫ちゃんは?」


「おかげ様で。鼻がもげそうなくらいさ」


「まったくだ。ゴミ箱の中みたいだな」


「魔物の腹の中だよ」


「知ってるさ。でもどっちも最低だってことには変わりがないだろう? しかし、はあ、息苦しい。うえっ、口に何か入った! 猫ちゃん助けてくれよ」


 もがけばもがくほど辺りの食べかすを集めていた。


「仕方ないね。じっとしておいで。顔の辺りのをどかしてやるから」


「助かるよ、猫ちゃん、あ、痛い! 爪が当った!」


 食べかすの中から男の横顔が発掘される。ほっぺから血が出ていたがわたしは気にしない。


「ばい菌が入ったらどうしてくれるんだよ」


 男は文句を言いながら、ぐりぐりと頭を動かして、わたしの方にどうにか顔を向けた。


「ずいぶんと、まあ、気の毒な顔をしているんだね」


「どんな顔だよ。初めて言われたよ」


 粘液で濡れた髪の毛はワカメのようで、群生していて毛量も多く、あちこちに食べかすを住まわせていた。


 その全部が顔の上半分にべったりと張り付いていて、隙間から糸のように細い目が覗いていた。丸眼鏡をかけていたが、そんなに目が細いのだったら、眼鏡なんて掛けていようがいまいが視力の補正にはならないんじゃなかろうか。


 耳は、大きくも小さくもとんがってもいなくて、肌は暗がりだからよく分からないけれど、鱗や硬そうな殻もついていない。頭から角も生えていないから、ごくごく一般的で、やたらと数だけ多い、何の変哲も特徴も面白みも無い、単なる人間であることは間違いなさそうだった。


 ほとんど暗闇に近い魔物の腹の中で、夜目が効くといってもはっきりと見えている訳じゃないから、ワカメだと思っていたものが、実は何年も洗っていないモップの先かもしれないし、糸目だって針金目かもしれないけれど、きっとお日様の下で見たって、そう大差なく頼りのない顔つきなのだろう。


   §

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