― 3 ―
その日以降も、オレは毎日陽子と一緒だった。もちろん泳ぎ方も教えてもらった。陽子ほど綺麗なフォームで泳げはしないけれども、人並みに泳げるようにはなった。
海は美しくて、そして広大だった。冷たくて、温かくて、五月蠅くて、静かだった。天を仰ぎ波間に浮かんでいると、自分がどれだけちっぽけな存在か思い知らされた。
岩場の生き物を探したり、童心に帰って浜辺でトンネルを掘ったり、オレたちは遊泳時間いっぱいまで遊びつくした。
もちろん合間を縫って写真は撮り続けた。陽子はあの日以来、オレの邪魔をする事はなかった。写真を撮っている時は、何が楽しいのかオレの隣でいつも一緒に被写体を見つめていた。
爆発力のある写真を撮れた訳ではないけれども、陽子と二人で海を満喫し、かなり満足のいく写真は撮れたと思う。
たった数日なのに、いつも一緒にいるのが当たり前になっていた。
親父の実家から歩いて十分。朝一番に海に向かい陽子が来るのを待った。道路の向こうから、手を振りながら嬉しそうに真っ直ぐ駆けて来る陽子を見つけると、オレの心は自然と高揚した。
そんな時間は永遠には続かないと言うのに。
「海斗はいつまでこっちにいるの?」
陽子の当たり前の疑問がオレの胸を深く深く抉る。
考えないようにしていた。言い出す事ができなかった。その時が訪れてしまうのが怖かった。
オレの顔は笑みを失い、マネキンのように固まっていたに違いない。
震える唇を懸命に動かして、オレは陽子の目を真っ直ぐ見返した。
「明日……の朝には帰るんだ」
「……そっか」
陽子の瞳に悲しみの色は見られなかった。短い言葉を零した陽子の表情は、むしろ諦めに近かったのかもしれない。最初からわかっていたんだ。どんなに仲良くなっても、別れの時がやってくるのを。
「ねぇ、海斗? いい所連れて行ってあげようか?」
陽子は両手を後ろにまわし、ゆっくりと細い肢体を揺らしながらはにかむ。
いい――所? ボンッと頭に浮かんだのは色とりどりのネオンが煌めくお城だった。
不謹慎だ。そんな訳ないと自らツッコミながら、陽子に手を引かれるがままに大きな小山のような岩場を迂回する。
そこは、青と言うよりも濃いエメラルドグリーンに近い色を携えた、大きく抉れた岩礁だった。
「何で、今さら……」
今の今までこんな場所を隠していた陽子に恨み節を零し、オレは慌ててカメラを構える。デジタル一眼じゃあない。フイルムの一眼レフだ。
グルリと岩場を移動して、オレは夢中になってファインダーを覗く。光の角度で見る度に次々と色を変える海。シャッターを切るに切れない。切り取るべき瞬間を選べない。
どうすればいい? どこに最高の景色がある? 気だけが急く。迷っている間に、最高の瞬間は過ぎてしまうかもしれない。
どうする? どうするどうするどうする?
そうだ! 今この瞬間のすべてを五感で感じ取ればいい。『体験出来ることは、全部やる』だ。
オレはカメラを岩場の縁に置いてTシャツを脱ぎ捨てると深緑の海に飛び込んだ。
「ちょ、海斗!」
ドボンッ!
陽子の慌てた声と水飛沫の音が、一瞬にして波に飲み込まれる。コポコポと、籠った泡の弾ける音が聞こえた気がする。
海の中は意外と暗い。抉られた岩礁に海藻が揺らめき、その脇を名前も知らない魚が群れを成して横切る。
外界の高い岩が、水中に影を作る。青が黒く、緑が輝き、そして光の筋が海底にのびる。
オレは仄暗い海中から天を仰ぐ。
ユラユラと揺らめく海面に陽の光が降りそそぐ。柔らかく、そして温かく。
ああ、そうか……
海が色づくのは、太陽の光のお陰なんだ。海だけを撮ろうとしていたオレが間違っていた。太陽がなければ海は表情を作らない。必ずしも反射光を除けばいいってもんじゃあない。海には太陽が必要なんだ。今さらそんな事に気づくなんて。
海……太陽……陽、子……陽子……
ザバッと海面に顔を出し、最初に目に飛び込んできたのは太陽じゃあなく、心配そうな顔でオレを見おろす陽子の姿だった。
「海斗ッ! 大丈夫!?」
陽子……オレはオマエが好きだ。
* * *
波打ち際に座って、陽子はオレを振り返る。
「ビックリしちゃった。急に飛び込むんだもん」
「ゴメン、向こう見ずに飛び込んで。でも、わかったんだ」
オレは絞ったTシャツを隆起した岩に引っかけて、陽子のすぐ隣に腰をおろす。そして、真っ直ぐ陽子の瞳を見つめた。陽子はほんのりと頬を染めて、恥ずかしそうに視線を逸らす。
「ここね、恋人同士で来ると、必ず別れるんだって」
「なっ……」
何だその救いがたい現実は。今このタイミングで言う事か?
ビーチから少し離れてはいるものの、こんなにも美しい場所なのに、ああなるほど確かに、誰もいないなんて違和感はあった。ビーチも広くはないし、元々観光地としては寂れた片田舎だ。そんないわくつきの場所なんて、誰も訪れたりはしない。そんな悪しき噂が立っていれば当然、地元の人間だって。
ならば、何でここに来た? 何でオレを連れて来た? オレと陽子は恋人同士という訳じゃあない。それどころか、まだ出会って数日だ。けど――けれども、だ。
オレはもう気づいてしまった。陽子に対する好意に。それは、日常からかけ離れた場所で偶発的に起こる、ずっと昔にリゾラバなんて言われていた吊り橋効果と同義語のあやふやな心の動きなんかじゃあない。
「プッ……何て顔してるのよ。嘘よ、嘘」
「はぁ?」
「ここ見たさに観光客が押し寄せて海が汚されたからって、ずっと前に噂されるようになったんだって。今の若い人たちもそれを信じちゃってるみたいだけど」
口元に手を添えて、悪戯っぽく笑う。
「本当はね、ここで愛を誓うと永遠に結ばれるんだって」
バクンッと、胸が痛いくらいに跳ねる。
陽子が大きな瞳を潤ませてオレを真っ直ぐ見つめる。桜貝のような唇が小さく震えている。陽子の肩に置いたオレの手も。
吸い込まれるように陽子に顔を寄せると、彼女は静かに目を閉じ、オレを受け入れるように気持ち顎をあげた。
さざ波の音――心地よくリズミカルなさざ波の音が鼓動と重なる。瞬間、すべての音が消え失せる。感情が感覚を超えた。オレのすべてが陽子を求めていた。
そっと陽子に口づける。
ほんの僅かな時間だった。けれども、今この瞬間はオレにとっての永遠のような気がした。唐突に恥ずかしさが沸きあがり、オレはヘヘッと小さく笑いながら、未だ瞳を閉じたままの陽子の肩を優しく撫で……
「なん――で?」
思わず漏れた自分の声に息を飲む。
陽子の固く閉じた右目から涙の滴がこぼれ落ち、淡い桜色の頬に一筋の光の軌跡を残す。
すぅっと開いていく陽子の瞳には、オレの感情とは違う色が宿っていた。
別れの悲しみ? 違う、そんな色じゃあない。後悔――や、失望?
「陽子……」
陽子は涙を飛び散らせながら弱々しく首を振る。何か抑え難い不安がオレの全身を支配する。今ここで、陽子の手を放すのが怖い。
陽子はオレの手をするりと抜け、小さな声で「さよなら」とだけ呟き背を向ける。
そして一度も振り返る事なく走り去った。
オレの腕に陽子の涙の滴だけを残して。
* * *
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