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 親子連れが多い遠浅のビーチから少し離れた岩場で、深い青色の海に向かって飛び込む陽子。ここも一応遊泳区域らしいけれども、人の姿は殆どない。そもそもこの街は、他県からわざわざ遊びに来るような華やかな場所じゃあない。


「ねぇ、泳がないの?」


 海面から顔だけを出し、陽子がオレを呼ぶ。

 まったくもって無茶を言う。オレは泳ぎは得意ではないし、そもそも泳ぎに来た訳でもない。誰もが唸る写真を撮れればそれでいい。


「海でガチ泳ぎしてるヤツなんて初めて見たんだけど」


 何て言うのかな? 海って、水を掛け合ったり、浮き輪で波に揺られたり、砂浜で戯れたり、キャッキャとかウフフとか、そんなイメージしかない。


「泳がないから盗撮に間違われるんでしょ?」

「間違えたのは、陽子だ!」


 こっちに向かって泳いでくる陽子を尻目に、オレは岩場でカメラを構える。

 手にするのはフイルムの一眼レフ。オレのメインカメラ。デジタル一眼はあくまで前座だ。その写真をコンテストに出す事は、まずない。

 オレの視界の端で、小さな水飛沫をあげてフッと陽子が消える。オレは思わず振り返り、キョロキョロと辺りを見まわした。


 ザバッ!

 深い青色の海から突然顔を出した海坊主さながら、陽子はいきなりオレの足を取る。


「とか何とか言って、しっかり水着は着てるのに、ね」


 オレは慌てて岩場に広げたタオルの上にカメラを置く。カメラだけは死守する。それを待っていたかのように、陽子はバランスを崩したオレの足を返した。


 ドボンッ!


 頭から海に落っこちる。薄く目を開けて、光が見える方向へ必死に水を掻く。

 バサッと海面から顔を出し、死に物狂いでついさっきまでいた岩場に手をのばす。

 荒れる息。跳ねる心臓。沸き立つ頭。塩辛い口の中。


「ひ、ひ、ひ、人殺しッ!」


 白い波が立つ岩場にしがみつき、大声で叫ぶ。そんなオレの真横に寄り添って、悪戯っぽく笑う陽子。


「生きてる人間が言うセリフじゃないと思うけど。それに、ここ……足つくよ?」


 ほ? 本当だ。オレの足が細かい砂を掴む。海面から肩も出る。濡れたTシャツが肌に張りついて気持ちが悪い。

 ホッと息をつくオレの顔を覗き込み、ニヤァとイヤらしい笑みを浮かべる陽子。


「海斗、泳げないんだ」

「お、泳げるわ! 犬かきだけど」


 声のトーンがさがる。胸を張って言える事じゃあないのはわかっているのだけれども、認めたくないんだ。女の子に負けているだなんて。

 ザバッと岩を蹴り仰向けになり、穏やかな波に身を任せる陽子。その姿は、太陽を乱反射して煌めく光に浮かんでいるように見えた。


「教えてあげようか?」

「結構ッ! オレは泳ぎに来たんじゃあないの!」


 陽子は天を仰ぎながら、つまらなそうに口を尖らせた。



   *    *    *


 次の日も、陽子はオレの所へやってきた。昨日の帰り際、「碌な写真が撮れなかった」と零したのがいけなかったのかもしれない。原因は陽子なのに。

 オレは岩場を軽快に飛び越え、色々な角度から海の表情を伺い見る。そして、デジタル一眼で闇雲に景色を収め、小さなディスプレイに目を落とした。


「ねぇ、何で二つもカメラ持ってきてるの?」


 荷物が置いてある岩場で腰をおろし、暑さよけに頭から被ったタオルの隙間から、興味深そうにジッとオレの方を見つめる陽子。面白いものなんてある訳もないのに。


「いい写真を撮るには集中力が必要なんだよ。シャッターチャンスって言うの? 最高の一瞬を残すにはフイルムの方が性に合ってるんだよ」

「じゃあ、今撮ってる写真は?」

「構図確認の為だけの試し撮り」


 何でオレは、写真の『写』の字も知らない女の子にこんな説明をしているんだ?

 そもそも、陽子は何でオレにつき纏っているんだろう? まるで監視されているようで首の後ろがむず痒い。や、まぁ、青い空と海に囲まれて、水着の可愛い女の子がいるに越した事はないのだけれども。目の保養にもなるし。


「カメラって高いんでしょ? 海斗ってお金持ちなんだ」

「高校入ってすぐ、必死にバイトしたからな。陽子はいくつなんだ? 中学生……まさか、小学生なんて事は……」

「失礼しちゃう! 十六歳よッ! れっきとした高校一年生!」


 頭のタオルをペシリと岩に投げ捨てて、大きな目でオレを睨みつける。

 オレはフィルムカメラに持ち替えレンズを海に向けながら、ホッと胸を撫でおろした。

 小中学生を連れまわしたなんて言ったら、このご時世それこそお縄だ。つき纏われているのはオレの方なのだけれども。


 ファインダーから覗く海に光が映えて色がよく見えない。ここはPLフィルターを効かせて海そのものの色合いを引き出すのが得策だ。

 心地よい波の音を聴きながら、潮の香りに包まれながら、オレは大きく息を吸って止めると、おもむろにシャッターに指をかけ……


「ねぇ?」

「おわッ!」

 カシャッ!


 どんな嫌がらせだ? レンズを覗き込むなんて。フイルムはタダじゃあないんだぞ?

 オレは頭を抱え、無邪気に微笑む陽子を一瞥して大きな溜息を吐いた。


「あのなぁ、邪魔をするなら他所へ行って……」

「泳ごうよ」

「は!?」

「泳ごう? 教えるから」

「だから、泳がないって……」

「海の楽しさを知らない人が撮った写真って、それはいい写真なのかな?」


 オレはハッと息を飲む。そして、大きく目を見開き手にしたカメラに視線を落とす。


『体験出来ることは全部やるべきだ。深く知れば知るほど、景色はその表情を増すからな』


 オレが後輩たちに、特に夏樹に対して口を酸っぱくして言ってきたセリフだ。入賞しなければいけないなんてプレッシャーで、すっかり忘れていた。今までずっと、そうしてきたじゃないか。


 ああ、そうか。海を満喫してこその、いい写真か。


 こんな片田舎の女子高生に気づかされるなんて、いよいよオレも焼きがまわったな。

 藍より青い海を背に、陽子は大きな瞳を輝かせて笑う。オレの強ばった肩の力を解きほぐすように。



   *    *    *

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