カーテン

 水面を揺蕩う私の意識が、ゆっくりと覚醒へといざなわれてゆく。常時いつもであれば、この不可抗力と呼んでも差し支えない誘いに抗い、夢へと戻ってみようと試みるのであるが、今日日そのようなことをする気はめっきりと薄れていた。

 というのもついこの間。ろくでなしの私は毎日のようにアテもなく、コンクリートが織り成す――時々思い出したかのように色が塗布された――灰色の大森林を彷徨あるいていたのであったが、如何せんぼんやりとしすぎていたらしく。気が付けば妙に静寂しじまが満ちた横断歩道に、のらりくらり、ふらりふらりと踏み入ってしまった……という次第で、養生の為に入院をしたのである。

 健康だけが取り柄であった私にとって、入院をするというのは極めて不慣れなことであった。最後に病院のベッドに寝転んだ日すら思い出せないくらいには。しかし、いざ入院してみれば、それはそれは居心地の良い場所であった。元よりやる気のない勉学をうとみ、くだらない日々を生きている私にとって、ふかふかのベッドは無情なほど心地よいのである。他にも、つんとした酒精アルコールの匂いも好きだ。白くて清潔感のある内装も、時折ちょっと美人な看護婦が来るのも。私は此処が気に入った。少なくとも少なくない出費の、それ相応の価値はあるように思う。飯がいささか不味いのには目を瞑ることにした。

 加えて、季節は春である。時の刻は真昼時――尚良い。麗らかな、ぽかぽかとした日差しを体にたんまりと取り込んで。梢にまっている小鳥の、楽し気な歌声さえずりを聞きながら、そよそよと吹いてきた風に合わせて深呼吸をしてみる。するとどうだろう、優しい風が肺から血管を廻って、私に春を感じさせてくれるのである。実に満ち足りたひと時である。

 暫時しばらくぼうっとしつつ、春を享受していると、ふと、舞い落ちてきた花弁に目が留まり……次いで窓の端でゆらゆらとしているカーテンに意識が留まった。確かに、それは何処から如何みても、至って普通の、種も仕掛けもない乳白色をした無地のカーテンである。しかし何故だろうか、風に揺られて、春風と共にそよぐ様が、私を強く惹きつけるのだ。

 見舞いに来た数少ない友人が持ってきた、良く熟れたリンゴを粛々しゃくしゃくと齧りながら、物思いに耽る――思えば常時、カーテンは風の思うがままに揺れている。風の思うがままに、けれど時折自分で波打ってみたりしながら、如何にも気だるそうに。私はその様子を、一歩離れた此処ベッドからしずしずと観届けている。揺れることに疲れたりしないのだろうか、などと思いつつ。

 きっと私が同じように風に吹かれてみれば、私は疲弊してしまうだろう。風の調子によって高く舞い上がったり、ゆっくりと揺れたり。元来不器用であることも災いして、他の場所と同じような動作を続けられなくなって、私が居る場所だけが変な調子で揺れること請け合いだろう。

 そんなことを思っている間にも、カーテンは相も変わらず風に揺られて揺蕩うだけであった。それがさも当然であるかのように。

 私はふと、一抹の寂しさを覚えた。カーテンは風に吹かれると、連られて同じ向きへと靡くことができるが、私にはできない。ただ風に身を受けるだけであって、体が転がってベッドから落ちるわけでもない。あまつさえ風に吹かれて浮き上がり、ヒラヒラと彼方どこかへとすっ飛んでいく訳でもない。ろくでもない私がただベッドに横たわっているだけである。ただそれだけの、地球に重力があるのと同じような当たり前のことが、何故だか私の胸に冬を咲かせた。

 リンゴを食べ終え、残った芯を近くのごみ箱へ放り投げた。珍しく綺麗に中に入っていった。私は気分がよくなった。そのまま再び体を横たえ、草臥れた。やはり病院のベッドは居心地がいい。ゆらゆらと揺れるカーテンを一寸ちょっと離れた場所から眺めるのも、なかなかに悪くない。そう思った。

 あれから私は難なく退院した。幸いなことに後遺症やら何やらは一切残らなかった。代わりに一つ習慣ができた。常時は締め切っている窓を、たまには開けてやることにした。そして、風に揺られているカーテンを眺めるのだ。病院では気だるそうに揺れている印象であったが、今は少し、楽しそうに揺られているように見える。相も変わらず、私が揺られることはないのだが。風が吹けば気持ちが良い、それだけである。それでいいのである。

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厭世主義者の悦生 神崎 綾人 @Inorganic_sloth

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