厭世主義者の悦生

神崎 綾人

夏の祭りと片手のラムネ

 知人に近所で小さな祭りがあるらしいということを聞かされた。ここ暫時しばらくそういったものとは疎遠であったため、どれ行ってみようかと思い立ち、いそいそと足を運んでみた。場所は引っ越し前の住処の近くであったため、足取りは迷うことなく軽やかであった。道を進むたびに、人通りと喧騒が大きくなる。それに比例して、私の歩調も大きなものになっていった。

 公園に着いた。綿あめやら、りんご飴やらの露店と、むせ返るような人々の熱気。中央の一際大きい櫓から、端々にある木々にかけられた紐に気だるそうにぶら下がっている提灯――背丈の小さい頃駆けまわっていた公園も、こうして歳をとってみると、こうして姿を変えたものを見てみると、当時とはまた違った感を抱いてみたり、フクザツな思考を巡らせることもできるのだが、根底にあるこのわくわくとするのは、どうやら変わらないらしい。

 私はふらふらと会場内を彷徨あるいた。どこもかしこも新鮮味があり、同時に懐かしさも感じたが、道すがら目に入った露店ものの中でも特に気になったものがラムネであった。丁度誰一人として人間は並んでいなかったから、割高だとも思いつつ、買ってみることにした。陽気な店番の男に手渡されたそれは水滴を帯びていて、蒸し暑い今宵にはぴったりな冷たさだ。きっと中身もさぞ冷たいし、美味かろうと思い、栓をしているガラス玉を指で開けた。するとこいつは、ぽん、と軽快な音を立てつつ、中身をどんどんと溢れかえらせてきた。慌てて口に運んで飲んでみると、爽やかな甘さと、しゅわしゅわと舌と喉を刺激する炭酸すっと体に染み渡り、微かに残る思い出と共に夏が運ばれてきた。小さい頃に父にねだって買ってもらった時と変わらない味だった。

 その後も私は存分に非日常的な雰囲気を楽しんだ。花火の一つも上がらないような小さな町内会の祭りだが、安上がりな人間わたしにとっては十分である。

 ふと、足を止めた。気が付けば私は公園から足を踏み外して、公園の外周を囲うようにして通っている道路の脇の、こぢんまりとした駐車場にたどり着いていた。此処には会場にあるような熱気も、人だかりも、また明るさもない。あるのはただ、真夏の夜の生ぬるい風と街燈の灯、そして小さな喧騒と虫の声であった。戻ろうとは思ったものの、何の気なしに一寸ちょっと立ち止まってみようと思って、近くの街燈に寄りかかり、其処からぼうっと公園を眺めた。

 戻ろうと思っていたが、存外私はこの場所を気に入った。静寂しじまと喧騒との狭間にぽつりと存在する、忘れ去られたかのような空間。此処に一人で佇んで、炭酸の抜けかけたラムネを片手に公園を眺めていると、寂しいような、落ち着くような、そんな気がした。悪くない。そう思いつつ、飽きるまで明るい夜の公園を眺め、耳朶を揺らす喧騒を楽しんだ。

 どれくらいぼうっとしていただろうか。そろそろ寒くなってきたと思い、私は公園へと足を運ぼうとした。刹那、いかにも使い込まれていそうな、音の割れたスピーカーから、終了の知らせが飛び出してきた。

 それを皮切りに人々は散る。それを皮切りに、忘れかけていた静寂が背後から波を成して迫ってきた。

 私は暫時此処に佇んでいた。一夏の思い出の追憶、そして楽しさを与えてくれる場所である――祭りは、私にとってそう錯覚おもえた。同時に今夜はずっと続くのかもしれない、などとどこかでおもっていた。しかし、事実として終わりがある。私はそう言い聞かせるように、静寂に一人佇んだ。

 やがて、熱気を放っていた人々はまばらになり、いるのは関係者とおぼしき人間だけとなった。提灯の灯も消え、人の声も聞こえなくなり、近くで鳴いていた虫もいなくなった。寒くなってきた。そろそろ帰ろうと思ったところ、左手に持った飲みかけのラムネを思い出した。一気に飲み干してみたが、炭酸はすっかり抜けきっていて、ラムネと呼んでよいのか分からなかった。あるのはただ度を過ぎた甘さであった。

 くしゃみを一つした。気が付けば夜のとばりはすっかり下りきっており、夏を満たす空気も冷たくなっていた。私はポケットに手を突っ込んで、いつも通り背中を丸めて、如何にも陰気臭く帰った。

 あれ以来、私は一度として祭りに行っていない。ラムネもあの一晩で満足したし、なによりあの一夜限りの明かりの中に混じろうという気が起きなくなった。思い出は思い出のままでいいと思った。やはり私には、一人安アパートの窓を開けて、欄干に腕をやりながら、独り星を眺めているほうが性に合っている。ただそれだけである。

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