八、新たな旅立ち
かくして、ヴァルトベルクの音楽祭は幕を閉じた。
冒険者一行はアンスバッハ楽団一行と共に、プラーガの街へ帰還した。
優勝賞金はアンスバッハ楽団参加者の全員に分けられ、さらに冒険者一行には、亡霊討伐と音楽祭の治安維持の功が認められ、城を管理するヴァルトベルク町当局より特別報賞が与えられた。
アンナ嬢は、神聖魔法の使い手として正式に
クルトがファウストから受け取った
音楽祭の時以外は人が寄りつかなかったヴァルトベルクの古城には、その後亡霊騒動はめっきり起こらなくなり、最近は観光名所として人気を集めているという。
ゼバストゥス・アンスバッハの名は帝国中に知れ渡り、一時は由緒ある聖堂や王侯からの転職依頼が相次いだりしたが、ゼバスは辞退し、元どおり下町の教会のオルガン奏者へと戻った。
一方、マースハルトの人気も依然衰えることなく、その圧倒的な勢いの中に、ゼバスの名はじきに一時の時事談として消えていった。
礼拝のたびに大勢の客が押しかけていたゼバストゥスの勤める聖トーマス教会も、すぐに清貧な落ち着きを取り戻した。ただ、各地からの寄進が増えたり、市の教会庁当局の待遇も少し向上したようだ。
賢者の館には、今日もパンドラの舞を眺めつつ和やかに談笑する人々の賑わいがあった。
パンドラの隣には、フルートを吹くクルトとともに、持ち前の妙技を披露するゴーシュとハーメルの姿もあった。そして、カウンター席ではグリムが舞に見とれていた。
アイシャとカテナは、新聞を眺めるドルジの横で、紅茶とトロピカルジュースを飲んでいる。
普段なら優勝したことによって大はしゃぎするはずのカテナだが、今回はうつむいている。
時折顔を上げるが、ドルジ・アイシャ・パンドラ・クルトの顔をちらっ、ちらっ、と見る程度だ。
カテナ「────……」
少年の前に置かれたトロピカルジュースは確かに飲まれているが、さほど減ってはいない。
満足気のグリムは近くに座っているカテナの隣に座った。
グリム「どうしたんだね? 元気がないようだが」
カテナ「あ……」
グリムに気付き、顔を上げる。
カテナ「んと……オイラたち、ゆーしょーするってきめてさ、それでゆーしょーしたでしょ? オイラすっごくふつーに、うれしいな、いいな、っておもったんだ。オイラにもさ、もくひょーがある。まだそのもくひょーはたっせーできてない。やっぱり……オイラ、たっせーしたい!……でもそのためには、いつまでもここにはいられない……」
机の上に腕を組み、そこに顔を鼻の辺りまで埋めて迷っている。
時ならず思い悩むカテナの姿に感心を含んだ驚きを見せつつ、少年の髪を軽く撫でて話し出すグリム。
グリム「ふふっ、そうか、キミも多感な一人前の若者なんだな。――そうだね、望みに向かって進むためには、きっと苦難が伴う……そして、居心地のいい環境を去る勇気も必要になるかも知れないな」
カテナの隣りで語りながら、眼を細めてカクテルのグラス越しにどこか遠くを見やるようなグリム。その横顔を、カテナは黙って横目で見つめていた。
そして、二人の様子をやや遠巻きに見守る、不安げなクルトのまなざしがあった。
舞が終わり、パンドラは汗を流しにシャワー室へ行っていた。
温かい湯を浴びているパンドラ。整えられた美しい赤い髪が腰まで垂れ下がる。
パンドラ「決断の……時ね……」
奥の部屋からシャワーを浴び終わったパンドラが現れた。
その姿はいつもの踊り子の妖艶な服装ではなく、上からマントを羽織り、手には大きめの袋、腰には強く縛られた剣が備えられていた。
ゴーシュ「パンドラさん……」
パンドラ「そろそろだね。新しい風が吹くよ」
ハーメル「えっ!?」
パンドラ「乗りたい風に乗れないのは間抜けってものさ」
アイシャ「そんな……行かれてしまうのですか?」
出口に向かって歩くパンドラ。アイシャの横を通り過ぎていく。
パンドラ「あたしは旅芸人。川のように、流れていないと淀んでしまうのさ」
ハーメル「しかし……」
パンドラ「これが今生の別れってわけじゃないだろ。まだすぐに会えるさ。あんた達といたこの数日間、とても楽しかったわ。心から感謝している。ありがとう」
仲間達と抱き合い、別れを言うパンドラ。
カランカランと虚しく響くドアのベル。パンドラは去っていった。
パンドラ(音楽祭の時、確かに聞こえた。フランシーの呼び声が。今いくよフランシー!)
アイシャ「どうかお元気で……」
パンドラの向かった先を見つめながら、誰に言うのでもなく、ぽつりと呟いたアイシャ。気のせいか、アイシャの頬を撫でた微風からは異国の香が混じっていた。
アイシャ「パンドラさんが運んで来たのね、きっと。彼女の向かう先に追い風が吹きますように……」
そして、誰よりも愕然と嘆きを顕にするグリムの姿があった。
グリム「そんな…っ……ぅ……嘘だぁぁ……!!」
悲痛な叫びを上げる青年に、先程のクールな達観ぶりはもはや面影もない。
パンドラの大ファンとなっていたグリム青年は、彼女の去った今や、がっくりと地面に突っ伏し、すっかり真っ白な魂の抜け骸と化している。
パンドラの去っていった扉のベルの余韻も消え、やり場のない沈黙が流れる。
カテナ「パンドラ……」
パンドラが開けていった扉を数秒見つめる。
クルト(へんな感じ……)
不意に沸き起こった言い知れぬ胸騒ぎに、クルトは空虚感からはっと我に返った。
カテナ「あたらしーかぜがふく……のりたいかぜにのる……かぁ。……がぅ、きめたっ!」
それと前後するように、飛び降りたカテナの足音が沈黙を破る。
椅子から勢いよく飛び降りる。
そして足元に置いておいた自分の荷物が入った麻袋を拾い上げ、それを背負って体に結びつけた。
カテナ「みんな……ごめんっ、オイラもいくよ! オイラは……イザをさがしにいく!」
しっかりと言い、それからクルトの顔を見る。
その言葉に、クルトは予感の的中を確信した。
クルト「カテナ……」
呟いてみたその一言は、妙に実感なく思えた。
カテナ「クルト。たまにいやなことするけど、でもたのしかった! クルトがみどりがすきってしったとき、オイラうれしかったんだ……。オイラも、みどりのなかでいきてきたから。これからずっとさ、みどりをすきでいてよね! ……なんだかんだいって、けっこういいヤツだよね、クルトって! いままでいっしょにいてくれてありがと! つぎあったとき、またフルートきかせてよ! またいっしょにあそぼ! それと……じーちゃん、たいせつにしてよ?」
続いて、アイシャの顔を見つめる。
カテナ「アイシャ……なんにもわからないオイラにいろんなことをおしえてくれて、ありがとう! アイシャのはなし、いつもおもしろくてたのしみにしてた……。もうアイシャのはなしきけなくなるのはイヤだけど……こんどはオイラじしんで、いろんなことをみてくるよ! アイシャにまけないぐらいいろんなはなしをしてあげるから……だからいつか、ぜったいまたあおーね!」
出会いは突然。なら、別れも突然なのかもしれないと、アイシャは思った。心に隙間を持ったこの少年との冒険も、ひとたび幕引きなのだ。
アイシャ「決めたのね、カテナ……いい? 寂しくなったら、あなたの好きなお月様を見上げて。私やクルト……あなたを大切に想っている人も、きっと同じお月様を見てるから」
あぁ、それと、と付け加えるアイシャ。
アイシャ「旅路に疲れたらいつでも戻っていらっしゃい。また蜂蜜入りの紅茶を作ってあげるから」
カテナ「じー…ちゃん……」
少し照れくさいようにドルジを見ている。
カテナ「いつも、じーちゃんがそばにいてくれた。いっしょにごはんたべたり、いっしょにわらったり、いっしょにねたり、いっしょにたたかったり。おこられたこともあったっけ……」
そこまで言うと、肩を震わせながらうつむいた。
カテナ「いろんな…ことがあったね……。ずっとオイラは…めーわくかけて…ばっかで……。でも…じーちゃんは…いつも、オイラのことを…えぅっ…おもって…くれてた…。じーちゃんが…ほんとうのオイラのじーちゃんなら…よかったって……ずっと…おもってた……んくっ…」
カテナが別れの言葉を告げる間も、クルトはその場で目を丸くして佇むばかりだった。
アイシャのような贈る言葉も出てこない。この場にいる実感が持てないのだった。
森の奥で祖父母に育てられ、森の精達ばかりが友達だった。
その郷里も離れて旅に出て二年余り、無常には慣れているはずだった。
──じーちゃんが…ほんとうのオイラのじーちゃんなら…──
そう、カテナやドルジ達が本当の家族だったら──いや、まさに本当の家族のような、そしてこの日がずっと続くような錯覚を覚えていたのだった。
いつまでも桃源郷にはいられない。カテナもきっと、旅立った日の自分と同じ気持ちに違いない。
クルト「カテナ……!」
クルトは袖でまぶたを拭うと、励ますように微笑んで、嗚咽する少年の手を握った。
カテナ「……じーちゃん…オイラの、さいごのおねがいきいて……」
今も肩が震え、嗚咽が続いているが、なるべく声を漏らさないようにと必死にこらえている。涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げながら、カテナは言った。
カテナ「……さいごに…じーちゃんに…ぐすっ…おもいっきりなきついて…いい……?」
カテナの最後の言葉を聞いて、ドルジはゆっくりと立ち上がると腰を少し屈め、その両腕を広げて差し伸べた。
カテナ「うぅっ……うああぁあぁぁぁあんッッ!!」
賢者の館中に聞こえんばかりの声をあげ、カテナはドルジに飛びついた。
力一杯その服を握り、頭を、顔をドルジの胸へと押し付ける。
この温もりを、この匂いを、この肌触りを、絶対に忘れないように……。
カテナ「ありっ…ありがとう……! ほんと…に…ほんとうに! ありがとう……! ありがとう! ありが…とうっ……!!」
カテナはただ、ありがとうとだけ繰り返して言った。今までのものを全てその言葉に詰め込んで。何度も何度もドルジにぶつけた。それが、精一杯だった。
ドルジ「カテナよ、おぬしは自慢の孫じゃ。そう、これからもずっとじゃぞ……!」
胸元にしがみついて嗚咽する少年を、ドルジは優しく、しっかりと抱きしめ、何度も深く頷いた。
数分後。
カテナは館の出口を背にして立っていた。
パンドラが通ったばかりのその場所に。
ここが一番、中の様子を見ることができる。
カテナはしっかりとこの風景を記憶し、一度大きく深呼吸してから言った。
カテナ「……それじゃあみんな、オイラいくよ! オイラのやらなきゃいけないことがおわったら、またあいにくるからさ。それまで、みんなげんきでね!」
言いながら、カテナはもう一度その場にいる全員の顔を見て言った。
最後に見たのは、クルト。
目が合った時、今までと変わらない、いつもの笑顔をしたのをクルトは見た。
にぱっと笑い、キバがよく見える、その顔を。
カテナ「それじゃ、またね!」
最後にそう言って、カテナは飛び出して行った。
ここからまた始まるんだ。
今度は、自分ひとりの力で。
幼い野生児は振り向くことなく、自分の道をまっすぐに走って行った──。
去り際に見せたカテナの笑顔を見て、クルトも心から湧き出すように微笑む。
一歩歩み出て二、三回振った掌は、踵を返して走り去ったカテナの眼に届いたかどうか分からない。
軽快なベルの音とともに反動で戸口を数往復したのち、見送る者を遮るように閉じた扉。その少し歪んだガラス越しに見える路地を、クルトはしばらくの間じっと見つめて佇んでいた。
* * *
アンナ「こんばんは、ようこそ夕の礼拝へ……♪」
今日も、アンナは下町の小さな教会の入り口に立って、夕方の礼拝に訪れる参拝客をにこやかに出迎えている。
アンナ「貴方もどうぞ、お入りになって下さ……あっ!」
不意に黒光りする馬車が止まると、高貴そうなローブを翻した若紳士が降り立った。
紳士「御機嫌よう。アンスバッハ先生にお目にかかりたく伺ったのだが、礼拝のあとにでも叶うだろうか?」
それは、アンナもよく見覚えのある超有名楽士、マースハルトその人だった。
アンナ「は、はい……っっ、おことづけいたします……!!」
マースハルトは聖堂の後ろの席に着き、ゼバスの指揮による礼拝音楽に耳を傾けた。
ゼバス「これはこれは、こんな古びた教会までよく足をお運び下さいました」
礼拝のあと、思わぬ客人に臆面することなく、至って和やかにもてなすゼバス。
マースハルト「お目にかかれて実に光栄です、アンスバッハ先生。先般は我が部下が先生に大変ご無礼を働いたと知り、遅ればせながらお詫びに伺った次第で。これは心持ちばかりですが……」
ゼバスに深々と会釈をすると、懐からゼロがたくさん書かれた小切手を取り出し、差し出す。
アンナ「きゃ……!?」
ゼバス「いえいえ、滅相もない……そうですな、そのお気持ちだけ戴いておくと致しましょう」
マースハルト「しかし!…………」
差し出されたマースハルトの手にそっと掌を添えて遮り、微笑みを含んでゆっくり頷くゼバス。その堂々とした態度に屈服したように、マースハルトは小切手を握った手を下ろした。
二人の巨匠は、聖堂でしばし語り合った。
マースハルト「それでは失礼いたします。今度公演の折には、是非観にいらして下さい。素晴らしい笛を手に入れまして、今それを題材にしたオペラを作曲中なのです。そして……いえ、では……」
帰りがけ、馬車の前で見送るゼバスに、何か言いかけて言葉を途切れさせるマースハルト。
ゼバス「ええ、是非とも!」
アンナ「どうぞお気を付けて……」
馬車は、マースハルトを乗せて教会前の石畳を走り去っていった。
マースハルト(先生に『あの曲』をお聴かせできないのは残念なことだ……あのような荘重にして畏怖すべき曲が、私にも創ることができるだろうか。音楽祭の最後を飾った、あの曲のような──)
彼は懐から一本の銀の
その笛──吹く者の心をありありと顕すという
-結-
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