七、ヴァルトベルク音楽祭

 東の空から太陽が昇ってくる。北の大地の太陽は強い日差しを放つことなく、疲れた身体を優しく包み込む。

 パンドラは昼の集合時間までの間、独りで城の中庭にある店のテラスでコーヒーを飲んでいる。唇に運ばれるコーヒーは少し波をうっていた。

パンドラ「緊張? 百の観客の中、百の観客が奏でる千の歓声の中を舞ってきたあたしが……緊張しているの?」

 コーヒーが唇から離れた。その唇には笑みがこぼれていた。

パンドラ「面白い。今なら最高の舞台を演じられるわ」

 一方、冒険者達の寝室では──

カテナ「すー……すー……」

 子供に夜更かしは大敵。そこら辺の床でまるまって寝ている。

アイシャ「すぅ……すぅ…」

 魔力を使い切って、眠りも深いアイシャ。パジャマの襟のめくれにも気付かず、心から安息している。


 疲れた冒険者達が仮眠を取っている頃、参加者の宿泊棟としてあてがわれた城の客殿の一室では、窓際の机に座って古びた分厚い本をひもとくゼバストゥスの姿があった。

ゼバス「謎多き問題作と言われていたこの叙事詩サガの真意、そしてここに込められたファウスト卿の想いが、ようやく理解できた……」

 ゼバスは本を閉じると、椅子越しに部屋の中を振り向いた。部屋の奥のベッドでは、愛娘アンナが心から安らいだように、静かな寝息を立てていた。

ゼバス「今ならきっと素晴らしい劇を完遂することができる。ファウスト卿の果たせなかったものを乗り越えて──そして、励まし、支え、ともに努力を分かち合ってくれた皆の想いを受け止めて……!」


 日が沈み灯りが点された城の大礼拝堂で、音楽祭はいよいよ終盤を迎えていた。錚々たる大物楽団が名を連ねる。

グリム「さすがに終盤戦ともなると見応え抜群ですね! しかし、巨匠が並ぶ中でよくトリなんか確保できたものですね?」

ゼバス「前回までの上位入賞者には、順番を優先的に希望する権利があるのです。当然、我々にそんな権利はなく、完全に選考次第なのですが。やはり審査員の印象に残る後半ほど希望が多いようですな。しかし、実は一番最後だけは鬼門とされていまして……」

ゴーシュ「最優先で指定できる前優勝者は、しばしば最後から二番目を取るんです。その後に来た楽団は、圧倒されて戦意を失ううえ、前の余韻に霞んでしまうという……前回の優勝者は、マースハルト楽団です」

ハーメル「オレ達は正直、ハメられたかもしれねぇな。順番が決められたのは悪徳審査員とマースハルト楽団の執事どもがツルんでた間だからな。今までも対抗馬と目されてた新顔楽団がトリにされて、まんまと不完全燃焼して敗れたことがあった……」

 そんなことを話しているうちに、いよいよそのマースハルト楽団の演目を告げる案内があった。そしてそれが終わると、次はついにアンスバッハ楽団の出番だ。

 皇宮衛兵団のように一糸乱れぬ正装に身を固め、どれ一つをとっても最高級の楽器を手にした五十人以上もの楽団員が、ずらりと舞台に並んだ。そして、輝くような貴族風のローブを翻した美形の若者──指揮者マースハルトが、舞台の脇から颯爽と姿を現す。とたんに会場は、嵐のような歓声に包まれた。

 舞台の裏からマースハルトを眺めているパンドラ。

カテナ「うあっ……」

 なまじ耳がいい分、マースハルト登場時に沸き起こる歓声に思わず耳を塞ぐ。

カテナ「なんであのにんげんたち、きゅうにうるさくなるんだよぉっ!」

パンドラ「なるほど、“神童”ヴァンダーキントと称されていたわけがわかるわ」

 額から頬を一粒の汗が流れる。

ゼバス「彼は天才ですよ」

 隣に来たゼバスが一言つぶやいた。

パンドラ「ああ、化け物級モンスタークラスだね」


 指揮者マースハルトの研ぎ澄まされた一振りとともに、躍動に満ちたオペラが開幕した。

 確かにマースハルトの音楽には、魔性とも言えるような恐るべき魅力がみなぎっていた。

 一流の出演者、最高級楽器、大掛かりな舞台装置など、さすがに皇宮楽士とだけあって最大限に贅を尽くした舞台が整えられているのが分かるが、それらを持て余したり、見てくれだけでごまかしているのでは決してなく、十二分に活かしきってなお余りある素晴らしさを持っていた。

ゼバス「“天才”は“努力もしないで出来る人”――という俗説はよく言われています。マースハルトはわずか三歳にして、一度弾いた姉の音楽を、間違えることなく細部まで完璧に覚え、再現できたといいます」

パンドラ「ふっ、つまらないね。それは普通の天才だよ。あたしはたくさん見てきたさ。しかし奴は違う。生まれながらにして持っている才能に、さらに努力をし続けることによって今の自分が創られている」

ゼバス「おそらく人はそれを『奇跡』と呼ぶのでしょう」

 会場に目を移すパンドラ。

パンドラ「まぁ、細かいことは考えるのはやめよう。今はこの音楽を楽しむことにするわ」

 マースハルトを筆頭に奏でられる音楽に耳と心を傾けるパンドラであった。

カテナ「なにいってんのかよくわかんないけど、とりあえずあいつがすごいんだってことはわかったよ。オイラおんがくとかよくわかんないけどさ、これきいてると、なんってゆーか……ふしぎなかんじがするもん。でもさ、あいつがすごいなら、オイラたちはもっとすごいよね!」

アンナ「ええ! 皆さんならきっときっと、素晴らしい劇になりますっ!」

 カテナに答えてぐっと胸元で拳を握るアンナ。その顔にはもはや昨日までの不安の色はなく、今は仲間を心から信じ、力強く応援する確信に満ちた表情があった。


 あたかも荘厳な皇宮の大階段を白馬の騎兵団が駆け上がるような壮大なフィナーレが、輝くローブの袖をひるがえした力強い一振りとともに締めくくられる。と、一瞬の余韻ののちに嵐のような歓声が巻き起こった。

「ブラーヴォ!!」「マイスター・マースハルト!!!」「ジーク!!」「MOTTO MOTTO!!」

 もはや会場総立ちの大熱狂が渦めいている。

 舞台の脇の控え間で、アンスバッハ楽団の一行は息を呑んで待機していた。

グリム「大丈夫! 自信持ってリラックスして行ってきな、アイシャ君。呪文書暗唱の試験では一度だって間違えたことないって、フランツ教授から聞いたよ」

 出番の間際になってもしっかりと台本を握りしめたアイシャを、小声で励ますグリム。

アイシャ「ありがとうございます」

 グリムの気遣いに対して、気の利いた返事が出てこない自分を見て、やはり緊張しているな――と考えるアイシャ。

アイシャ(大丈夫、どんな時でも冷静に……クールになれアイシャ)

 聖歌隊の子供達の緊張を解くように魔法手品などしてみせるドルジの後ろで、クルトは自分の古びた愛器と“魔笛”を握りしめる。

カテナ「がうっ! いよいよオイラたちのでばんだね! なんかいろいろあったけどさ、けっきょくはこのときのためにがんばってきたんだ! いままでどーり、みんながんばろーねっ!」

 緊張などまるで知らず、ひとりはしゃいでいるカテナ。

 と、不意にその後ろの幕をかき分け、パンドラが姿を現した。

カテナ「がう?」

クルト「わ……!」

ゴーシュ「うお!」

グリム「ひゅー♪」

アンナ「うわぁ!」

アイシャ「すてき」

ハーメル「おっ!」

ドルジ「ほう」

ゼバス「これはなかなか」

 皆は後から歩いてくる美しくてセクシーな衣装に身を包んだパンドラに目を奪われた。

 鋭く力に満ち溢れた眼差し。迷いも緊張もない。最高のポテンシャルが顕わになる。

 マースハルト楽団が撤収してもなお冷めやらぬ熱気の中、舞台への幕が開かれた。

ゼバス「皆さん、いよいよ時が来ました……!」

パンドラ「さぁ、いくよ!」


 マースハルト楽団の演目が終わったのを見届けて、「さてと……」という感じですっかり満足したように酒場へと席を立ってゆく観客がちらほら。

 また、トリの舞台に上がった聖歌隊服の子供や修道士ばかりの楽団を見て、怪訝そうに顔をしかめる人々。

「おいおい、今年のトリはずいぶん田舎臭い楽団だな」

「なんだ、坊主・尼とガキばっかりじゃねーか!?」

「前が前なだけに、一段と見劣りがしますな……」

 やや騒然とした舞台に、パンドラ達ソリスト陣とゴーシュらヴェヌス楽団義援隊も続いて入場した。すると、やや見る目が変わった者もいた。

「ほう、意外と綺麗な女優もいるではないか」

「む、あれは……確か出場辞退したヴェヌス楽団の楽士では?」

 そして、練習を見守ってくれた麓の町の人々の温かい声援があった。

「ゼバス先生、待ってました!」

「あっぱれ、パンドラ姐さん!」

「アイシャさん、素敵です!」

「カテナくん、クルトちゃん、がんばって!」

「ドルジのおじいちゃん!」

 いささか混沌とした観客席を背に、いつもどおり地味なローブをまとったゼバストゥスが舞台中央の小型ポジティフオルガンに着いた。楽団の一同に目線を送り、ことにパンドラとゴーシュに目を合わせると、軽く、しかし深みのある目線で頷く。

 鍵盤に手をあてがったゼバスの深い一呼吸とともに、荘重な序曲が始まった。そして複雑に旋律の絡み合う躍動的なフーガへと展開する。

 オーケストラに聖歌隊の合唱が重なり、パンドラらの舞踏が舞台を彩る。

『…………!!』

 席を去ろうとしていた者も、嘲笑混じりで眺めていた者も、その演奏が始まった途端はっとしたように舞台へ目を見張った。


 冒頭の序曲と合唱に続いて、まずは語り歌レチタティーヴォが入る。合唱の止んだのちの数秒の間、アイシャは舞台中央で指揮兼オルガンを執るゼバスの傍らで、深く呼吸をした。

 ──カテナ、クルトや「賢者の館」に来る子供達に昔話を語り聞かせる時、あの優しい気持ちを思い出して──

 ゼバスと目で合図を取ると、オルガンとチェロの伴奏に乗って語り歌レチタティーヴォが始まった。その清楚で落ち着いた歌声に、観衆は物語の世界に引き込まれてゆく。

福音史家エヴァンゲリスティン(アイシャ)「そはいにしえの物語──天と地、移ろうものと永遠とわなるもの、神々と人とが未だ分かたぬ時──」

アイシャ(声は、震えていない。肺の酸素も少し余裕がある……このまま次の節まで)

 またこの感覚か、とアイシャは思った。

 冒険の最中、凶暴な怪物に襲われた時。思わぬ危機が身に迫った時。

 そして、困難を前にどうしても打ち勝たなければと想った時。

 混乱した自分を、何処からか見下ろす自分に気付く──いや、混乱しているアイシャを見下ろしている時がある。

 その時の自分は不思議と冷静で、アイシャを客観的に判断出来た。また、強く意思を送ればぎこちなくもアイシャの身体はそれに従うのだった。

 あくまで意識下、内面的なことだが、窮まり果てた状況──つまり、今のような時には頼もしくも思える変貌だった。


 舞台は徐々にヒートアップしていく。

聖女ブリギッド(パンドラ)「我こそは炎の女神ブリギッド! 我が父ヌァダ神より授かりしこの“不敗の剣”クライディムにて、魔王スルトの魔剣レーヴァテインをも打ち砕いてみせようぞ!」

 光り輝く剣をかざし、情熱的な舞を踊るパンドラ。力強いステップから始まり、円を描くように剣を振る。

 爪先から頭まで、さらには手の指先まで、電撃を受けたような衝撃が観客たちを襲う。舞台の中心でなびく美しい赤い髪と情熱の律動、演技ではない本物の“炎の女神”ブリギッドの姿が観客の目に映ったのである。


カテナ「よっと!」

 いかにも楽しそうにカテナは飛び回っていた。

 パンドラの情熱的な剣舞をさらに鼓舞するように、野性的な衣装に身を包んだ小柄な体躯が、俊敏な体術で舞台を縦横無尽に跳躍する。

聖女ブリギッド(パンドラ)「エリンの荒野の護り手なる野妖精ホビットよ、我が行く手を導き、怪物あやかしの棲まう霧の森をともに分け入る先達となりたまえ!」

 聖女ブリギッドの冒険の導き手にしてよき相棒である荒野の妖精ホビットの役にふさわしく、カテナはパンドラと見事に呼吸を合わせて立ち回る。それはまさに戦いを共にした戦友同士の見せる一体感であった。

 最初は渋って着ることを嫌がっていた服も、今では大分様になっている。

 軽快に、軽やかに、明るく、楽しく、そしてどこか勇ましく。

 しかし主役を邪魔しないという難しい動きに、観客も息を飲んだ。

カテナ「えっへへ!」

 大得意なアクロバットを最大限に魅せ、その場を大いに盛り上げていった。


 霧の立ちこめた深い森と、澄んだ水を静かにたたえる泉を思わせるチェロとハープの伴奏に乗って、郷愁ノスタルジーを漂わせる柔らかなフルートの音色が響く。

 白いローブと背中に白い翼を身につけたクルト。その手に執られた“魔笛”は、伝説に語られるような悪魔的な魔性を潜め、吹き手にすっかり順応したように素朴で無垢な調べを奏でていた。


 長いローブを翻して古木の杖を取り、鹿の角の帽子から白く波打った長髪のウィッグをなびかせた老人、大賢者ポードリク。

 威風堂々とした威厳ある立ち振る舞いを見せ、ドルジはよく通るバリトンで朗々と歌い上げる。

大賢者ポードリク(ドルジ)「地は汝が母、海は汝が父、森は汝が友──勇敢にして高貴なる女戦士・ブリギッドよ、ダナンの神々より遣わされし使命、いざ全うせん──!」

パンドラ(体が熱い……内から燃え上がる炎があたしの体をも焼き尽くすかのようだ)

 アイシャやカテナ、多くの仲間達の意志がパンドラの胸に入ってくる。人の足を止めるのが絶望ではなく諦めだとするなら、人の足を進めるのは希望ではなく意志だろう。これは意志の力。

観客A「なんという美しさ。さすがは炎の女神ブリギッド!」

観客B「あの激しさ、妖艶さは炎の貴婦人ウアジェトのようでもあるな!」

 全てを燃やし尽くすかのような情熱の炎の中に、パンドラは女神として観客達の目に映った。

 舞台は最高潮に達し、フィナーレへと向かっていく。


 熱狂極まり物語も終盤に近づいた頃、ふとオーケストラと合唱が鳴りやみ、ゼバスのオルガン伴奏とゴーシュの奏でるチェロのみの静寂な一場面が訪れた。

 そして、クルトに手を引かれて、修道女姿のアンナが舞台に姿を現した。

 亡霊騎士の手傷を受けたブリギッドが村の修道院に落ち逃れる場面だが、ここにきてアンナが登場する予定など台本にはない。楽団一同に静かな動揺が走る。事前に知らされていたのは、冒険者一行が疲れて眠っていたころ早めに起きていたパンドラとクルト、そしてゴーシュのみだった。

修道女(アンナ)「安息なさいませ、戦士様、今はその傷ついた身体に、暖かな癒しと安らぎを──」

 ゴーシュのチェロに乗って、アンナの澄みきった歌声が紡がれる。

 続いて、大賢者ポードリク、もといドルジの一声。(そそっとクルトの持ってきたカンペを握っている)

大賢者ポードリク(ドルジ)「復讐より憐れみを、戦より祈りを──いざともに祈りを、哀れにも彷徨える魂に、願わくは清き救いあらんことを……!」

 それに続き、オルガンに合わせて典礼文を歌うように詠唱するアンナ。それは、初めてパンドラがゼバスらと出会ったときと同じ、いつもの礼拝音楽だった。

 きょろきょろと顔を見合わせて動揺していた聖歌隊の子供達だが、アンナが微笑みかけて合図を取ると、歌い慣れた聖歌をともに歌い出す。

 ここに至って観客も異変に気付き、怪訝な顔と静かなざわめきが会場に広がる。

 叙事詩サガの原典はこの場面で打ち切られており、後世の詩人による補完版では、聖女ブリギッドは亡霊騎士団との決戦で相まみえて壮烈な悲劇に終わることになっていたのだ。

 ゼバス、ゴーシュをはじめ、楽団一同の意識は、懸命に歌うアンナを励まし支えるという一点に向けられた。

パンドラ(頑張りなアンナ。ここが見せ場だよ)

 パンドラに不安はない。笑顔でアンナを見つめている。それはもう子供を見る目ではなく、ライバルを見るかのような尊敬の眼差しだ。

カテナ「アンナ、すっごいなぁ……。えっへへ! なんだかよくわかんないけど、こうでなくっちゃね!」

 カテナは驚きもなく、ひたすら楽しそうだ。

アイシャ(がんばって、アンナさん……)

修道女(アンナ)「この天と地の間、あまねく生きとし生けるものに、等しく永遠の平和あらんことを──」

 舞台ではやがて素朴な衆讃歌コラールに即興でオーケストラも加わり、荘重なハーモニーが鳴り響いた。次第に観客の動揺も収まり、みな惹きつけられるように舞台に見入っていた。

 舞台の歌い手がみな手を取りあい、全員合唱による荘重なフィナーレを迎えた。


 深い残響を残して宵の闇に消える和音。だが、完結を示す指揮者の礼はない。息を呑んで目を凝らす観衆によって、会場は緊張をはらんだ静寂に包まれた。

 伴奏用の小型ポジティフオルガンを立ったゼバスは、役者と楽団の見守る中、舞台である城内大礼拝堂の正面奥に鎮座する巨大なパイプオルガンに上り、奏者台に着いた。そして、荘厳な響きが空気を揺るがした。

 それは、あの日真夜中の教会で彼が奏でた曲──鎮魂ミサ曲「レクイエム」。

 吸い込まれるように、あるいは祈りを捧げるように、じっとその音色に聴き入る観衆達。

 とその時、白い光の玉のようなものが会場のあちこちからふわりと湧き上がってくるのが、冒険者一行の目に映った。

クルト(生命の精霊……!?)

 一心にゼバスの演奏に聴き浸っている観衆や他の楽団員の様子を見ると、どうやら彼ら多くの者の目には入っていないようだ。

カテナ「うがぅっ!?」

 思わず驚嘆の声をあげる。

カテナ「なにこれ……なんかこっちのまちにきてから、へんなことばっかりおきてるよ!」

 無数の光の玉は、祝祭を彩るイルミネーションのようにきらきらと古城の塔や木々を照らしながら、軌跡を描いてゆっくりと夜空へ昇華してゆく。

 そして曲の終盤頃、白い光に包まれた半透明な身体にローブを翻し、胸元に本を抱えた老人の姿が、大オルガンの中央から浮かび上がった。

 パンドラ達に向かって深く会釈をし、ゆっくりと虚空に舞い上ってゆく老人──ファウスト卿。それは、伝説に語られる通り、いやそれ以上に、威厳に満ちた光輝な姿であった。

ファウスト「有難う、諸君……」

パンドラ「あんたもね。大したもんだよ」

 虚空に消えていくファウスト。パンドラは上を見上げると、強烈な生命の精霊の光が目に差し込んできた。ふいにパンドラは手を額のあたりにかかげる。それはあたかもファウストに対して敬礼をしているようにも見えた。

カテナ「!! じーちゃ……」

 無意識にファウスト卿に声をかけようとしていたが、呼び終わる前にファウスト卿は会釈をしながら天空へと昇っていってしまう。


 長い余韻が完全に夜闇に吸い込まれても、会場は水を打ったように深い静寂に包まれていた。

 しばしの沈黙ののち、誰からともなく湧き上がるように拍手が起こった。

 一人、また一人と立ち上がる観衆。その波紋は会場いっぱいに及び、やがて相乗するように大歓声となっていった。

 あたかも、小川Bachのせせらぎから大海Meerの轟きへと至るように──

 視覚や嗅覚、そして聴覚にも自信を持つカテナだが、盛大な拍手は半分程度にしか聞こえていなかった。

カテナ(ファウストじーちゃん……これでよかったのかな。わらってた……)

 カテナはステンドグラス越しに夜空を見上げながら、珍しくまじめな顔つきを見せていた。


 最後の舞台が終わった。

 一人ずつ、舞台の前に出てお辞儀をしていく。パンドラもスポットライトの下で剣を一度上にかかげ、お辞儀をした。美しいその姿に会場はさらに盛り上がった。

 カテナもくるっと空中前回りを披露して華麗に着地し、頭を下げた。

 最後にゼバスが前に出て、深く頭を下げた。もちろんそこで最高の拍手が湧き起こる。

 鳴り止まぬ歓声と拍手。ゼバス達は一列に並び、再びお辞儀をした。

 かくして芝居の幕は下りていく。


 演目が完了した後も、会場は熱い熱気と感動に包まれていた。

パン屋「アンスバッハ先生! いやー今夜の舞台は最高でしたよ!!」

男「パンドラ姐さん、握手して下せぇ!」

女「ちょっと見て、野妖精ホビットと天使の子よ~!」

 審査結果発表までの待ち時間、楽屋から出てきたアンスバッハ楽団の一行は、あちこちで熱狂的な歓迎を受けた。

カテナ「がぅっ!? やめっ……こっちくるなぁ!!」

 根が人間嫌いのカテナは、しつこく歓迎をしようとしてくる“敵”からするすると逃げていく。

クルト「カテナ……!」

 逃げ去っていったカテナを追って、クルトも会場から走り去った。彼女も元来人見知りなので、黄色い声のお姉さん達(中にはお兄さんやおじさんが混入していたりする)に囲まれてほっぺをぷにぷに弄られたりするのは、実に居心地悪いのだ。


カテナ「……がぅ?」

 気づけば会場である城の入り口まで戻っていた。

カテナ「どーしよ、はぐれちゃった……でもいまもどってもまたにんげんたちがよってくるからなぁ……いいや、すこしおちつくまでどっかひとのすくないところにいよっと」

 そのまま城を出て、城の周りを散歩している。

カテナ「あっ、あそこからいーにおいがするっ!」

 城門前の馬車止め広場に出た瞬間、自慢の嗅覚技能を発揮。いつも通り四つ足で走って移動し、一軒のワッフル出店の前に立ち、早速注文する。

カテナ「えっと……あの、おねーちゃん。このおかし……ちょーだいっ! でもオイラ……おかねとかかぞえらんないから……こっからおかねとって!」

 相手が人間なので、恐る恐る訊ねるカテナ。

 出店の女の前に、どしゃっと全財産の入った袋を置くカテナ。いつまで経ってもこっちの方は成長しない。

 カテナの出した袋から、店員は銀貨二枚だけ受け取って返した。

店員「はい。ありがとうよボク」

 カテナがワッフル店の付近で買い食いをしているところに、一歩遅れて駆けつけたクルト。

 二人で少しぶらぶらしていると、城の塔から鐘の音が鳴り渡った。

クルト「カテナ、そろそろ戻ろ! 結果発表始まるみたい……!」

カテナ「あっ、やばい! わぁあっ、いそいでもどらないと!!」

 全力ダッシュで城へと走り、その入り口に入ろうとした時。

カテナ「がぅっ!?」

女「きゃぁっ!」

 カテナは何かとぶつかってころころと一回転してしまう。

 その声はとても澄んだ音をしていて、本当に声なのかと疑うぐらい綺麗だった。

カテナ「いっててて……」

 起き上がったカテナが見たのは、長い銀髪の美しい女性が同じように起き上がっているところだった。

女「あっ! 大丈夫ですか!?」

 女は倒れたカテナの手を握って起こした。女の美しい声は普通の人間と違う感性を持つカテナの心にも優しく響く。

カテナ「がぅっ……ありが…と。オイラはぜんぜんだいじょーぶだよ。おねーちゃんもだいじょうぶみたいだね、よかった……」

 人間が苦手なカテナだが、その女性から感じる不思議な雰囲気に、自然に心を許してしまう。

クルト「ごめんなさい──あ……!?」

 すかさずぺこりとお辞儀をし、その顔を起こした時、女と目があったクルトは、ふと既視感を覚えた。

クルト(この人……パンドラさんの探してた似顔絵の女の人に似てる……)

女「それでは私はこれで。申し訳ございませんが急いでいるので」

 女は立ち上がったカテナに一礼をした。

クルト「あ……」

 それを確かめる間もなく、女は人混みに消えていってしまった。

カテナ「あ…うん。じゃあ…ね……」

 走り方も上品な女性を、見えなくなるまで見送るカテナ。

カテナ「きれーなひとだったね、クルト……。こえもすごくきれーだった……」

 ぼーーっとしながらつぶやくように言うカテナ。

 顔がほんのり赤く見えるのは気のせいなのか、真なのか。

クルト「ん……」

 いささか気がかりなクルトを、優勝者発表を告げる角笛の音が牽制した。

カテナ「がぅっ! こんなことしてるばあいじゃないや、オイラたちもいそごうっ!」

 二人は駆け足で、優勝者発表の間際にゼバス達の元へ戻った。


 その頃、審査員室前の廊下にて。ローブを翻しつかつかと早足で歩く審査員の紳士を、貴族風の身なりながら品位に欠けた狡猾そうな男がすがりつくように追いかける。

貴族風の男「お、お待ちくださいませ博士殿Herr Doktor……お望みの“私的寄付金”はお幾らで? 何千ガメル、いや何万ガメルですか!?」

審査員「マースハルト氏は確かに偉大な楽士です……しかし、今回は貴公らの完全敗北だ──」

 息の上がった必死の形相に苦しい作り笑顔を浮かべつつ、ローブの袖を捕まえてさする貴族風の男を、紳士は冷たく振り払うと、審査員室の扉の奥に消えた。

 審査員室前の廊下にて。貴族風の男──マースハルト楽団の執事は、尻餅をついてずれたカールのウィッグを直すと、目の前でばたんと閉ざされた扉を忌々しげに睨んで歯ぎしりをした。

糞っシャイセ! 新任審査員がなめおってからに……」

「やれやれ、まだ蔓延っていたとは……私の品格を貶める癌細胞が」

 その背後から不意に降り掛かった冷徹な声に、男は背筋を凍り付かせた。

「実に穢らわしい……」

 輝くローブに身を包んだ若い男が、あたかも古代の石膏彫刻のように端正な、そして冷たい表情──いや無表情で、尻餅をついたままの男を見下ろしていた。

「マ、マースハルト先生!? ッッこれは……ヒイッ!!」


 宵の古城に鐘の音が鳴り渡り、松明に照らし出された塔の物見台に、巻き畳んだ布が構えられた。

 会場の誰もの視線が、張りつめた緊張と熱い期待を帯びてその塔に集中する。いよいよ優勝者発表だ。

 物見台の縁から掲げられた布の束。高らかな角笛の音とともにその拘束が解かれ、大きな垂れ幕が塔の壁面に沿って翻る。

クルト「ん……っ!」

アンナ「きゃ…………」

ドルジ「ほぅ」

ゼバス(神よ……!)

 一瞬ののち、会場を制圧する嵐のような歓声。

 篝火に照らしだされて夜闇に翻ったその旗は、まさにアンスバッハ楽団の紋章旗であった。

アンナ「私達が……優勝?」

 歓喜の声をあげる仲間達の中、一人だけキョトンとした表情を浮かべるアンナ。その頭を、後にいた赤髪の女性が優しく撫でる。

パンドラ「ああ、優勝だよ。おめでとう」

アンナ「はい……!」

 涙を流して喜ぶアンナを、パンドラは優しく抱きしめた。

アンナ「ありがとうございます……! みなさん、本当にありがとうございます!!」

 満面の笑顔に涙を流しつつ、パンドラ達の手を握って何度も力強くお辞儀をするアンナ。

ゼバス「おや、私がクリスマスプレゼントをあげた時にだって『神様とお父様に感謝します』なんて言うアンナが、神の名を差し措いて感謝を述べるとは!」

アンナ「そ……それと、愛しき神様!」

ゼバス「はっはっは。ともあれ、ありがとう──パンドラさん、そして冒険者の皆さん! なにもかも皆さんのお陰です。本当にお礼の言葉もありません」

 赤面するアンナの肩をゼバスは優しく撫でたのち、おもむろにパンドラ達に向き直り、大きな掌を差し伸べる。


 歓声で沸き立つ会場の脇の貴賓VIP観戦席。ゼバスらが舞台で表彰を受ける様子を、マースハルトは人知れず眺めていた。その一見落ち着き払ったような端正な姿の中には、溢れんばかりの興奮がみなぎっていた。

(今回は確かに私の完敗だ……否、なんと喜ばしい縁を得たことだろう! この歴史的舞台に立ち会い、彼のような稀代の芸術家と勝負を交えることができたのだ。私が“Amadeus─神に愛されし者”だと云うならば、彼の音楽は神そのものだ。なんと偉大で、畏怖すべき楽士であろう、彼──ゼバストゥス・アンスバッハ師は!)


 総指揮者ゼバストゥスと主演俳優パンドラ、伴奏者代表としてゴーシュ、そして聖歌隊代表としてアンナが、表彰を受けに舞台へと上がった。

 誇らしくも敬虔に表彰状を受け取るゼバス、はにかみ笑顔で顔を真っ赤にしてメダルを受けるアンナ、緊張でこちこちのロボット状になってトロフィーを握りしめるゴーシュ、そして紅くなびく髪に月桂樹の冠を戴き、得意満面に歓声に応えるパンドラ。

 その様子を、クルト達は出演者用控え席で見守っていた。

 不意に高らかな足音が鳴り、一人の若い女性が駆け込んできた。

クルト「あっ……!!」

 控え室に現れたのは、先程カテナがぶつかった女性。

女「姐さんは!?」

クルト「んっ……パンドラさんならあそこに……」

 彼女こそはパンドラの捜していた旧友・フランシスという女に間違いないと、クルトは確信した。

 クルトが指を指した先には、冠を受け取る美しい姿のパンドラ。

フランシス「姐さん、やっと会えた……うう……」

 涙が目からこぼれ落ちる。フランシスは喜びのあまり、その場に膝をついて座ってしまった。クルトは何と声をかけたら良いか分からず、ただ呆然としていた。


 拍手と歓声の中、アンスバッハ楽団は舞台を後にした。ゼバストゥス達の姿が見えなくなった後も、拍手は鳴り止まなかった。

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