六、ファウスト卿

 数秒ののち視界が開けると、パンドラ達は小さな礼拝堂のような空間にいた。

 正面奥の祭壇の傍らには司教座のような立派な椅子と机があり、古の貴族を思わせるローブをまとった白髪の老人が、分厚い本を膝元に抱えて腰掛けていた。

 祭壇の蝋燭と机に置かれたランプの薄明かりが灯った部屋の中は、温かい夢の中のような不思議な落ち着きがあった。

老人「見事かな。久々に素晴らしい舞台を見せてもらった」

 老人はパンドラ達の姿を見ると、数回掌を叩きながら静かな声で告げた。

パンドラ「あんたは、もしかして……」

老人「如何にも。吾輩はリヒャルト・フォン・ファウスト――そう呼ばれておった」

アイシャ「あなたが…ファウスト卿……」

パンドラ「ファウスト卿……なるほど。こうして面と向かうとよくわかるよ、あんたがどれほどの芸術家かね。たいしたもんだ」

ファウスト「讃辞、謹んで頂戴しよう」

 パンドラはあたりの異様な雰囲気を気にも止めず、ファウストだけを見つめた。

 いつしか構えていた剣を、だらりと脱力した腕と共に下におろしていた。

ファウスト「先ずは、詩人共の無礼を詫びよう。そして、遙々訪ね参られた労をねぎらいたい」

 老人は続けて、威厳を漂わせた仕草で会釈をした。

アイシャ「……」

 当りを見回しながら現状を理解しようと努めるアイシャ。この礼拝堂のような場所がどこであるのか、何か手がかりは無いものかと当たりを見回す。

 なるほど、背後にある堅牢な扉は、見覚えがあるように思われた。恐らく、ここは先程までいた広間の奥に立ちはだかっていた扉の向こう側。

 一同は、先程の激戦で身に受けた傷や魔法による疲労も、いつの間にかすっかり癒えていることに気付いた。

カテナ「アンナは? アンナはどこにいるのッ!?」

 はっと我に返って、ファウストに詰め寄る勢いで(クルトに引き留められているが……)叫び掛けるカテナ。

ファウスト「案ずるなかれ、少女は無事だ。彼女には感謝したい。彼女の一途な想いが諸君をここへ導いてくれたのだよ」

 老人は一同を落ち着けるように、静かな声で答えた。そして、一瞬遠くへやった眼をパンドラ達の方へ戻して、続ける。

ファウスト「永く求め彷徨っていたものを、漸く見出した心地だ……如何だろう? 一つ、我が望みを聞いてはくれまいか?」

カテナ「えっ…ちょっとまってよ! きけんなところをいっしょうけんめいきたのに、アンナはここにいないの!? じーちゃんのは、オイラのしつもんのこたえになってないじゃんかぁ!」

パンドラ「坊やの言うとおりさ。あたしたちの目的はアンナの救出だけ。それ以外のことに手を出す気はないよ」

アイシャ「失礼を承知で伺いますが……ファウスト卿の提案への受け答えで、アンナさんの安否が変わりかねないということでしょうか」

 想定外のファウスト卿の対応に考えを廻らすアイシャ。やはり拭い切れない不信感を堪えつつ卿の話に答える。

ファウスト「成程、案ずるなかれと云えども焦燥に駆られるは無理なかろう……」

 カテナとパンドラの威勢に、僅かに目を見張る老人。続くアイシャの言葉を聞いて顎鬚を一撫でしたのち、おもむろに口を開いた。

ファウスト「失敬許されよ。彼女は此処におる。否、此処は彼女の思念によって創られた仮の空間と云ってもよい。故に、彼女には間もなくの再会を保証しよう。その保証は、我が望みに対する諸君の是非には関わらぬ。しかし、こうして呼び覚まされた我が和魂にぎたまは束の間。間もなくとは即ち、吾輩は長くこの姿では居られぬのだ。邪神のくびきに縛られし我が荒魂あらたまが蘇れば、ここに集積した数々の怨念は永く消えることなかろう……」

ドルジ「成程、御意はお察し申しました。即ち……」

 ドルジの言葉を聞き、ファウストは深く頷いて続けた。

ファウスト「我が未練を果たしてはくれまいか――即ち、我が絶筆にして未完の作『聖女ブリギッドのサガ』を完成し、素晴らしく演じきってはくれまいか」

パンドラ「やれやれ、あたしらはアンタの手の上で踊れってわけね。気に入らないわ、あんたのその上から見下ろした態度がね」

 溜息を吐くパンドラ。

パンドラ「でも『聖女ブリギッドのサガ』っていったら……」

ドルジ「果たして偶然か、必然か……」

パンドラ「まぁいいわ、ファウスト卿。頼まれなくても、完璧に演じきってあげる。最高の舞台をね」

 再び強く握られた剣の切っ先をファウストに向けた。

ファウスト「頼もしき限りかな……」

 白い髭に覆われたファウスト卿の口元に、微かに微笑みが浮かんだように見えた。

パンドラ「あんたも怨念もちゃんと成仏させてあげるわ。きれいさっぱりね」

カテナ「がぅ…さっきからなにいってんのかすっごいわかりにくい……」

 アイシャに分かりやすく説明してもらい、ようやくある程度理解したのかどうか……。

カテナ「カンペキにやるのはじーちゃんのためでもあるんだ……。わかった、アンナのためだけじゃなくじーちゃんのためにも、ぜったいせーこーさせるから!」

 自然に手が、アンナの帽子の入った袋に触れた。

アイシャ「……」

 無言で肯定の意思を伝えるアイシャ。

ファウスト「諸君を災禍に巻き込んでしまったことは面目ない。しかし、今は有り難き縁を得たと安堵するばかりだ。では、これを受け取られよ」

 老人はおもむろに立ち上がると、膝元に抱えていた本と、棚から取り出した銀の横笛フルートを差し出した。

 アイシャとクルトの二人に、ドルジが目を配る。

 二人はそれに従い、老人の前に進み出てそれぞれ受け取った。

ファウスト「『聖女ブリギッドのサガ』の未完となった草稿と、“魔笛”ツァウバーフレーテだ──あらゆる呪歌の力を増幅させるが、使う者の心が弱ければ、その魔力に魅入られてしまうやも知れぬ。不要とあらば、然るべく処分してくれたまえ」

パンドラ「“魔笛”ツァウバーフレーテか……」

グリム「ご存知なのですか?」

パンドラ「知っているわけじゃないけど、友達が使っていたのと似ていただけさ。悪しき心を持つ者が使えば、闇の力を増大させ、ゆくゆくは魔の虜に堕ちてしまう魔性の笛。しかし、心美しき者が使えば、天使の歌声と呼ばれるほど、人の心に美しい音色が奏でられる。いや、人の心を惑わせるというほどの音色。悪魔の歌声と言った方がいいかもね」

 パンドラは少し笑みを浮かべた。

 老人は、再び椅子に腰を下ろした。見ると、老人の身体は次第に半透明になりつつある。

ファウスト「かの助祭の少女を見て、不意に我が愛娘を思い出した……

 許婿いいなづけとの婚儀の直前、娘は若き詩人とともに心中した。失意のさなかにあった吾輩は、ふと救いの声を耳にした。ヴァルトベルクの音楽祭で優勝を得れば、彷徨える娘の魂を救うと。ただし、娘の命に対する未練を捨て去り、一心に鎮魂の念を込めて叙事詩サガを紡げば、と──果たして、それは叶わなかった。吾輩は執筆に行き詰まった挙げ句、音楽祭を前にして、悪魔崇拝容疑により処刑された。

 救いの契約に対して越え難き試練を課し、成就せねば魂のしもべとなる……かの救いの声は、かくも恐ろしき代償を伴う邪神の声であったと知った時には、全てが遅かった──

 諸君の劇が完遂した時、即ち我が呪縛が解け、永遠の安息が訪れるのだ」

 静かに語る老人。その姿は透明度を増していった。それにつれて、次第に周囲の景色もおぼろげになってきた。

ファウスト「芸の才とは、何よりも戸惑いを捨て己を信じ、そして仲間を信ずることだ。願わくば、誇り高き汝ら一座に幸いあらんことを……」

 老人は最後にそう言い残すと、虚空に姿を消した。その瞬間に、周囲の重厚な調度具や絨毯はふっと消え、冷たい石造りの地下礼拝堂となった。


 薄暗く蝋燭の点った祭壇の前には、一心不乱に黙祷を捧げるような、一人の小柄な助祭服姿があった──助祭帽は被っておらず、柔らかなブロンドの髪が肩に垂れている。

パンドラ「アンナ!」

 パンドラは誰よりも早く走り出し、祭壇に向かって跪くようにして眠っていた助祭服の少女を抱き起こした。

パンドラ「アンナ! しっかりおしよ!」

 パンドラの力強くも優しい腕がアンナを包み込む。

カテナ「アンナぁ! だいじょーぶ!? どっかいたいとことかない!?」

 アンナを発見するなり、パンドラの後をすぐ追いかけて、横でおろおろしているカテナ。

 アンナは、パンドラの腕の中でそっと目を開いた。

アンナ「私…………ごめんなさい……」

 しばしうつろな眼で辺りを見回したのち、少し項垂れたように呟いた。

クルト「もうだいじょうぶ……」

ドルジ「無事で何よりじゃった。具合はどうじゃね?」

 クルトが駆け寄って手を取り、ドルジもゆっくりと脇に寄る。

 アンナはパンドラの腕の中で、記憶を辿るように話し始めた。

アンナ「私を呼ぶ声が聞こえたんです……加護を授けると言っていましたけど、だんだん助けを求めるようにも聞こえてきました。音楽祭の行方が不安だったのもありますけど、なんだか必死に求められているような胸騒ぎがして……。私が行かなきゃ、って、無性に思ったんです。

 ここに来たら、救いを求める悲痛な声ばっかりになりました。特に、この祭壇からはとても哀しい気配がして……それで、私一心にお祈りを捧げていたんです。どうか彼らの哀しみと苦しみが消えますように……って」

 ファウスト伝説の話とゴーシュが発狂したという話を聞いたあたりから、アンナの精神状態は次第に揺らぎつつあった。

 そして似非亡霊グリムの残したファウストの古書を祭具庫で見つけて紐解いてしまった時に、見事誘惑の呪いにかかってしまったのだ。

 祭壇のたもとには、石の墓標のようなものが刻まれていた。その文字は──

  “Richard Graf von Faust” ─リヒャルト・フォン・ファウスト伯爵─

ドルジ「成程……ここに呼び寄せられ、さらにファウスト卿の和魂にぎたまが目覚めたのも、アンナ嬢に何か特別な力があったからやも知れぬの」

アンナ「ご心配を掛けて、本当にごめんなさい……私の心が弱かったから、怨霊なんかに誘惑されたのですね……」

 疲労した精神をドルジによって癒され顔色は良くなったものの、アンナは申し訳なさそうに項垂れている。

カテナ「ひとりでいっちゃうなんて……オイラをおこしてくれてよかったのに! アンナがなんともなくてよかったぁ」

 はあぁぁ~、と深く安堵の息を吐くカテナ。

ドルジ「アンナ嬢の直向きで強く優しい思いが、呪縛の内に眠れるファウスト卿の心を呼び覚まし、わしらをここに導いたのじゃ。大手柄じゃぞ」

アンナ「そ、そんな……私……」

 ドルジに優しく肩を撫でられて、恐縮そうに頬を赤らめてうつむくアンナ。

カテナ「でも、がんばったねアンナ! へへっ、つぎはオイラたちががんばんなきゃね! はいっ、これ!」

 麻袋からしわくちゃになったアンナの帽子を取り出して差し出すカテナ。

アンナ「これは、私の聖帽……」

 カテナに差し出された帽子を受け取って、一気に緊張が解けてこみ上げてきたような涙をぐっと拭うと、いつもの屈託のない笑顔を満面に見せる。

アンナ「カテナくん、ありがとう……皆さん、本当にありがとうございます……っ!!」


 部屋を閉ざしていた堅牢な扉は、アイシャが手にした本をかざすと自動的に開いた。

 先ほど死闘の繰り広げられた大地下室は、今やしんと静まりかえっている。

 一同は、来た時に通った長階段を通って出口へ向かった。

カテナ「もうすこししたら、たいようのぼるじかんかな? きょうはぜったいゆーしょーするからね!」

 後ろを向いて階段を上りながら、ぐっと、握り拳を天井に向かって突き上げるカテナ。さらに、その場で軽快に回転ジャンプする。

 が、身軽なカテナにしては一瞬の油断だろうか、着地に失敗して見事に階段を転げ落ちてしまった……。

アンナ「きゃっ!? カテナくん、大丈夫ですか!?」

カテナ「ってて……でも、こんなかすりきず、へーきだよっ!」

アンナ「手当てしないと……足見せてくれますか?」

パンドラ「アンナ嬢は相変わらず心配性ねぇ……って、おや?」

クルト「わ……!」

ドルジ「ほう……」

カテナ「がぅ?」

 一同口々に感嘆の声を上げる。なぜなら、アンナが手を軽くかざした途端、カテナの足の傷が一瞬にして癒えたのだ。掌から放たれた白い光とともに──

アンナ「? 私…………」

ドルジ「おめでとう、神と通じ合ったのじゃな。即ち、立派な神聖魔法の使い手となったのじゃ」

 ドルジはぽかーんとしているアンナの掌を取り、その手の甲に聖印をかざして祝福の印を切った。

カテナ「すす、すごいやアンナ! ぜんぜんいたくもなんともないよ!」

 ぴょんぴょんと飛び跳ね回るカテナ。

カテナ「いいなぁ、オイラまほーなんてつかえないからなぁ! えへへ、ありがとう、アンナ!」

 アンナに飛びついてぎゅーっと抱きつくカテナ。

 初めて自分の手から放たれた優しい光。少し戸惑っていたアンナだったが、カテナに飛びつかれて一瞬驚いたような顔をしたものの、すぐにその表情をほころばせ、頬を寄せて抱き返す。緊張していた顔に穏やかな笑顔が戻った。

パンドラ「やるじゃないか。これで頼もしい仲間が増えたね」

アンナ「いえ、私なんかまだ……」

パンドラ「もう立派な大人の仲間入りさ。これで今日の音楽祭にも力が入るってもんだよ」

 アンナの頭を軽く撫でて誉めるパンドラ。

アンナ「ふふ、“もう大人”なんですから、子供みたいに頭を撫でなくても良いですよ、パンドラさん」

パンドラ「おっと、失礼したねアンナ」

 地下通路にパンドラとアンナの笑い声が響いた。それに続いてグリムらも微笑をあげていた。


 地下通路の入り口に掛けた施錠魔法を解いて外へ出ると、ゼバスとゴーシュ、そして守衛隊の面々が出迎えた。

ゼバス「おおアンナよ……!」

ゴーシュ「アンナさん! そして皆さんも、ご無事で何よりです!」

アンナ「お父様! 私、私……!!」

 出迎えたゼバスの腕に飛びついて、興奮冷めやらぬ様子のアンナ。

 ドルジは事のいきさつを簡潔に話した。

ゼバス「それはそれは、何と大冒険でしょう! おめでとう、アンナ。そして、ありがとう、皆さん……!」

アイシャ「それと、これがファウスト卿から預かった草稿の本です」

 アイシャは、先ほどファウストから手渡された古い本を、ゼバスに差し出した。

ゼバス「ほう、これが伝説の未完成完結編ですか! 要は、これを完結に導くべしというわけですね。もうあまり時間はありませんが、即興で考えてみましょう」

 本を受け取って、ゼバスは創意を掻き立てられたように深く頷いた。

 霧の立ちこめる森の彼方が微かに白くかすみはじめ、夜明けの近づいたことを知らせる。

ゼバス「さて、出番はいよいよ今日の夜、最後の演目です。皆さんお疲れでしょう、昼頃までしばしご休息を……」

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