増田朋美

草間メイ子は、ある田舎町で女学校に通っている14歳の少女だった。毎日学校に行って、読み書きそろばんなどを習ってくるが、最近はそれがつまらなくて仕方なくなっていた。お母さんは、この新しい時代になって、武家も農民も関係なく勉強ができるようになった、素晴らしいじゃないかというけれど、なぜかメイ子にはそれが面白くなくて、何となく勉強をやらされているような気がしてならないのだった。別に学校に問題があるわけじゃない。先生だって、とてもやさしいし、わかりやすく授業をしてくれるんだけど、なぜか面白くない。学校生活は、充実している。他の子に勉強を教える事だってできる。グラウンドで、思いっきりからだも動かせる。裁縫も料理も習って、誰かに食べさせてやったり、なにかを作ってやることだってできるようになった。でも、それは嬉しい事ではなかった。理由はただ一つ。学校で習ったことを、誰にも見せる機会がないからだ。

だって、勉強のことを話せる友達もいない。農村からやってきた同級生は、周りの人に、文字を教えるとか、計算を教えるとか、学校に行って得をすることもあるらしいが、メイ子の周りは商売人ばかりで、読み書きそろばんは、大体できる人が多いからだ。それに、親も、家族もみんな学問のことを知っているから、わかり切ったことを話し合っても仕方ないと、学校であったことを話しても、無視されてしまうのだ。そうなると、農村からの同級生がうらやましいが、都会に住んでいるあたしには、そういうことは、無理だなという事である。

世のなかは新しい時代になったとか言って、選挙制度ができたり、新聞がわが家にも配られるようになったりして、明らかに、昔のころとは違ってきているな、なんてよくお母さんが言っていた。昔を知っているお母さんに、声を大にして言いたい。そんな変なものが蔓延っていない、昔の時代に生きていたほうが、あたしはよっぽど楽になれるんじゃないかしら。メイ子はそんなことを思っていた。

その日、メイ子は、学校からの帰りだった。今日も、あることなすことをやらされて、おもしろくないと思いながらとぼとぼと帰る。他の子たちは、良かった、これでまた教えてやれることが増えたと言っているが、メイ子の住んでいる区域では、みんな当たり前のように知っていることばかりなのだ。

何だか自分の暗い心の様子を、象徴するかのようにお寺の鐘が鳴った。ゴーン、ゴーン、と。

「おい!何をしているんだよ!こんなところで!」

不意に前方から、変なおじさんの声が聞こえてきた。

「ああああ、すみません。僕たち、道に迷ってしまったようで、バラ公園の中を歩いていたら、いつの間にかこんなところにきちゃったんだよ!」

誰がそんなことを言っているのだろうと、メイ子は好奇心からその声のする方に行ってみた。何だか面白そう。言葉がまず違う。下町に住んでいるおじさんたちが、使うような言葉なのだが、それにしては内容が違っている。

「だけどねエ。歩けないといったって、道路のど真ん中に居るのはおかしいんじゃないの?」

ははあ、魚屋の押尾さんだな。この町で、一番肝が据わっているといわれる魚屋のおじさんである。

「すみません。とりあえず、僕たち、帰るところがないので、ちょっと泊めてもらえる所を探せないでしょうかな。」

「ああ、旅館ならすぐ近くにあるよ。ただ、アンタさんは入れても、隣の銘仙のやつは入らせてもらえないだろうな。そんな汚らしい着物着て、この町を歩かれちゃたまらない。」

銘仙って、最近はやりだした着物の事か。確か、秩父の山岳地帯に住んでいた人が、着ていたものだっけな。そういえば学校でも流行っているからと言って、銘仙の着物を着てはいけないとお触れが出ているにも関わらず、みんな、こぞって銘仙の着物を来て来校し、先生に叱られていたんだっけね。

メイ子自身は銘仙の着物を持っていないが、着てみたいと思ったことはあった。あの、ほかの着物にはない、派手な原色と、柄配置のかわいらしい感じが、若い女子にはたまらない、好奇心というかそういう気持ちを引き出させるのである。でも、大人の人たちにとっては、汚らしいとかけばけばしいとか、そういう評価しかつかないらしい。最近は女性ばかりか男性も、銘仙の着物を着用する人が増えたが、そういう人たちを、大人は白い目でにらみつけるばかりなのだ。

「ほらあ、さっさとここから出て行ってくれよ。そんな汚らしい着物着ている奴に、ここに入ってこられちゃたまんないんだよ。うちは、魚屋だから、魚を腐らせちゃ困るなあ。」

押尾さん、何ていう酷い事言うんだろう。メイ子は、魚屋さんの方へ歩いてみた。

「バカ!こんなところに座っちゃダメ。」

そこには、車いすの男性がいた。隣に、紺色の十文字の銘仙の着物を着た男性が、道路にそのまま座り込んでいた。その人は、偶然後ろを振り向いた。その顔を見て、メイ子は思わず、

「お、お兄ちゃん!」

と口にしてしまった。

「お兄ちゃんって、メイ子ちゃん。あれほど優秀だった夏樹ちゃんが、銘仙の着物なんて着るわけないでしょうが。」

押尾さんは、右手に、塩の入った一升ますを持っている。

「そうだったわね。でも本当にお兄ちゃんそっくり、、、。」

「メイ子ちゃん、アンタぼけちまったんじゃないか?こんな銘仙の着物なんか着てるような人と、あれだけ優秀だった夏樹ちゃんと一緒にしたら、夏樹ちゃんがかわいそうだよ。ほら、さっさと帰ってくれないかな!そこどいてくれないと、塩巻くよ!」

押尾さんはイライラしてそういうことを言っている。そうこうしているうちに、杉ちゃんの隣にいた、咳き込んでいる水穂さんの口元から、ぼたぼた血が流れてきて、メイ子は、本当に、お兄ちゃんが再度戻ってきたような気がしてしまった。

「おい、こんなところで道路をよごされても困るんだけどなあ。後でちゃんと水まきでもして、掃除でもしてくれよ。」

押尾さんはそんなことをいっていいながら、半ばあきれた感じで、店に戻っていってしまった。

「あの。」

メイ子は、杉三に声をかけた。

「よかったら、うちに来てくれませんか。水まきは、あたしがしておきますから。」

「本当か!其れなら、頼む、どっか泊まれるところと、布団を敷いて寝られるところを教えてくれよ。あと、できればご飯を食べさせて貰えるところがあるといいなあ。」

と、杉三が、にこやかにそう答えるのである。隣で座り込んでいる人物は、やっぱりお兄ちゃんそっくりだ。銘仙の着物でなかったら、本当にお兄ちゃんその人だと勘違いしたかもしれない。

「じゃあ、あたしにつかまってください。ここから、すぐ近くです。すぐに行きましょう。」

メイ子は水穂さんに肩を貸してやって、無理やり立たせ、よいしょと、歩き出した。この人が、信じられないほど軽いのが、びっくりすることであった。兄はここまで軽いことはなかったはずだ。

「もうちょっとですから、頑張ってください。」

メイ子は、水穂さんに声をかけながら歩いた。杉三は黙ってそのあとについていった。

「ここです。この蕎麦屋が私の母の店です。」

蕎麦たぬきというのれんが降りている小さな店が、メイ子とお母さんの家であった。去年の春まで、お兄ちゃんが一緒に住んでいた。

「さ、遠慮なく中に入ってください。布団なら、あたしが敷きますから。」

メイ子はそういって、蕎麦屋の引き戸を開けて、その中に入った。

「お母さん、お客さん。奥の座敷に泊めてあげて。」

メイ子がそういうと、中年の女性が出てきた。ちょっとメイ子とよく似た面持ちがあった。この人は間違いなく、メイ子のお母さんである。お母さんは、思わず彼を見て、

「夏樹!」

と口にしてしまったほどであった。でも、銘仙の着物を着ているのを見て、

「ああ、人違いでした。ごめんなさい。去年の春に亡くしました息子が、そっくりだったものでしたから、思わず名前を言ってしまいました。すみません。」

と、水穂さんに頭を下げる。

「とにかくな、一寸、寝かせてやってくれないか。少し眠ればらくになれるんじゃないかと思うんだ。」

杉三が言うと、お母さんは、

「はいはい、ちょっと待ってください。直ぐに布団を敷いて差し上げますからね。」

と、言って、奥の間に入っていった。その間に、メイ子は、二人にほうじ茶を出して、飲ませてやった。

「一体、お二人は、どうしてここへ。」

「そんなことは知らないさ。ただバラ公園散歩していたら、ここに来ちゃったの。本当にそれだけだったんだよ。」

と杉三はホイホイと答えた。

「僕の名は影山杉三だ。こっちは、親友の磯野水穂さん。」

そうか、やっぱり、草間夏樹と言う名前ではなかった。メイ子たちもすぐに、自分の名前を言って、自己紹介を返した。

「布団が敷けましたよ。お客さん。すぐに眠って頂戴。」

お母さんが、もどってきた。メイ子は、水穂さんを背負ってやる。兄と確かに顔つきはよく似ているのだが、兄はここまでげっそりとやせていなかったし、もう少し、身長があったはずであるから、やっぱり違うなあと思う。奥の座敷に連れていき、布団で寝かせてやった。そういえば、お兄ちゃんも、こういう風に寝かせてやったっけな。メイ子はありありと思い出す。

「さ、横になってください。暫く眠れば、落ち着いてくると思います。」

お母さんは、しずかにかけ布団をかけてやった。

「後で、おそばを作っておきますから、たくさん食べてくださいね。」

「お蕎麦か、ありがとう。それなら、肉魚一切抜きで、具材は山菜だけにしてやってくれ。違反すると大変だからよ。それじゃあ、頼むね。」

お母さんの言葉に、入り口のほうから、杉三という人が揚げ足を取る。杉三さんって、意外に耳がいいのね、とメイ子は笑ってしまったのである。その間にも、水穂さんは静かに眠り続けるのだった。

「おい、蕎麦だぞ。ほら、起きろ。」

杉三は、水穂さんの肩を軽くたたいて起こした。水穂さんは少しして目を覚ました。そして、よいしょと布団の上に座った。枕元には、蕎麦と山菜が大量に入ったどんぶりが置かれている。にくも魚も一切入っていなかった。

「ほら、食べろ。早く食べないと、せっかくのそばがまずくなる。」

杉三に言われて、水穂は箸を取り、そばを口にした。ちょうどいいかたさの、おいしい蕎麦だった。具材となっていた山菜も、歯ごたえがあっておいしいものであった。

「どうだ、うまいだろ?」

「ええ。」

杉三に言われて、水穂は、にこやかに笑った。

「でも、そんなに、水穂さんそっくりだったんですか。その夏樹さんという人は。」

「ええ、よく、異人さんみたいだってからかわれていましたから。」

と、お母さんは、懐かしい顔をしていった。

「へーえ。やっぱりいるもんだなあ、似たような人が。良かったな、お前さんも。世界に三人は似ている奴がいるというが、本当なんだねエ。」

「さあ、食べ終わったら、着替えてください。そんな着物で外へ出たら、間違いなく笑われるでしょうから。ここではまだ、銘仙の着物に偏見が強いんです。」

お母さんは、もしお兄ちゃんが生きていたら、お兄ちゃんに着せるはずだった男物の着物を、水穂さんに渡した。

「でも、これ。」

「大丈夫です。ただの紬ですから。大したものじゃありません。銘仙の着物で外になんか出たら、バカにしてくださいとでも言っているようなものですよ。」

お母さんの態度は優しかった。決して咎めるような言い方はしない。杉三の後押しもあり、わかりましたと言って、水穂さんは、そばを食べ終わったあと、着物を着換えた。でも、少しサイズが大きすぎて、ぶかぶかだった。

「其れなら僕が寸法変え直してやろうか?ちょっと身幅が大きすぎるよな。」

と杉三が言うと、

「いいえ、私にやらせてください。」

と、なぜかメイ子は口にしてしまった。

「大丈夫、着物を直すのは、学校でもしっかり習ってきたし。」

確かに、学校で習ってきたことをすぐに実践できるとは嬉しい限りだ。

「でも、いいんですか?」

水穂さんは再度渋るが、メイ子はぜひやらせてくれと言い張った。お母さんもメイ子を信頼しているのか、それとも蕎麦屋の仕事が忙しいからか、理由は分からないけれど、じゃあ、やってみてくれといった。

「わかりました。私、すぐやります。大丈夫、学校で習ってきたんだから、すぐできると思います。」

メイ子は、すぐに着物を脱がせ、代わりに寝間着を水穂さんに着せてやった。もう夜になっていたが、そんなこと関係なく、徹夜で着物の寸法直しをした。確かに寸法直しのやり方自体はさほど難しくないのだが、しかし、紬という布が固く、鍼がなかなか通らない。何回も鍼を変えて、やっと縫い終わったころには、もう朝になっていた。

「水穂さん、寸法直しができました。どうぞ着てみてください。」

メイ子は、すぐに、奥の間に行って、水穂さんに着物を見せてやる。水穂さんもすぐに目を覚まし、あ、有難うございますと言いながら、すぐに着てみてくれた。今度は、身丈も切ってしまってあるし、身幅もちょうどよかった。

「良かった。これではちょうどいいわ。」

メイ子は、にこやかに笑ったが、水穂さんは、メイ子の包帯だらけの手をじっと眺めていた。

「ああ、ああ、ごめんなさい。あたし、紬を縫ったのは初めてで。」

「いえ、僕も紬を生まれて初めて着用しましたから、似たような気持ちです。」

ここで銘仙よりも着やすいだろうと、いう事はやめておく。それを言ってしまったら、すでに甲乙つけていることになるからだ。

「其れより、御宅には、西洋的なものがいろいろあるんですね。ドライフラワーも飾ってあったり、モネの絵が飾ってあったり、、、。」

不意に水穂さんがそういうことを言った。確かに壁にはモネのスイレンの絵が、額縁に入れられて飾ってある。その額縁は、ドライフラワーで飾られていた。

「ああ、あの、兄が、そういうものが好きだったんです。」

メイ子は悪びれずに答えた。

「よく、そういうモノの展示会などがありますとね、時折見に行っては、安いものがあると買ってきちゃうんですよ。よく行っていました。そして、それを真似して絵を描いては、コンクールに応募するようなこともしていました。」

「なるほど。言ってみれば、西洋かぶれだったわけですか。」

「ええ、そばを作るのも真剣にやっていましたけど、それ以上に、西洋の事をもっと勉強したいんだって、暇さえあればひっきりなしに西洋関係の本を読んだりしてましたよ。それに、近くの公会堂にピアノがあって、それを弾いたりもしてたんです。さほどうまくはありませんでしたけど。」

「ピアノですか。僕もピアノ弾いてましたよ。」

「そうですか、、、。」

それではあまりにも、お兄ちゃんにそっくりではないか!其れでは、この出会い、もしかしてなにか重大な意味を秘めているのではないか、と、メイ子は思った。若しかしたら、誰かが自分に変われと、伝えているのかもしれない。

實を言うと、メイ子が学校で楽しくない理由はもう一つあった。

其れは、上級学校に進もうか、それとも働くのか、決まっていないという事だった。もう、あと一年で卒業なんだから、どっちにするか決めなければならない。大体の人は、興味のある仕事とか見つけて、働きに行くか、もっと専門的に勉強をしたくて上級学校に行くか、のいずれかだ。でも、メイ子にできるのは、先ほども言ったように、裁縫くらいなものだった。勉強の成績もとりたててよいわけではないから、師範学校とか、高等女学校に進むのはちょっと自信がなかったし、かといって、自分にこなせそうな仕事もあるわけではない。そういう訳で、メイ子は、いつまでも自分の進路が決定できずに、悩んでいたところだったのである。

「ピアノって、どんな曲を弾いていたんですか?お兄ちゃんはよく、べートーベンのソナタとか私に弾いて聞かせてくれました。あ、そうそう。私が、お兄ちゃんの形見として取っておいてある楽譜があるんです。ちょっと見ていただけないかしら?」

メイ子は突然こんなことをひらめいて、すぐに自室から、自分の「宝物」を持ってきた。お兄ちゃんが、生前、一度弾いてみたいけど、こんな難しいの出来ないよなと憧れを持っていた曲である。お兄ちゃんは、結局この曲にトライすることはできなかったが、メイ子はそれをお兄ちゃんだと思って、保管しているようにしている。

「之なんです。何でも、ロシア帝国の作曲家が、鐘をきいて思いついたそうですが、私にはどんな鐘なのか、見当もつきません。」

そういってメイ子が見せたのは、ラフマニノフの「鐘」という曲であった。正式名称は、前奏曲なのだが、日本ではこの鐘という愛称で親しまれている曲である。

「ああ、これですか。大体知っていますよ。僕も昔弾いたことがありましたから。」

楽譜を見ると、水穂さんはそういった。そんな!お兄ちゃんがあこがれていた曲を、そんな風に弾いたことがあるというなんて!やっぱりこれは、何か運命のようなものを感じてしまう、メイ子である。

「じゃあ、一度聞かせてくれませんか。お兄ちゃんが生前練習していた、公会堂で。」

メイ子は、水穂さんを連れて、公会堂に行ってしまうことにした。お母さんも、もう店に出ている時刻だったし、杉ちゃんという人は、店を手伝うんだと言って大張り切りでいたから、ばれる心配はない。メイ子は、水穂さんを支えてやりながら立たせると、裏の勝手口から、楽譜を以て出てしまった。水穂さんの手を引っ張って、近所にある公会堂へ連れて行く。

公会堂は、誰かが借りているわけでも無いので、すぐに入ることができた。二人は公会堂の練習室に入った。メイ子は、練習室に置かれていた、グランドピアノの譜面台にお兄ちゃんの宝物を置いて、弾いてみてとお願いする。

「あ、はい。わかりました。」

水穂さんは、ピアノの椅子に座って、その曲を弾き始める。メイ子が予想していたのとは信じられないほど重い曲で、暗く重々しい曲であった。それが、途中から、三連府を駆使した激しい描写に変わっていき、まるで雷が落ちたような、和音の連打で頂点を向かえるのであった。雷が落ちた後、その後の争乱でも表しているのだろうか。先ほどの主題を使った、重々しい鐘が鳴り響くのであった。メイ子が知っているお寺の鐘ではなく、まるで大火事でもあった時に、火消さんが、ガンガンガンガンとたたきまくる鐘を表現しているようだ。最後に、曲は静かな部分がもう一度戻ってきて、静かに終わるのであるが、それはまるで火事の跡に残された、焼け野原を描写しているようである。

「何だか、雷が落ちた後の火事を、表現しているような音楽ね。単なるお寺の鐘ではなくて、火事とか、洪水が発生した時の鐘という感じの曲。」

「ああ、いわゆる擦半鐘のことですか。」

弾き終わった水穂は、息を切らしながら言った。

「しかし、どうして、お兄ちゃんが、そんな曲持ってたのかしらね、私の前で弾いていた曲は、モーツアルトとか、ベートーベンのソナタとか、そういうモノだったのよ。こんな重い曲をどうして持っていたんだろう。」

メイ子は、そこが不思議だった。メイ子が知っているお兄ちゃんが弾いていた曲は、皆穏やかで優しいものだった。確かに、理解のない人からは、また西洋の音楽なんか弾いて!なんて、苦情が出されたこともあるけれど、そんなこと気にしないで弾いていた、というか弾いているとメイ子は思っていた。

「不安だったのではないですか。」

不意に水穂さんがそういった。確かにそうだったかもしれない。明治と大正という新しい時代になって、なんだか、新しいものが次々と出てきているが、それを使いこなすのは、何だろうという気持ちにもなったことはいっぱいある。其れだけではなく、今まで役に立っていたものや、良かったと思われていたものが、急にいけないとされたりして、メイ子でさえも戸惑った事は一度や二度あった。少なくとも、メイ子以上に繊細であったお兄ちゃんだから、そういう事はきっと感じていたのではないだろうか。

メイ子も知らなかったお兄ちゃんの一面だった。

そういうところを含めてメイ子は、もう一回鐘を鳴らしてもらいたかったが、水穂さんはもう疲れ切っているらしく、ピアノの蓋に顔をつけて、肩で大きく息をしていた。そう言えば、お兄ちゃんもなくなる直前はそうだった気がする。

「帰ろうか。」

メイ子は、水穂さんにそう声をかけた。水穂さんは反応しなかった。代わりにせき込んで返答をした。

こうなったら大変だ。お兄ちゃんみたいなやり方はしてもらいたくないもの。よし、鐘を鳴らすのはもういいから、うちへ帰ろう。ピアノの蓋を閉じ、水穂さんを背中に背負って、メイ子は急いで自宅に向かって走る。このときは人に笑われようが何だろうが、そんなこと関係なく、公会堂から家までの道を走りに走って、やっとたどり着いた。

家に帰ると、お母さんにはすごく叱られた。もう、何をやっているの!こんな病気の人を勝手に動かしちゃだめじゃないの!と、こっぴどく叱られてしまった。そのままお母さんは、水穂さんにごめんなさいと言って、自分が、水穂を背負い、布団に寝かしつけてしまったようだ。メイ子はその現場は見ていない。こんな悪い子は、裏の蔵にでも入ってなさい!と、お母さんに言われてしまって、その通りにしたからである。

蔵の中でメイ子は、自分がしたことについて考えてみる。確かに、したことは確かに悪いかもしれないが、お兄ちゃんが内緒にしていた一面を又知ることができた。単に優しいというだけではなく、これからの時代どう生きていくか不安というものもあったのだろう。お兄ちゃんは、自分の事は一切私には言わなかったから。其れは私への考慮なのか、それともあえていう事をしなかったのか、どちらなのかは分からないけど、お兄ちゃんは、自分の事について悩んでいたのだ。

いま、私も同じことを悩んでいる。

学校では、平凡な成績でしかないし、進学するか就職するかも決まっていない。でも、それを悩んでいるのは、私だけだと、誰にも相談しなかった。お兄ちゃんは、生前、そういうことを一切口にしなかったから、ただ、ピアニストになりたくて、一心不乱に生きていると思っていた。でも、ああいう重たい曲を持っていたんだから、少なからず不安があったのだろう。自分がどうい生きていくか、どう生きたいかとか、そういう事を、自分なりに考えていて、それをあの曲に表していたのだ。

「あたし、やっぱりしっかり生きていなかったかな。」

メイ子は、そう考える。

「もっとやっていくことをしっかりやっていけば、もう少し生きられるかな。」

真っ暗な蔵の中で、そういう事を考えていると、なぜか先が明かるいかなあと考えることができたのであった。










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増田朋美 @masubuchi4996

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