ふたりの距離

月波結

◇◇◇

 街を通り過ぎる車のヘッドライトを見ていた。家路を急ぐ人々は、まるで魚の群れのように目を光らせながら大通りをすーっと過ぎていく。


 わたしは彼を待っていた。約束の時間まで、まだ10分はある。さきに頼んだドリンクバーのアイスティーに口をつける。


 最近のファミレスにはストローがない。マイクロなんたらのせいで、ストローの置かれたファミレスは次々、減少した。環境問題にはあまり興味はないけれど、これからも地球に住めないのは困る。


 だからストローなしでプラスチックのグラスに口をつける。そうなんだ、こんな夜に一人でドリンクバーのアイスティーを飲むにはストローが無いと格好がつかないだけなんだ。





『行ってきたよ』


と彼は言った。そう、とあまり興味がなさそうにわたしは答えた。正直に言えばどんな反応をすれば妥当なのかがわからなかった。


 彼は週末、断りきれなかった「婚活パーティー」に参加した。わたしはまだ未経験なので、回転寿司のように男女がスピーディーかつ効率的に知り合うんだろうと思っていた。


「かわいい人、いた?」


と聞くと、


「ううん、キレイな人がいた」


と答えた。ふぅん、と相槌を打った。


 彼はキレイめの女性が好きだった。きっと、清楚で凛とした立ち姿の人だったんだろうなと想像する。


「断れなくて行ったけど、そろそろいい歳になったかなって思ってたんだ。結婚して、家庭を持って、子供を育てて、ね。ちょっと真剣に考えようと思ってる」


 彼の目は真剣で、わたしと彼の間にはプラスチックのように固い空気が横たわっていた。



 20代はまだ夢を見ていた。いつかプロポーズされる日がわたしにも来て、オートマティックに花嫁になる。そんな日は来なかった。


 30近くなると焦り始めた。周りもバタバタ結婚していくし、子供まで産んで、その子も会う度に大きくなる。自分が何かの線路から外れていく気がした。


 30代になる頃には根本的に考え方が変わった。男はいればよくて、結婚していなくても人生は楽しめる。毎日の生活をこなして、週末は彼と過ごせばいいじゃない、と割り切れるようになった。「いい歳だろう」と肩を叩かれればセクハラだ。やりたいように人生を楽しもうと思った。


 ちょっとステキなレストランでお見合いの話をして、わたしも新調したばかりの服で彼に会いに来ていた。彼は美味しかったね、と言った。



「キレイな人が」


と言ったのと同じ唇がわたしの唇を塞ぐ。長くしている髪を、首筋から耳の上までかきあげられる。そうして彼の吐息が耳にかかって、「ざらり」と音がする。


 飛び上がりそうな、全身の毛が立ち上がりそうな不思議な感覚がわたしを襲う。何度同じことをされても感じることは同じだ。彼は、彼が好きなわたしの耳を丁寧に、堪能する。


「どうした?」


「ううん、別に。続けて」


 愛撫は続いて、頭の中におかしな異物があって気持ちが逸れていく。集中できない。どうしても知らない女の人の長い髪が目の前にチラつく。


 揺れる度に、心も揺さぶられる。ブレンダーでかき混ぜられた気持ちは、とても美味しいスムージーにはなりそうにない。


 何も感じない。早く終わって。早く終わって。惨めな気持ちにならないうちに、早く。



 わたしたちの非生産的運動は、終わった。ひょっとして最後かもしれなかった。



「感じなかった?」


「そんなことないよ、ちょっと仕事で疲れてたかもしれないけど」


 そっか、と彼は言った。


 彼の太くて長い指が、わたしの髪を撫でる。髪を撫でられたくて、サロンで追加料金のトリートメントは欠かしたとこがないし、ホームケアもばっちりしている。彼が指を通した時に、ざらっとひっかかる髪なら残念だ。指通り良く、何度も撫でてほしい。


 不意に彼は長い腕を伸ばして、自分のジャケットを引き寄せた。ポケットに手をやると――ああ、そういうことがあるかもしれないとは思っていたけれど。


「結婚しよう」


「わたし、気持ちの準備がまだ」


「どんどん歳をとるばかりだよ。俺は子供も欲しいし、そろそろだと思うんだ」


 待ってほしい。


 昨日まで結婚は南極くらい遠いところにいたのに、突然そこには行けない。


「ダメな理由があるの?」


「だって……わたし、家庭を作ったり、家事をしたり、子育てをできる人間だと思ってない。結婚なんて無理だよ」


 彼はリボンを解いた小箱を開けて、煌めくリングを手に取った。


「結婚したいんだ 」


 それからはかつて無かった早さで服を身につけた。ただ、指が震えてブラのホックが上手くハマらなかったり。ストッキングにいたっては指輪が引っかかって大きく伝線した。


指輪は丁重に、お返しした。


「じゃあね」


と言った。「さよなら」でも「またね」でもなく。





 あと少しで10分、約束の時間になる。先に来ていないことがまず珍しかった。わたしのことはもう見切りがついたのかも、と思ってスマホの着信を確かめる。会ってももう、仕方ないもの。


「ごめん、仕事で」


 ああそう、と答えた。とりあえず何か飲むことを進める。走ってきたらしく、汗をかいていた。


「お見合い、進んだ?」


「うん、二人きりで会ったよ」


「そう、どんな人?」


「礼儀正しくて大人しいけど、芯のしっかりした人って感じ」


 ふぅん、と相槌を打つ。今さら聞いてもどうしようもない。車の車列が真っ白いライトを点けて走り去る。


「みちる?」


 彼の、キレイにたたまれたハンカチがポケットから出てくる。ハンカチの出番がわからない。わたしの頬をハンカチがなぞる。


「結婚しよう?」


「ずっと考えてみたけど自信ないの。家庭を作って、家事をして、子育てをするなんて」


「……結婚は一人ですることじゃないよ。俺だってこの前のパーティーに行くまでは、結婚なんて形式だって気持ちが大きかったんだけど、違うよ。結婚生活は二人で協力して作っていくものだよ」


 彼の、やわらかい笑顔を見るのは久しぶりな気がした。少し黙って、瞳に焼き付ける。


「キレイな人は?」


「ああ、一応、二人で会っておかないと先方だって格好つかないだろう?」


 なんだ、そうなんだ、そういうものなんだ。


「でもわたし……」


 彼はポケットをまたごそごそ探って、この前の小箱を出した。


「今度は自分で開けて、自分の目で見て」


 煌めきをたたえたプラチナの指輪には、その内側にわたしたちのイニシャルが掘られていた。


「これ、使い回せないじゃない」


「だから断らないでくれ」


 いいよ、と言ったのか、わかったよ、と言ったのか定かではない。


 でもただひとつ確かなのは、こんな風に大なり小なり困難なことが起きた時には、二人で協力して解決していけばいいってことだ。


 道を誤らなくてよかった。


 こんな歳でも臆病になる時があるようだ。


 これからもわたしの髪はさらさらとしなやかさを失わないだろう。彼に愛されるために。

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ふたりの距離 月波結 @musubi-me

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