眠れぬ夜の物語

上松 煌(うえまつ あきら)

眠れぬ夜の物語



 幾夜も、幾夜も幾夜も、薄明に目覚めてしまうことがある。

かきむしられる胸の愁訴と確実に迫る呼吸不全が、明白な現実に引き戻すのだ。

これは一生回復しない症状だ。

眠りを求める、半ば混濁した意識のままに酸塩錠をひとつぶ口に含む。

忘れかけた夢の名残のように、いっとき脳に消されたはずの記憶がよみがえる。


 あれは意外にユーモラスな会話から始まった。


 暗い受け付けから診察室。

小さなスポットライトだけの闇の中で、看護士と対峙する。

「脈はかりますね~」

「はい」

「ん~、あらら、脈触れませんね。…ダメですね」

「えっ?そんなことあるんですか?」

ゾンビではあるまいし、少し笑える。

「それがあるんですよぉ。ちょっと待ってて下さいね~」

バタバタと走り去る足音が消えると、暗い中にポツン。


 すべての診療が終わった時間の、大病院の実態がこれ。

灯りは極限に落とされ、暖房も切られた空虚で寒々しい空間。

その茫漠とした闇の廊下を、キュラキュラと近づいてくるストレッチャの音。

病院の怪談が忽然とよみがえる。

複数の見えない足音。


 小康状態にあった身体に、再び怒涛の苦悶が来ていた。

メリメリと音を立てて裂ける生身の血管に、酸素不足になった肺が空気を渇仰する。

「乗ってください。緊急手術します」

「服は切っちゃいますから。処分していいですね」

「今、手術室に向かってます」

失神を避けるためか、つぎつぎに投げかけられる言葉。

視力が弱まり、その顔すら認識できない地獄の中で、歯を食いしばっての律義な返事。

時間が引き延ばされ、地球を周遊するほどの長い廊下。


 「麻酔入れます。はい、数えて。1,2,3,4…」

「14…15…16………」

やっと眠りが訪れる。


 寝ざめの認識は爆発的な怒りだった。

チューブに繋がれた身体を引き起こし、そばにいた医者と看護士に殴りかかる。

マレに起こるバッド・トリップの体現。

「あっぶねぇ~」

「痛えなぁ。縛っちゃいましょう。ヒモ持ってきて」

「え?やめろ。大人しくするから」

意思に反して、伝わらない言葉。

やっと生還した病人を平気でベッドにくくりつける医療従事者たち。


 冠疾患集中治療室での、発熱と胸部苦悶の日々。

次々と入室し、空しく運び出される同病者の気配。

自分だけが生き延びる不思議な違和感に、忘れていた事実が戻って来る。


 手術室の影のない天井に、警備会社のCMそのままに張り付いていた自分。

真下に見える色のない身体は哀しげに弱く儚かった。

人工心肺の規則的な拍動には、冷え切った血液が巡るだけだ。


 個室に移された孤独な夜。

見舞いの肉親や友が帰ったシンと鎮まった時間に、痛切に感じる血と薬の臭いに満ちた息。

襟から覗ける、みぞおちまでを縦断する生々しい傷跡。

刻み込まれて一生消えぬ胸をいとおしく抱く腕。

5年生存率・10年生存率の無機的な壁が、病院で新年を迎える自分にのしかかる。

窓から見える深夜の街は灰色に沈んで、タクシーが時折、整備された道路を走り抜けて行く。

厳冬の寒さが動悸息切れを増幅する。

駅のあたりだろうか、茜色の明かりの反射に過ぎ去った夏の黄昏を見出すのは。

人はだれも一寸先は真の闇なのだ。


 毎日々、巡回の主治医にせびる退院許可。

「ダメだね。早すぎる」

趣味の乗馬もダメ。

だれもが普通にできるジョギングもダメ。

老いた人のように許されたのは、無理のない程度のウォーキング。

これは弁膜症が後遺症として残されたからで、10年のゆるいスパンで徐々に進行するだろう。


 一計を案じてわざわざ廊下で吹く口笛。

大名行列をやっている心臓外科医どもの前を走り抜ける。

あとで呼吸困難でベッドにぶっ倒れていようと、主治医はそれには気付かない。

「走れるんだぁ。う~ん、どうしよ。まだ、ムリだと思うんだけどね。病室も混んで来たし…ま、いっか」

ミッション達成だ。


 1ヵ月ぶりの我が家と自分の部屋。

愛しい愛しい家内と愛すべき猫様。

心やさしい義父のまなざし。


 自由のない時間・行動、夜中も監視の檻から娑婆に出た喜び。

まるで全快したような錯覚に、一時的に超元気になる自分。

極上の吟醸酒が舌を寿ぐ。


 やがて病後の現実が徐々に骨身にしみてくる。

気圧の谷や低気圧の通過のたびに、いやまして痛む胸と息切れ。

仰向けになると始まる呼吸困難。

伸縮に乏しい人工血管にぶち当たる血流に、常に意識する鼓動。

喉を突きあげる期外収縮に咳き込む。

胸の深いところをだれかが、今日もかきむしる。


もう、昔の自分じゃないと悟る脱力感と寂しさ。

想いは一片の淡雲を空に放つに似て空しい。


 幾夜も、幾夜も幾夜も、薄明に目覚める毎日に慣れることはないけれど、それでも生きてある喜び。

家内に触れ、猫様を抱く温もりと安堵感。

義父に向ける無垢な笑顔。

友の電話に心から応える想い。

三十路のところで切断され、かろうじてつながる手相に半信半疑で感謝する。

過ぎ行く季節は常に新しく。

昼の営みは安らぎに満ちるのだ。


 夕暮れの雲に入る光に、今宵も近づく夜の帳。

真実の想いが魔の跳梁のように立ち上がる。

心の病理に深く抱く、刃に似た闇。


なぜ助かったのか?

いつまで生きるのか?

古い呪いのように自問自答するゆがんだ言の葉。


 ひび割れた鏡に映す幾多の断片に似て、心は千々に、失われた日々を突きつける。

不意に取り囲む愛馬の臭い。

屈託なくボールを追う草いきれ。

無心にこぐチャリの車音。

薪を割るヨキの手ごたえ。

世界は喜びに満ちていた。


 今、振り返ると、もうなにもない。


 心に胎動する破滅の願いをだれが理解するだろう?

このまま細く長く老いさらばえて…?

いや、まだ腹は割れ胸板も厚く、腱は強靭にこの身を支えるのだ。

いっそのこと…。

今のうちに…。

美しいうちに…?


 そそのかす心を今夜も邪鬼の如く踏みしだいて、白々と明ける朝を迎える。

「お早う。どう?調子は」

心地よい家内の声に本心からの微笑で返す。

「最高だよ」

朝の清浄な光が図らずも正気に戻すのだ。

眠れぬ夜を重ねる日々はたぶん、多くの人々が経験する。

だれもがそれぞれの立場で、個々の来し方で、様々な人生に於いてをだ。


 褶曲する心に冷徹な刃を隠し持つ自我は、今はじめて自己を振りかえる気がする。

自分は弱いのでは、卑怯なのでは、臆病なのでは、運の良さや過去に甘えているのでは?

自身に問うゆえに答えのない自問自答。


 いらだちに波立つ想いは煮沸するごとすべての者に問う。

おれはいつまで生きるのだろう?



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