僕の憂鬱

透明人間

第1話

 他人の笑い声。後ろから迫ってくるヒールの足音。道を誘導してくれる工事中の作業員。横断歩道の数メートル手前を歩く僕に気づいて止まってくれる車。

 日常を過ごしているだけで数多のストレスが僕を追い詰める。全ては今日という名の歯車がガタガタと音をたてて回転しているにすぎないのだが、それらは常に僕の心に刃を向けている。僕はそれらから怯えるようにして歩みを進めている。人間としてこの世に生まれ落ちたのに、同じ人間にストレスを感じることになるとは思ってもいなかった。子供の頃は好きな事をして好きなだけ遊んで、腹が空けば腹いっぱい飯を食って、眠気が襲ってくれば朝までその日の疲れと共に眠りに落ちていれば、それだけで時間は経過していったのに。幼少期のストレスなんていうものは、強いて言えば、おばけと母親に強制させられる宿題くらいだろう。だが、今ではそうはいかなくなっている。特にこの感覚が強くなったのは大学に入学してからだった。

 

 僕は高校まではサッカーをしていたが、大学ではそれを辞めていた。恐らくはそのせいだろう。サッカーをしているとエネルギーのほとんどが脳みそではなく身体にもっていかれる。そのおかげで、今まではこのストレスをもろに受ける事なく、生活をすることができていた。だが、今となってはそのほぼ全てをこの小さな脳みそが負担している。恐ろしい。日常を生きているだけでこんなにもストレスに追い詰められていくことなど。怖くて死んでしまいたいくらいだ。しかし、僕にはそんな度胸も覚悟さえも備わってはいない。生きるしかないのだろうか。それはそうかもしれない。生きているのだから生きるしかない。仕方のないことだ。


 大学の講義が始まる。教室に向かわなければならない。すると、また、僕に数多のストレスが牙をむく。教室は4階だがエレベーターを使うなんてことはあり得ない。あの狭い密室で何人もの人間に囲まれようものなら、体中から汗が吹き出して止まることはない。階段を使おう。すれ違う人間とは極力距離をとり目を合わせない。前を歩いている人間にも気配を感じさせ振り向かせないよう、距離をとって下を向いて歩く。そして、やっと教室に着く。ここからもストレスのオンパレードだ。教室のドアに向かうまでの数メートルでさえ苦痛だ。それに耐えながら歩いてドアまで辿り着く。ドアに手を触れ、それをしっかりと掴む。そして、ドアノブの横の「引く」という文字を確認してからそっとドアを開ける。するとそこはすでに教室に入っていた人間達で溢れかえっていた。息が止まりそうになるのを堪えて、カードリーダーをスキャンする。出席確認だ。もちろんカードリーダーまでの数メートル、その間に財布を取り出し、その中から学生証を見つけ、手に持った状態で準備万端だ。もし、カードリーダーの前で財布を取り出すような行為をしていれば後ろから何人もの人間達の視線が突き刺さる。席につかねば。この講義は座席を指定されていない。出来るだけ後ろ方の席に向かう。席に向かうまで、席に着く瞬間、鞄から筆記用具を取り出す時、講義が始まるまでの数分、それからもずっと。僕は常にストレスの中にいる。それは僕にまとわりついて決して離れることはない。90分の講義中ずっとだ。やっとの思いで講義を終える。終えると言っても僕は席について教授のつまらない話を聞いていただけなのはご承知のとおりだ。何も90分フルで講義をすることもないだろう。疲れた。タバコを吸いに行こう。


 大学の喫煙所。この場所は講義と講義の間の10分間は大学の喫煙者どもでごった返す。屋外にある喫煙スペースには恐らく、100人以上の人間が密集している。スペースからは人が溢れ、至る所で人間がタバコを吸っており、地面はタバコの吸いがらだらけだ。それを休憩時間が終わった後に清掃係の人間がほうきで拾い集める。元々あった3つの喫煙所が1つになったこともその要因だろう。この大学の喫煙率は9割近い。にもかかわらず大学の方針という名の綺麗事のためにこの醜い光景を創り出した。僕はタバコを吸うが、この場所が嫌いだ。当たり前だが、こんな人口密度の場所でタバコなんて吸っていたら吐きそうになる。そう思って、僕はいつも少し離れたキャンパス横の誰も来ない裏道でタバコを吸っている。ここには、誰も来ない。灰皿はないが携帯灰皿を持っているので、特に不便ということもない。そして何と言っても居心地が良い。誰も来ないからなのだろうか。一人で大好きな音楽をイヤホンで聴きながら、気持ち良くタバコが吸っていた。するとそこへゴミ回収の車が止まった。車から男が降りてきて僕の背後にあるスペースに入っていった。そうか、ここは古紙回収の集積場だったのか。そんな事を考えていると僕の横で大きな音がした。驚いて横を見ると重ねて束ねられたダンボールの塊が1つ置かれていた。続けて2つ、3つと置かれていく。毎回毎回大きな音で。置かれていくとは言ったが具体的には上から乱雑に落とすような感じだ。僕はイヤホンで割と大きな音で音楽を聴いていたから、普通にしていればかなりの音で僕の鼓膜を痛めつけたことだろう。すると、4つ目の段ボールを持ってきた男が僕に声をかけてきた。「兄ちゃん。兄ちゃん!」振り向くと中年の男が僕を見て立っていた。イヤホンをとって彼を見やると「ちょっと、そこ避けてくれる?」と言われた。僕は無言でそこから少し離れた。最悪だ。僕の貴重な孤独という名の心地よさをこうも簡単に奪わないでほしい。ただでさえ日常のストレスにまとわりつかれている僕にとっては、この時間が奪われる事は文字通り死活問題だ。もちろん、そんな事は彼の知った事ではないだろう。男は段ボールの塊を一か所に集めると、その前に車を移動させ、段ボールを積んで行った。彼のルーティンなのだろうか。これが一番効率が良いのだろう。それにしても、あの言い草はないだろう。せめて、ごめんとかすみませんとかなんとか言えないのだろうか。僕は小心者であるくせにこういう所には細かく短気だ。だが、小心者であるから言い返すことなどはもってのほかである。そんな事を考えているうちに、もう次の講義が始まる時間になっていた。

また、あの時間に逆戻りだ。

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