つゆの追想 卒業と財布
本心を打ち明けてから、私は香川と呼ばれた男のピアノの先生をする事になった。
彼自身、以前はピアノコンクールに出ていただけあって、基本はできていた。
だけど、吹奏楽をやっていた期間はあまりピアノに触れていなかったらしく、手さばきやリズムの面での劣化が見て取れた。
私も最初はどちらかというと「なんでこんな事をしないといけないの」と思っていた面があった。だが、彼自身のピアノに向き合う姿勢や考え方に多少共感できる面があった。
それが共に過ごしていると段々と分かって来て、少しずつ会う時間が楽しいと思うようになって来た。
しかし、日々が過ぎていくのは早く、一刻、刻一刻と彼の卒業の時は迫って来た。
大学で会える時間が減ってくるとますます、その気持ちが強く惜しいものに感じてくる。
彼のいない時に他のサークルの人たちと話をする機会も増えて来たのだけど、やはり私に近い考えの持ち主は彼以上の人はいなかった。
そう思った時に私はある考えに至る。
……私はあの人のことが気になって来ている?
そう、あろうことか最悪な出会いをした人に恋心を抱くなんて思ってもいなかった。
だが、私はその事をひた隠しにする。
なぜなら、彼は卒業後とある地方に就職してしまうと聞いていたからだ。
だから離れると分かっている今、彼と付き合いたいなんて思えなかった。
一方の彼自身も同じことを考えているのか、必要以上に私と会うことはなかった。
そして、彼の卒業の日を迎える。
私は最後に一言、おめでとうございますと伝える為に部室の前に立っていた。
約束をしたわけじゃない。だけど、おそらく彼はここにいる。
それが分かっていたからこそ、すぐに部室の前に立ち尽くしていたのだ。
居なかったら……という不安、居てもすぐに離れ離れになってしまうという寂寥感に足が前に進まなかったのだ。
だけど、前へ踏み出さないといけない。
私は意を決して部室のドアを開く。するとそこにはあいも変わらず、ピアノの前で鍵盤を見つめた彼の姿が見えたのだ。
「おう…」
部室のドアを開けた私を見つけ、彼は力なく私に声をかける。
「香川さん、卒業おめでとうございます」
私は至って平静に祝辞を彼に伝える。
その言葉に彼もホッとしたのか、ただ安心して「ありがとう」と返す。
そして二人の間に少しの沈黙が訪れる。その沈黙の意味をおそらく私たちは知っていた。
……だけど、言わない。いや、言えなかった。
「これから、どうするんだ?」
しばらくすると、場の空気に嫌気がさしたのか、彼が小さく口走る。
話の主語がない一言。だけど、伝わる。
……これからお前はピアノをやめるのか?
という意味を持つ言葉に私は少し考えると、彼の瞳を真っ直ぐに見る。
「私の役目は終わりましたから」
「そうか……」
彼はそれだけを言って私から顔を外らせ、ピアノを見つめる。
彼も私の言葉の意味を知っている。だから、多くは語らない。
すると、彼はピアノの蓋を開け、鍵盤に懸かっている赤い布を外す。
そして、鍵盤に手を当てる。私はそこに当てられた手を見て何を弾くのかすぐに分かった。
……練習曲ホ長調「別れの曲」
彼が望み、私が教えて来た曲だった。
そして、ゆっくりと彼は鍵盤を叩きはじめる。
練習で柔らかくなってきた指の運びが、私たちの過ごした時間を物語る。
テンポや強弱は以前とは格段に良くなった。
そして、その音は私にこの時間との別れを告げている。
その事に私は一滴、一滴と涙が流れてきた。
全てを引き終わると、彼はピアノから目線をこちらへと向ける。
そして一言、私に呟いた。
「ピアノは好きか?」
彼の一言に、私は「えっ」目を見張る。
あの日に香川と呼ばれた人が言った言葉だった。
私は彼から勝手に勇気をもらった言葉に「やっぱり」と小さく呟く。
だが、例えそうだとしても私は、あの日の私ではない。
……人を不幸にする自分のピアノは……
「嫌いです……」
私は下にうつむきながら否定を口にする。
それを聞いた彼は「そうか」とため息を吐く。
そして俯いた私を再度見つめてくる。
「嫌いでも構わない。だけど、どんな形でもいい。君はピアノと向き合って欲しい」
「…どんな形でも?」
「ああ。俺は君のピアノの音は好きだ。誰かに教えるだけでもいい、ピアノは辞めないでくれ」
私が辞めた日から否定し続けてきたピアノを、好きになった人が肯定する。
「だけど……」
「俺は不幸になってはいない!!ピアノで不幸にはならない」
再度ピアノを否定しようとした私を、彼が否定する。
その言葉に私の心は揺れ動く。
……私はまたピアノをやってもいいのだろうか。
「ピアノを楽しめ。バカになるくらいに」
その言葉で私は、ピアノを再開する事を決めた。
そして、彼は大学を卒業して行った。
彼の卒業後、私はバイトをしながら再度ピアノの先生の所に足を運ぶ。
私の辞めた理由を全て知る彼女は最初戸惑っていたが、すぐに喜んでレッスンをしてくれた。
そして再び、脚光を浴びるようになる。
彼に今の自分を見て欲しいと願ったが、彼は大学に足を運ぶ事はなく時間だけが過ぎた。
そして私はピアノのプロになる為に留学を決意し、ヨーロッパへと旅立った。
留学して数年の月日が経ち、私はヨーロッパでプロになることができた。
それをお母さんも、ピアノの先生も喜んでくれた。
だけど、彼の喜んでくれている顔だけが見れなかった。
しばらくヨーロッパで活動をしていた私に、一本の訃報が舞い込んできた。
お母さんが病死をしてしまったのだ。
最後に会ったのは1年前で、最後の言葉を聞くことも、死に顔も見ることなく亡くなった母の死で私は再びピアノが弾けなくなってしまった。
日本への一度戻り、母の遺影を目にし、私はピアニストを止めることを決意する。
もはや、止めるものも、背中を押すものもいなくなったのだから……。
ヨーロッパに戻った私は荷物をまとめて再度日本へと戻る。
もうここには戻る事はない。
飛行機に乗り、窓人生最後になるであろうヨーロッパの地を眺めている。
すると、「ソーリー」といういかにも日本人が発音しそうな片言の英語でとなりに男性が座る。
私は一目、その顔を見て驚いた。
その人は私が好きで、背中を押してくれた香川 大樹だったのだ。
彼も私の顔を見て驚いてはいたが、プロになった事を知っていて、喜んでくれていた。
だが、私が引退したことと、母の死を伝えると、彼は飛行機の中で涙を流してくれた。
その運命のような出会いから、私たちの交際はスタートした。
そして、数年後、綺麗な夜景の見えることで有名な所でプロポーズされ、結婚した。
だけど、私は子宮の中に病気がある事がわかり、子供をなかなか授からなかった。
不妊治療などをしていく事でどうにか彼との間に女の子をさずかった。その代償に二度と子供ができなくなってしまった。
だから夏に生まれた我が家の姫を意味する「夏姫」と名付けた女の子に私たちは愛情を注ぎ、彼女にピアノを教えた。
そのことが再び私たちに不幸をもたらすとは思ってもいなかった。
※
「……やっぱり、教えるんじゃなかったかしら」
2人の帰宅が遅い事に私は悪夢を思い出す。
なにかあったんじゃないかしら、無事に帰って来て欲しい。
そう願っていると玄関から「ただいま〜」と言う夏樹の声がする。
私はその声を聞くと、慌てて寝室から猫を抱えたまま飛び出す。そして帰ってきた2人の顔を見て安堵する。
和かな表情で私の顔を見て「ただいま…」と、言ってくる夏樹の顔を見て、私は彼女を抱きしめる。
夏樹は「えっ?ちょ!!」と、少し戸惑ってはいたが、すぐに大人しくなり私の胸に抱かれている。
…この子は夏姫じゃない。
元々、彼女…いや、彼は見ず知らずの男性だ。
そんな事はわかっている。
だけど、彼は娘を必死に助けてくれた。
残念ながら、娘は死んでしまったけれど、私達の強い希望で、彼は娘の身体で生き延びる事ができた。
そして、私達を家族として受け入れようとしてくれている。そんなもう一人の可愛い娘…夏樹を失いたくない。
そう思うと、自然と身体に力が入る。
あの日、あの子にしてあげられなかった事を私は夏樹にしている。
「お母さん、痛いよ……」
強く締め付けすぎたのか、夏樹は呻き声を上げる。
「……ご、ごめん」
か細い首を摩る夏樹に私は謝る。
すると、夏樹は首を摩るのをやめて私の顔を見る。
「お母さん、私は……、死なないよ?ピアノを弾いても、どんな事があっても生きて行くから…」
と、笑いながら言う。
私はその一言に驚いた。
夏樹にこの話をした事はない。
だけど、夏樹は知っていた。
私は顔を上げて、大樹の顔を見る。
得意そうな顔をする夫だけど、いつもと違うところがあった。
目尻に涙の跡が残っていた。
……また同じ事を考えてた。
そう思うと、自然と笑みが溢れる。
そして、3人で笑い合った。
歪でも、他人でも構わない。
この子が元気でいてくれれば…。
「夏樹…」
私は風呂上がりの夏樹に声を掛ける。
「お母さん、何?」
呼ばれた夏樹は不思議そうに私に近づいてくる。
「誕生日……おめでとう」
私は内緒で買っていたある物を夏樹に手渡す。
「あ、ありがとう……」
戸惑いながら夏樹はある物を受け取ると、開けていいかを尋ねてきた。
私が頷くと、彼女は丁寧に包装紙を剥がして中身を見る。
そこにはとあるブランドの赤と紺の折り畳みの財布が入っている。夏樹はそれを見ると私の顔をみる。
「あなたが四季さんに貰った財布を大事にしているのは知ってるの。だけど、今は中学生の女の子なんだし、可愛いのも持ってないとダメよ。それは普段使いにして、今までのやつは大事にしてなさい。それでなくてもあなたは普通の中学生に相応しくない金額を持っているんだから」
私の言葉に、夏樹は少し考える。
そして、「……大事にするね」と笑顔を見せる。
この財布は、あなたが大事にしている家族の中に私達も入れてね…と言う意味が込められていた。
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