つゆの追想 先輩と後輩

私、香川 つゆはまだ帰ってこない夫、大樹と娘の夏樹の帰りを待ちわびていた。


今日は夏樹の誕生日前日で、夏樹の友人達と共に誕生日パーティーを行なっていた。そして夜も更けて来た為、大樹が友人達を贈るために車を出して5人を送って行った。


そして、時計の針は0時を回り夏樹の誕生日になった。


0時を回ってもまだ帰って来ない2人にヤキモキしながら、私は廊下に出て夏樹に立ち入らせたことのない部屋へと向かう。


夫婦2人の寝室だ。

そこにはキングサイズのベッドと鏡台と衣装ケースなど一般家庭と同じ家具が置かれている。


ならどうして夏樹に立ち入らせる事がないのかと言うと、ここが夫婦の寝室でプライベート空間だからと、物事の分別のある娘が気を使って立ち入らないだけと言う訳ではない。


私は寝室のクローゼットの扉を開く。彼女は見たことのないアルバムと額に入った大きな写真がある。そこには黒髪の少女が控えめな笑顔で写っていた。


「夏姫、誕生日…おめでとう」

私はその写真に手を合わせながら小さく呟く。

その写真に写る少女こそ本来の夏姫だった。


あの日、火事に巻き込まれ一命は取り留めたものの…脳死をしてしまった自分の娘の写真を見ながら私は涙を溢す。


その涙は今の夏樹には見せられない。

私達のわがままで彼を夏樹にしてしまい、心が不安定になると「…私が死ねばよかった」と溢す、愛おしい娘の姿をした彼にこの姿は見せられない。


ようやく精神的にも落ち着きを取り戻し、私達と家族になろうと努力をしてくれているから、なおのことだった。


もう1人の新しい娘の帰宅を待ちわびながら、死んでしまった娘の死を悼む。これが、私に課せられた罪であり、業なのだ。


…かちゃっと寝室の扉が開き、私は驚いて後ろを振り返る。2人が帰って来たと思った瞬間、目に入って来たのは最近新しい家族になったねこの姿だった。


猫嫌いの夏姫と猫好きな夏樹。

2人のギャップにこの子が来た当初は戸惑いはしたが、今では少しづつ慣れて来た。


「ニャンちゃん、おいで…」

私が力なくねこを呼ぶと、ねこはゴロゴロ喉を鳴らしながら私に擦り寄ってくる。


「2人とも、遅いわね…」

そして、私はねこを抱き上げて、不安な気持ちを抑えながらただ1人事を呟く。


あの日、私がピアノを手にしたその日から、私の周りでは不幸が続いていたからだ…



私がピアノを弾き始めたのは5歳の頃だった。

父が買ってくれたピアノを弾くのが楽しくて、暇があればよくピアノを弾いていた。


ピアノ教室にも通うようになり、弾ける曲も増えて来ると、その思いはますます募っていった。

だけど簡単には上手くなるものではなく、コンクールではなかなか結果が出なかった。


中学、高校とただピアノが上手い女の子として決して有名になる存在ではなかった。だけど、父は喜んで演奏を楽しんでくれていた。


高校一年生になった私は、高校で初めてのコンクールに参加した。そして、当日私は緊張していた。

そう、本番になると急に本来弾けていた曲が弾けなくなるのだ。


会場のロビー前で立ち尽くしていると、私の隣にいた女の子も緊張で表情が固まっている。


私もその顔を見てますます緊張が高まってしまい、「あっ、今日もダメだ…」と、諦めの気持ちが芽生える。


だが、その日は違った。


「…香川先輩、来てくれたんですね」

私の隣で緊張し固まっていた女の子の顔が明るくなり、嬉しそうに香川と呼ばれた男性の方へと向かっていく。


「近かったから、お前の緊張した顔を見に来てやったぜ!!」

と、彼はデリカシーのかけらもない一言を緊張する女の子にかける。


…なに、あいつ。他にも緊張している子がいるのにそんな事言う?


私は内心で腹を立てながらその場から立ち去ろうと思ったが、声をかけられた女の子の表情が何故か嬉しそうに見えて、その場から動けなかった。


声をかけられた女の子は「ひっどーい」と、口では怒りながらも、表情は柔らかくなっていた。


すると彼の口から一言、女の子に向けて声をかけていた。


「ピアノは好きか?」

彼女は「はい」と、声を上げる。


…はい。

私に向けられた声じゃないのは分かっている。

だけど、その言葉に私は答える。


「なら、馬鹿になるくらい楽しんで弾いてこい!!お前は馬鹿なんだから!!」

馬鹿と呼ばれても女の子は怒る事はなく頷き、さっきとは打って変わり目に力が入ったのが分かった。


二人の関係がどんな関係かはわからない。だが。おそらく彼女にとって彼の言葉は気持ちを切り替えるスイッチなのだろう。


そして彼の「行ってこい!!」と言う力強い言葉に勇気づけられた彼女は足早に香川と呼ばれた先輩と離れていく。


その光景が私にが眩しく輝いているように見えて

羨ましく思いながらも、その会話に緊張が解れた。


そこからは私も緊張が解けたのか、がちがちだった緊張もほぐれて、いつもの演奏ができた。

…いや、いつも以上に心のこもった演奏が出来たのだ。

その結果、私は最優秀賞をとったのだ。コンクールの時は決まってあの日の光景を思い浮べるとなぜか何事もうまく行く。その後も賞をとり続けた私は天才とよばれ一躍時の人のとなる。海外への留学やプロへの道もちらほら見え始めた。


だが、その充実ぶりも束の間だった。その事で両親の意見が分かれることになったのだ。


プロを目指して欲しい母と無理にプロになる必要はないと言う父の板挟み状態が続いていた。

実際に、天才と呼ばれ出した頃から私にはそんな力はないと実感していたし、その事がまたプレッシャーになっていた。


そして、その事で家庭内がギクシャクして来たある日、父がとある事故で亡くなった。


夫婦喧嘩の最中、怒りを冷ます為に家を出ていった父に工事現場の足場が崩れ、雪崩かかったのだ。

その一報を聞き、私は泣き崩れた。


普通に生活をしていれば、崩れた足場に巻き込まれる事はない。いや、生きているうちに交通事故に巻き込まれる事も、火事に巻き込まれる事も確率的には少ない筈だ。だが、父はその確率の低い方を引き当ててしまった。


その事で私は一つの考えに至る。


「私がピアノを弾いているから、不幸が起こるんだ…」


父の死は衝撃で、夫婦喧嘩も父の死も私がピアノで賞を取り出してから起こったのだと私は自分を責めた。


1番の理解者であり、私の演奏を楽しみにしてくれていた父の死は私をピアノから遠ざける。


プロの話も留学の話も流れ、引っ越しを機にピアノは売ってしまった為ピアノを弾く事もないまま、高校を卒業後は普通の大学に入学する。


大学のお金はお父さんが残していてくれたのだが、生活の為お母さんが仕事に行くようになってからは私もアルバイトをするようになった。


ピアノとは縁のない生活を送る日々が続く中、時々襲いくるピアノの音を欲する自分がいる事に私は気がついた。


いてもたってもいられなくなった私は内緒で電子ピアノを買い、お母さんが仕事の間に内緒で弾いていた。


だが、そこには鍵盤を「叩く」音がなく、機械的に作られた感触と音だけが聞こえるのだ。

そこにピアノを弾く感覚はなかった。

その事に不満を覚えた私は、音楽のサークルに入る事にしたのだ。


初めてサークルの部室に行くと、その前に図書館で喧嘩をした男性が下手くそなピアノを弾いていた。

そこで再び、喧嘩になってしまう。


なぜ喧嘩をしたのかは分からなかったが、彼の音や存在が私の尺に触ったのだ。


だから時間が合わないように時間を選んで部室に行く。だが、彼とは週に一度。いや、多い時は2〜3度、顔を合わせる。会う約束もしていないのにだ?


…この人、ストーカーじゃない?

と、不信感を持つほど遭遇する。

私は彼に会うと逃げるように部室を後にした。


後から聞いた話では顔を合わせる時間帯が最も誰も来ない時間だったらしい。


そんなある日、私がピアノを弾いていると、いつものように彼がピアノを弾きに来た。


そして、また喧嘩をする羽目になったのだけど、その日はついつい感情のままこれまでにあった話をしてしまった。


どうやら彼は高校時代の私のピアノを聞いたことがあるらしく、高校の吹奏楽部の部長をしていたそうだ。


そこで初めて名前を聞いた。


「香川 大樹」

のちに未来の旦那になる男の名前を聞いて驚いた。

あの日、私が勇気づけられた香川先輩と呼ばれた人と同じ姓を持つ男だった。


その日の先輩と呼ばれた人物と同じ人かどうかは分からない。だけど、そこに運命を感じた私は、彼にピアノを教えることになった。


最初の出会いは最悪だったけど、1年間…いや20年以上共に過ごすことになるなんて、この日の私は思っても見なかった。

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