大樹の追想 ピアノと才能
あの日の俺たちは最悪な出会い方をした。
会った当日に大喧嘩をするなんて思っても見なかったからだ。
当然、彼女としては最悪の印象を俺に持った。
その証拠に俺が部室でピアノを弾いているのを見るとすぐにどっかに行ってしまう。
俺が部室に行くと、練習もそこそこに立ち去ってしまう。
だが、俺の出席率から考えても、彼女と会う回数は多かった。それこそ、合わせても居ないのに、週に一度は…いや2、3回は確実に顔を合わせている。
ある日、いつものように俺が部室へ向かうと、ピアノの音が廊下に響く。それを小耳に挟みながら俺は敢えて部室へと向かう。
部室のドアがを開けると、彼女はピアノを弾きながら、横目に俺の顔見る。そしていつものように嫌そうな顔をする。
その顔を無視し、ピアノの側にある椅子に座る。
どうせすぐに出て行く事は分かっているから、俺は鞄から本を取り出して読みはじめる。
心の底では天才と呼ばれた少女のピアノを眼前で聴けるのだ。それだけでもここに居ることが嬉しくなる。
本をめぐる音を立てず、彼女の弾くノクターンの音色を聴き入る。滑らかな指の運びから奏でられる音色にいがみ合っている気持ちが穏やかになる。
全てを弾き終えた彼女はピアノから立つと俺の方を見て恨めしそうにこちらを睨む。
その視線に俺は答える事なく本を読み続ける。
「何無視してるんですか?私の演奏を聞けたんですよ?何かいったらどうなんです?」
「プロじゃあるまいし、ただピアノの上手い一学生に何を言えっていうんだよ?」
至って淡々と答える俺に彼女は頰を膨らませる。
「私だってプロを目指していたんですから!!」
胸を張りながらこちらにドヤ顔をする彼女に、俺は
「知ってるよ…」と零す。
「えっ?」
「雨霧 つゆ。高校1年の時に全国高校ピアノコンクールで最優秀賞を受賞。才色兼備でプロも夢じゃないって言われていた。当時の演奏は素晴らしく、あの場にいた誰をも虜にした」
俺は彼女の顔を見る事なく、本を見ながら知っている情報を口にすると、彼女の目が大きく開かれる。
「だが、翌年のコンクールからは雨霧 つゆの名は消え、てっきり海外に留学したものと思っていた。彼女はプロになる人だとね…」
俺がそう言うと、彼女は俯き床をじっと見続けていた。
「俺の興味があった雨霧 つゆという子はそれ以降名前が世に出てくる事なく、俺も関心が薄れていった。だけど、同じ大学に同じ名前を持った子が入学したって聞いた時は驚いたよ。あの雨霧が同じサークルにいるって言うじゃないか!!」
俺は本から顔を上げて、宙を見る。
喜び?感動?あの日に感じた感情に再会した気持ちに、俺は興奮を覚えていた。
そんな俺の顔を彼女は俯けていた顔をあげて見つめる。
「だが、実際は違った。今目の前にいるのは俺が興味を持った人じゃなかった。ピアノがうまいことを鼻にかけた、口の悪いただの一般人だったよ」
俺は彼女に怒られることを覚悟で言い放つ。
「…」
その言葉に彼女はただ黙って唇を噛む。
そんな様子を見てもなお、俺は話を続ける。
「そりゃそうだ。彼女ほどの才能があれば、こんな一般の大学に入学することなんてない。雨霧なんて名前、そうある名前じゃないから期待した俺もバカだった」
言いたいことを言い終えた俺が彼女の顔を見た刹那、彼女は涙を流し俺の頬を叩く。
「あなたになにがわかるんですか!!」
涙が溢れた彼女の真剣な眼差しが、俺に突き刺さる。
そして、鞄を持って部室から出ようとする彼女の様子を見て、俺の胸が痛む。
出会いが最悪で、腹が立つ後輩だったから彼女の気持ちも考えずに怒りをぶつけてしまった。
後悔した瞬間、俺は自然と彼女の手を掴んだ。
「ちょっと待てよ!!」
「離してください!!もうあなたの顔なんて見たくない!!」
俺の手を振りほどこうと必死にもがく彼女を俺は必死で引き止める。しばらくジタバタしたが、彼女は諦めて身体の力を抜く。
冷静になって考えると、彼女を襲っているように見えて来て、俺は彼女の手を離すと「ごめん…」と、謝った。
しばらく部室に沈黙が流れる。
「あの日、私は最高の演奏ができたって自分でも思う。とても楽しくて、とても気持ちいい瞬間だった。でも、あの日を境に私の周りの空気が変わったの…。天才と呼ばれて、私に釣り合わない評価が一人歩きを始めたの…」
ぽそりと彼女は自分の身の丈を話し出す。
「あぁ、あの日の君は素晴らしかった」
俺は、ただあの日の感じた気持ちを率直に伝えた。
「あなたも、あそこに居たの?」
「後輩の演奏を聴きにな」
「そう…」
彼女は肩を落として、ため息をつく。
「忘れたいの…。あの日のことも、ピアノのことも、本当は無かったことにしたい…」
「何があったか聞いても?」
俺がそう言うと、彼女は静かにうなづく。
そして、俺が椅子を引いて彼女を座らせ、その向かいに俺は座る。そして、一息ついた彼女は話し出す。
「あの後、親もピアノの先生も調子に乗ったのか、私にピアニストを本気で目指すように言ってきたわ。それは…まだ良かった」
「まぁ、あれだけの演奏を聞かされるとそうなるわな」
俺はそう言ったが、彼女は表情を変えない。
「もちろん、最初は楽しくピアノを弾けてたと思う。だけど、次第に気持ちと演奏の中にギャップが現れ始めたの。そこからはプレッシャーだけがのし掛かって、簡単に崩れていったわ」
凡人にはわからない苦労が彼女の表情から見て取れる。その言葉の重みに俺はただ、黙って彼女の言葉に耳を傾けるしか無かった。
「そして、半年が過ぎた頃に急にお父さんが事故で亡くなってしまったの…。そこから、ピアノに手がつかなくなった。私の演奏を楽しみにしてくれていた人だったから…」
彼女は大粒の涙を流しながら、まるでありふれた小説のような高校時代を語る。
「父が亡くなってからは、家もピアノも処分して、天才と呼ばれた日々から程遠い生活を送ったわ。
平凡で何もないぽっかり穴が空いたような日々を過ごしてた。だけど…」
彼女は部室に置いてあるピアノを横目に見る。
「私は時々、無性にピアノの音を欲したの。喉が渇いた時のように…。だけど、高校ではピアノは弾かなかった。いや、弾けなかったの…」
「天才と呼ばれていたから?」
俺が彼女の言葉を遮って尋ねると、彼女は頷く。
「だから電子ピアノを母に内緒で買って、母がいない時に密かに弾いていたの。だけど、それだけでは足りなかった。だから、この大学に進学した時にこのサークルでピアノを見つけた時は…嬉しかった」
ピアノを見つめる彼女の目はその瞬間だけ、一瞬輝いて見えた。
「だけどこのサークルにいる人って、私みたいに本気で音楽をしたい人だけじゃ無かったから…居心地が悪かったの」
「だから、俺みたいな中途半端に音楽をやっている人間に腹が立っていたと…」
俺はテーブルに肘をつき、その手に顎を乗せたずねる。彼女は図星をつかれたような表情を浮かべ、困惑する。
「そうね、あなたの図書館でのピアノの鍵盤を叩く振りなんて…聞くに耐えなかったわ」
彼女の正直な言葉に俺は手から顎が落ち、倒れそうになり、「お前なぁ〜」という。
その様子を見て彼女は苦笑いをする。
「だけど、何を弾こうとしてたのかはすぐに分かったから、この部室であった時は少しだけ嬉しかったわ。私以外にも似たような思いをしてる人がいるって分かったから…」
彼女は静かに微笑みながら俺を見る。
その眼差しに、俺はドキッと胸を高鳴らせた。
「けど、あんな喧嘩をしたあとで、まともに話せるとは思ってもいなかったし、またすぐに喧嘩をしちゃったから誰もいない時にここに来てたの…」
「誰にも邪魔をされたく無かったから?」
「ええ、誰かさんが居なければ邪魔をされずにいっぱい練習できたのに」
彼女は戯けるように笑う。
「悪かったな、邪魔してよ!!だけど、そんなにピアノが好きなら…音大に行こうとは思わなかったのか?」
俺がふて腐れながら尋ねると、彼女は首を横に振る。
「私はもうピアノは弾けないわ。私の音色は、誰かを不幸にしてしまうから…」
俺は彼女の言葉が何を意味しているのか、わからなかった。ただ、彼女の表情からは後悔の色が見える。
「だからこのサークルも、今日で…」
と、彼女が口にした瞬間、俺は何かに焦り、椅子から立ち上がった。
その様子に驚いた彼女は目を丸くしこちらを見る。
俺も立ち上がったはいいが、彼女に何を言えばいいかわからずに立ち尽くす。
ただ、彼女の才能を惜しむ気持ちと自分の持っていない才能を羨む気持ちと、もっと彼女と話したいと思う気持ちが混在していた。
「あ、あの…」
困惑する彼女が、声を発すると俺はいてもたっても居られなくなり、ピアノの方へ向かい席につく。
その様子を黙って彼女は見つめている。
そして、ピアノの蓋を開けた俺は鍵盤に手を当てて、一曲弾き始める。
ショパンの別れの曲…。
彼女の奏でる音とは違い、動かない指で必死に奏でていく。それを彼女は黙って聞いている。
しばらく俺が奏でる音だけが、部室内に響き渡る。
そして、最後の一音を引き終える。
彼女は無言で俺の様子を眺めていた。
「…別れの曲ですか。私の未練を無くすにはいい選曲ですけど、下手すぎますね」
彼女は力なく笑いながら俺に告げてくる。
「いや、違う…」
彼女の感じ取ったものと俺の意図したものが違ったので俺はすぐに否定する。
「じゃあ、なんですか?」
彼女が不思議そうな顔で尋ねてくる。
「一年…」
あと一年もない俺の大学生活だ。
「あと1年間、俺にピアノを教えてくれ!!時間がある時だけでいい。その間だけ、俺にこの曲を弾けるようにしてほしい!!どうせ俺は卒業する。あとは辞めるなりなんなりすればいい」
そう、彼女が何をしようが関係なかった。
あと一年でどうせ消える縁だ。好きにすればいい。
だが、一年もあれば一曲くらい上手くなることはできるだろう。卒業までにこの曲を覚えて…彼女に贈りたいと思った。
俺が、そう考えていると彼女は微笑む。
「仕方ないですね。素人じゃなさそうだから、一年もあれば下手でも…マシにはなるんじゃないですか?」
表情と裏腹にきつい言葉の彼女に俺は苦笑いをしながら「じゃあ、教えてくれ」と頼む。
そこから、俺たちは卒業までの間、ここでピアノを練習し続けた。
この出会いが、後々不幸を招く事になったとしても、俺は決して後悔する事はなかった。
この出会いがなければ、つゆとも夏姫とも出会う事はなかったのだから…。
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