第4話 リハビリと選択

俺が目覚めてから約1ヶ月の月日が経った。

最初は身体も動かず、香川 夏姫の姿に怯える日々が続いたが、それもようやく落ち着いた。


そこで、本格的にリハビリを行う事になった。


マッサージで身体を意識をしていく事で最初は首、手、腰などが徐々に動くようになり、自分で起き上がる事ができるまでに回復した。


そして、次に行ったのが立位訓練。

平行棒を掴んでたつ運動と車椅子への移乗の練習をする。


恥ずかしながら、この身体になってまだ俺は自分でトイレへ行った事がない。恥を忍んでオムツ介助をして頂いているのだ。それが、可愛い看護師さんとかだと泣きたくなる。


伊達に35年間男をしていた訳ではない。女の子になっても意識は男目線だ。

だから、自分の身体を清拭などで見る際には目を逸らしたくなる。


35のおっさんの弛んだ体とは違う柔らかい体と、白くて張りのある綺麗な肌を見るとやはり違う。

意識したり欲情すると言った感情はないものの、身体に見慣れるまで時間が掛かった。


今がこの状態では先が思いやられる。


ただ、少しずつ自分で立ち上がり、歩けるようになってくると世界は一変する。退院をするべく動き始めるのだ。


まず最初にしたのは自分の身体に身に付けるものとの葛藤だ。初めのうちはオムツであったが、トイレへと自分で行けるようになってくると下着も自分で身につけなければならなくなる。

 

トランクスやボクサーパンツと言ったものとは違い、リボンやレースのついた可愛い下着を香川母が買ってくる。


嫁や元カノがつけていたような布地が少ないものでないにしても、それを身につける事に恥ずかしいと思う。


身体にフィットする感覚がそれこそ、小学生で卒業したブリーフのようなものの為精神的にも辛い。


次に辛かったのは初めてのトイレだった。


女の子は感染症予防のために陰部を拭かなければならないとは聞いた事がある。男も拭いた方がいいのだが、小便器の時は拭けないし、拭かない。


それを今の自分の身体だとわかっていても、触る度に香川 夏姫に申し訳ないという気持ちと恥ずかしさで、これまた慣れるまで苦労した。


だが、それは序の口だった。


そこはまだ自室のトイレであったがという事だ。

自室だから気にせずにできていたのだが、リハビリを始めていくと時々起こる尿意に俺は苦戦した。


車椅子のうちは車椅子用トイレで排泄をしたが、自立するようになってからはトイレは女子トイレに行くようになる。


精神的には男性なので男子トイレや車椅子用トイレを希望すると、看護師は黒い闇に包まれたにこやかな笑顔で俺を女子トイレへと拉致…連行する。


それだけでも精神的に抉られるのだが、時折めそ他の個室でお花を摘んでいる方の生々しい音を聞くと気が遠くなる。


…ダレカタスケテ…。


最後に困ったことは、女性達の会話だ。

容体も安定し、精神的にも女性的にも慣れてくると社会的に慣れるため、一般病棟へと移動する。


そこでは田島 春樹ではなく香川 夏姫として呼ばれ、生活をするようになると、同室の方から女性目線での会話が必然的に増える。


一応この病院は大学病院で精神科もある。だから記憶喪失という設定で入院しているので、不都合があればごまかせるのだが、男性ではしない会話もたまにある為気は抜けない。しかも、女性は話が長い。


 …パトラッシュ、ボクハモウ…ツカレタヨ…


…ん?入浴についてはって?それはまた後日に…。


思い出すだけでも胸糞悪い…。四季にマウントを取られ弄ばれたのだから…。


 

コホン、さて、話を戻そう。


俺が頭の中でパトラッシュと戯れる日々が続いたある日のこと、主治医に呼ばれて会議室のようなところへ案内される。中には四季と香川夫妻がいた。おそらく退院に向けてこれからの事を話すのだろう。


俺の両親は四季に一任するとの事で、参加は見送った。まぁ、年老いた両親も葬儀を済ませた自分の息子の変わり果てた姿は見たくないだろう。


そして、静寂に満ちた室内で主治医は重い口を開く。


「お集まり下さりありがとうございます。今日は田島 春樹…香川 夏姫さんの退院に向けての今後についてを話し合いたいと思います。書面上では香川 夏姫となっていますので、夏姫さんと今後は呼ばせていただきますが、春樹さん、よろしいですか?」


主治医による、田島 春樹という存在の最期を確認された。書面上…法律的には今は香川 夏姫なのだ…。


「…はい」


俺は自らの口で田島 春樹の死を宣告した。

以降は春樹と呼ぶのは恐らく四季と俺の生存を知る者のみになってしまうのだ。


「では夏姫さん、今後あなたが生活する上での選択肢を上げます。その中からあなたが望むものを選んでください。前々から奥様と香川さんとの間では話し合いをしていますので、どれを選んでいただいても構いません」


そう告げる主治医と四季、香川夫妻の顔を見る。

主治医以外は複雑そうな表情を浮かべている。

俺自身も、前々から考えていたことだ。


「まず一つ目、香川 夏姫として香川夫妻の元で生活をしていく。香川さんはそれを望まれています。

そして二つ目は、田島 四季さんの養子として生活をしていく。もちろん、奥様はそれを望まれています」


その二つは、俺が考えてきたものと一緒だ。

選びようがない。

現実的には香川夫妻の元へ行くのが一番いいのだろう。冬樹を見ながら中学生で稼ぐこともできない俺まで見るのは四季のお荷物になる。それに、四季は再婚だってできる。それを見るのは忍びない。


だが、香川夫妻はどうなのだろう。

身体は夏姫だが、精神的には夫妻と歳も近い他人になるのだ。彼らのことを思うと、それも簡単には選ぶことはできないのだ。


…俺自身はどうしたい?これからどうなるんだ?

自分達にとって一番いい居場所はどこなのだろう…と暫く考える。

5人が入っても余りある会議室に再び沈黙が走る。


「夏姫さん…あなたにはもう一つ話すことがあります」主治医が、沈黙を破る。


「いい方は悪いですが、あなたは我々にとっての重要な研究材料です。定期的な検診や状態観察を行なっていただければあなたにそれなりの金額をお支払いすることができますし、あなたが高校卒業までの期間は当院の付属中学、高校への学費免除も約束します。それに私の管轄下にいる事での急変時の対応も可能です。ですので、金銭面に関しては余り難しく考えなくても大丈夫です。」と語る主治医。


まぁ、たしかにモルモットにはそばにいて欲しい。

なんせ、世界に類を見ない手術をやってのけ、今後の医療の最先端を行く可能性がある俺という存在はモルモットにうってつけなのだろう。


自分にとっても何かあればこの医者を頼る他ない。たが頼る以上、信頼できる人でなければならない。モルモットだからこそ自分達の身は自分で守らなければならない。


俺はただ無言で主治医をキッと睨む。この視線の意味が分からなければ受け入れる事は出来ない。


「もちろん、貴方の件は匿名とさせていただきます。貴方のご家族、香川夫妻のプライバシーも漏らしません。我々にとって最良の形を取れるよう、時間がかかっても考えていきましょう」


その言葉を聞き、俺は初めて主治医を信頼した。

この人なら生命を預けられる。


「はい」と俺は頷き、一つの提案をした。


「あの…先生、香川さん。一つご相談がしたいんですが…。退院までに一時外泊として香川さんのお宅に泊めていただく事は可能でしょうか?」


「それは…可能です。香川さんがよろしければ、問題はありません」


「私たちも問題ありません。あなたを受け入れる事は私たちにとっての希望です。それを春樹さんが受け入れられるかがとても心配でした。あとは夏姫が決めるだけなので…」香川夫人はそう話し、夫も頷く。


「春樹…」

四季は不安そうにこちらを見る。


「四季…、少し考えさせてくれ。俺が今、俺でいるためには広い視野で物を考えないといけない。今の俺は働けない、無力な男…いや女の子なんだ。それに…」と言いかけて、話が止まる。


…冬樹の顔が浮かんだ。


「冬樹の事もそうだ。俺のことをはもう死んだ事になっているんだよな?」


「ええ、今のあなたのことは話していないわ。混乱をさせないためには…」


「なら、下手に家に戻らない方がいいと思う。田島夏姫として戻るより、香川 夏樹として俺を知らないままでいた方が冬樹のためだと思うから」


「…」


「心配するな、香川夫妻宅への外泊は考える為の手段に過ぎないよ。無理ならお前に頼るかもしれない。その時はまた助けてくれるか?」


「…わかった。任せて…」


四季は力なく笑った。その笑顔に、俺は今の自分の力の無さを痛感する。

ここにいる者の思いは三者三様、複雑だった。


「では、香川さん。外泊は夏姫さんが日常生活が問題なく行えるようになった時期を見て行いましょう。ただ…」というと、主治医は口を紡ぐ。


「先生?」

香川夫が、心配そうに声をかける。


「すいません。心配なのは香川さんのお宅からここまでの距離が遠い事が少し不安で…。田島さんのお宅は私の自宅とここの間にあります。ですが、香川さんのお宅は私の家とは逆方向にあります。もし何かあった場合に…」


「そんな事ですか!?」

というと、香川夫は鼻息荒く立ち上がる。

「ご心配には及びませんわ…」

と香川妻もにこやかな笑顔を見せる。

その様子を俺と四季はポカンとした表情で見ていた。



その1週間後、香川夫妻は四季と相談して、生前の自宅近くに早々に家を購入していたのだ。


初めて俺がその自宅に足を踏み入れるときは

「ほぇ〜」と、呆気にとられた声をあげたのは四季には内緒だ。

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