第5話 仮退院と夕食

初めて俺が香川夫妻の自宅を訪れたのは話し合いから2週間後のことだった。


香川夫妻の自宅と言っても、香川夫妻がこの家に越してきてまだ1週間も経っていない。


俺の退院に向けての話し合いの後に、俺にいつ何があってもいいように、そして俺がどんな選択をしてもいいようにと、俺の生前の家の近くに家を買ったのだ。


俺が、「無理に買わなくても良かったのに…」というと香川夫は高笑いをしてこう言った。


「何、こんな安い家くらい飽きればすぐまた買える。夏姫の近くにいることの方がもっと価値がある」


どうやら、彼は一企業の役員をやっている所謂お金持ちらしい。俺自身は一企業のヒラ社員だった事を考えると、格差社会が浮き彫りになる。


俺は車に乗せられ、生前の自宅前を通り過ぎる。

周囲を見ると約5ヶ月ぶりの自宅は懐かしかった。


そして、車で5分のところにあるこの辺りでは珍しい、庭付きの家の前に車は停まる。


「着いたぞ!!」と嬉しそうに香川夫が車から降りる。俺も香川妻に手を引かれながら車から降りると、その家の広さに驚いた。


まるで東京にあるサザエさん宅を思い浮かべるような庭を持つ2階建、地下1階の建物。敷地で言う俺の自宅の約2倍の広さを持つこの家をこの親父…いや、夏姫の父は安い買い物と言ったのだ。


俺は、夏姫母に手を引かれながら家の中を見て回る。一階は20畳のリビングにキッチン、2つの部屋、トイレにお風呂、洗面所がある。2階には部屋が4つとウォークインクローゼットがある。そして、地下は防音設備になっている。

こんな家、現実にあったのかと呆れるほどに広い。


そして、一つの部屋にたどり着く。

ダンボールが積まれた部屋だが、可愛らしい机とベッドが置かれた部屋に入る。夏姫の部屋だ。


「ここが…夏…いや、春樹さんが使う予定の部屋です」と、悲しそうに笑う。


「無理に春樹って言わなくていいですよ。夏姫ちゃんの身体ですから…」


「そう…ね。でも…」


「お二人には感謝していますし、申し訳ないとも思っています。助けたはずの夏姫ちゃんに助けられた。それ以上にお二人の気持ちを考えると…俺が死ねばよかったって…」と言いかけると夏姫母は俺を抱き寄せた。


俺が死ねば、あの時2階から飛び降りれば…何度も陥った後悔。自己と身体との矛盾が生じると俺の心は不安定になる。その度に四季や夏姫母は俺を抱きしめる。その事で俺は救われてきた。


「あなたを助けたいと思ったのは私たちの勝手な思い。この先、あなたがどんな境遇に陥っても、あなたを守りたいって思ったから奥さんと話し合って決めたの。心は違っても夏姫は成長してくれる。あなたと一緒に…。だから後悔しないで」


泣きながらそう言ってくれる夏姫母に身を預けた俺は、悪い考えから解放されていた。懐かしい、ホッとする感覚。

そう、まるで幼い頃に自分の母に抱きしめてもらった時の感覚。それを思い出した。

この身体はこの人の匂いや感触を覚えていた。この人は夏姫の母なんだ…と、改めて思い知った。


俺が落ち着くと、夏姫母は夕食を作るために下に降りていった。そして、俺は一人ベッドに横たわる。


広く、自分の部屋ではないが、落ち着く匂い。

彼女が帰るべき場所に帰った。そんな気がした。


そのまま、俺は夕方まで眠った。


その日の夕方、俺は目が覚めてリビングの方に向かった。そこで、俺は一つの泣き声に気がついた。

夏姫の母が泣いている声だ。


「あの子がいなくなったら私はどうしたらいいの?あの子はあの子じゃない。もしかしたら私達を選ばないかもしれない…」


「大丈夫、あの人を見守ろう。我々は、あの人がどんな選択をしてもあの子のそばで見守ろう。今私たちができるのはあの子の健康を守り、生きていけるよう支えるしかできない」


夏姫父は夏姫母を抱きしめながら、諭すように話す。その目には涙がうかんでいた。俺はそれを見て心が締め付けられる。


「…私たちの最初で最後の子ですもの、離れて欲しくない。けど…どんな選択をしても、あの人には生きていて欲しい…」


そう呟くと、二人は密かに泣き続ける。それを見て俺はゆっくりと、夏姫の部屋に戻る。


そして、夏姫の部屋にある洋服ダンスを開ける。


そこには全身を見る事ができる鏡を見つめる。

鏡を見ると首まで伸びた白髪の女の子が映っている。痩せて、ほっそりとした可愛い子がこちらを見るのを見て、俺は考える。


…ここに居るべきなのか、四季の元へ行くべきなのか。多分ここが、夏姫にとっての居場所である事は間違いない。彼女の両親にとってもそうだ。


夫婦にとって最後の子という事は、おそらく彼らは不妊症か何かなのだろう。最後の希望である夏姫を失いたくないという思いはわかる。


…なら、俺は?


自身の子、冬樹と近い年齢に成り果て、その上他人で自分と近い年齢である彼女の両親を俺は受け入れる事ができるのか。もう一度、問いかける。


四季のところへ戻って、何が出来る?

家事の手伝いと冬樹の世話はできるだろう。

金銭面でも検査費を全額四季に渡せば家計の足しにはなる。だからといって、彼女に苦労をかけるべきなのか?


再婚も、今ならできるだろう。自分の存在が、四季にとって足枷になる事は明白だ。

冬樹にとっても、俺はどんな存在になるのか、わからない。なら、このまま…


ピンポーン♪


玄関からチャイムが聞こえる。誰か来たようだ。

ガチャガチャと、下の階から音が聞こえる。


俺は下の階に降りて、リビングのドアを開ける。

そこには四季の姿と、5ヶ月ぶりに見る冬樹の姿が見える。しばらく見ないうちに背が伸びたようだ。


いや…俺が小さくなってしまったのだ。


「あ、夏姫ちゃん、四季さんが来てくれましたよ。

 冬樹くんと一緒に…」


「夏姫ちゃん…、仮退院おめでとう…」

というと、彼女は冬樹を前にだす。


すると、冬樹は照れながら前に出てくる。

「はじめまして、パパが助けたお姉ちゃん。僕、田島 冬樹っていいます」という。


 ちゃんと…自己紹介ができている。


前まで恥ずかしがり屋で人前に出ると隠れようとする癖があったのに…。今は…ちゃんと挨拶ができている。目頭が熱くなる事を覚えた俺はきゅっと唇を噛み締める。


「こちらこそ、はじめまして…香川…夏姫です。よろしくね」と答える。


「うん!!けど、よかった。パパが助けた人が元気になって。パパは死んじゃったけど、お姉ちゃんが元気なら僕も嬉しい」と、照れながら冬樹は言う。


…冬樹は知らない。俺がここで生きている事も、この姿でいる事も…。


「冬樹…君は寂しくないの?お父さんが…死んだ事」と、絞り出すように俺は聞く。後ろでは四季と香川夫妻が泣いている様子がわかる。


冬樹はう〜んと考える。


「寂しくない訳じゃないよ?会えないのは辛いけど、パパは人を助けたんだよ?ヒーローになったんだよ?そんなパパをかっこいいと思うし、お姉ちゃんが生きているのが嬉しいんだ」

という言葉に俺は堪らず冬樹を抱きしめて、声にならない声で呟いた。「ごめん…ね…」と…。


 すると冬樹はびっくりしたように、そして照れながら、俺にいう。


「また、遊びに来てもいい?」


「…うん」俺は泣きながら、冬樹に答える。

多分、これが答えなのだろう。田島 夏姫として、息子に嘘をつき続けて生きていく事は無理だ。なら田島 春樹は死んだ。香川 夏姫として生きていこう、そう心に決めた。


夕食は香川夫妻の家で四季、冬樹を交えて行った。四季も家からなにか作ってきたようでタッパーを取り出した。そこには俺の大好物なゴーヤーチャンプルが入っていた。


俺たち夫婦は沖縄出身というわけではないが、俺は四季の作るチャンプルが好きだった。

味付けもよく、苦味が抑えられたチャンプルが俺も冬樹も好きで、よく取り合いをした事を覚えている。


チャンプルを見ると、冬樹は嬉しいそうに飛びついたが、四季に制され膨れっ面をする。

四季が俺にチャンプルを取り分けてくれると、俺も喜んで食べた。久しぶりの四季の料理に感動しつつも、俺は途中で食べるのをやめる。


女の子の身体になったからか、入院開けだったからなのかはわからないが、食が細くなっている。


「夏姫ちゃん…口に合わなかった?」と、四季はいう。


「ううん、美味しいよ?だけど、今はこんなに食べれなくて…」

俺は物欲しそうに見ている冬樹にチャンプルを渡すと、冬樹は嬉しそうに早々とチャンプルを食べ終える。


その後も、夕食は和やかに続く。冬樹の誕生日が近い事もあり、夏姫の好物だったというロールケーキが出てきた。俺は夕食でお腹いっぱいだったが、その一切れを美味しくペロリと平らげる。


ああ、女の子の「甘いものは別腹発言」を舐めてはいけないと身をもって知った。

よく四季に太るぞとからかって殴られたが、その件について詫びなければと思う女の子一年生だった。

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