第3話 心と身体

翌日、俺は主治医と一緒に車椅子である部屋に移動していた。リハビリルームである。


目覚めてから行ってきたマッサージの甲斐があり、ようやく少しは体を動かしたり、声が出せるようになってきた。車椅子への移乗もできるようになったので本格的なリハビリを行う為だった。


そしてもう一つ、俺を待ち構えていたのは今の身体と向き合うことにだった。


目覚めてからこのかた、今の自分の姿を見たことがないのだ。主治医からは現状は聞いているが、部屋には全く鏡がない。


自分のケータイもなければ、香川夫妻や四季のケータイすら見せてはもらえない。

体を動かせない俺はトイレに関しても大半が看護師による清拭が行われていたので実感としての身体の変化はない。


だから、現実に向き合う術を持たなかった。


リハビリルームに入る手前で主治医は立ち止まり、俺の顔を見ながら話しかけてきた。


「香川…いや、田島さん。今から見るものは本来のあなたとはかけ離れたものです。が、現実です」


「はい」と、俺は呟く。


「我々も、この移植に関しては初めてです。なので何が起こるかわかりません。ですので、気をしっかりと持ち、現実を受け止める覚悟が必要です」


「…」


俺は答えに詰まる。覚悟…と言われても、できているようでできていない。


現実を考えないフリをしている今、声を聞くことすら違和感を覚える。俺は、香川 夏姫を見て何を感じるのだろう。


「香川夫妻は、あなたに感謝しています。実際に娘が亡くなった事で相当なショックを受けておられる筈です。それでもあなたに生きて欲しいと願い、移植手術に踏み切った。その事は覚えていてください」


俺が黙っていると、主治医は念を押すように話してきた。


「わかりました」俺は一言、そう答える。

 

すると、主治医は「よし」と言って立ち上がり、車椅子を押してリハビリルームに入って行く。


 リハビリルームでは何人かの患者がそれぞれにリハビリに励んでいた。その視線がこちらに向かっていることが分かる。その視線を横目に、平行棒の前にある鏡の前に車椅子は進む。


俺はの中で次第に緊張が走る。

過去の自分との決別と、今の自分との邂逅は何を意味するのかわからない。だが、現実と向き合う時間刻一刻と迫っている状態で否が応でも受け入れざるおえない。


目を瞑り、現実を捉えないようにしようとしてもそれは其の場凌ぎでしかない。わかっているが、俺は目を瞑った。


「田島さん、鏡の前ですよ」

主治医が、俺の様子を見て声をかける。

現実とのご対面だ…。俺は恐る恐る目を開けて行く。


うっすらと眼に映るもの、それは小さく痩せた人の姿だ。完全に目を開けると、そこには白髪の女の子が困惑した表情が映る。


…これが、俺?今の…俺?


顔の表情を変えてみる。自分が思った表情と寸分違わぬ動きをする鏡の中の女の子は自分なのだと理解できる。


…だが違う。これは俺じゃない。

あの日、炎とともに焼きついたあの女の子だ。


ただ一人、本を読んでいたあの子、逃げる途中で抱き抱えたあの子、目が覚めた時に亡くなったと知ったあの子が、目の前にある鏡の中で表情を変える。


俺が笑うと笑い、俺が怒ると怒る。だが、表情を作るのをやめると途端に泣きそうな表情をする名前も知らない鏡の中の子。その子は俺が助けようと、いや助けられなかった子。


短い髪は火事によるストレスか、栄養不良によるものなのかはわからないが、髪の毛が白くなっている。


その顔をみて、僕は途端に息がつまる。

生きているのは、彼女じゃなくて俺だ。

だが、その顔は俺じゃない。彼女だ。


…じゃあ、目の前にいるのは?

生きているのは…俺だ!!


肩で息をする、呼吸が早くなる。

頭が混乱する。世界が回る。


「ごめん、ごめん、ごめんなさい。ごめんなさい!!」


呟くように、念仏を唱えるように俺は彼女に謝り続ける。

息ができない…。

呼吸を整えようと足掻く。

無意識に手を顔に持っていく。

薄れゆく意識の中、俺は呟く。


「俺が…死ねば良かった…」

そして再び意識を失った。


失った意識の中、俺は夢を見た。

炎で赤く染まる景色の中、俺は誰かの腕に抱かれている。

見つめる先には見たことはあるが見慣れない横顔が、覚悟を決めた表情を浮かべていた。

そして、一歩、また一歩と進み出す。

死ぬかもしれない状況の中、彼の顔は必死だった。



気がつくともう見慣れた光景だった。

病室に戻っていたのだ。


辺りを見渡すと、四季が横に座っていた。

俺が動いた事を確認すると、ナースコールに手を伸ばしながら「目が覚めた?」と俺に言う。


「ああ」と、声を返して動かせる限り体を起こす。


「あなたが倒れて、5時間たったわ。自分の今を見たのね…」


「ああ、悪い夢でも見ているようだ」

俺は自分の細い体を見る。以前より柔らかい感覚のある体を見て、俺は恐怖を覚える。


生きている…?


「なんで、俺はいきているんだ?この子はなんで死んだんだ?俺が死ねば良かったのに…なぜ」


体の芯が冷えてガタガタと震え出す。

その様子を見て、四季は俺を抱き寄せる。


「あなたは、できる事をしただけ。あなたはすごい事をしたの。だから、今は生きてていい」

四季は俺の頭をなでて、俺を諭す。


四季に包まれると四季の匂いがする。自分の家の匂いだ。安心し、落ち着きを取り戻した。

だが、鼻腔をくすぐる匂いに違和感を覚える。


「あのままの状態でいたらあなたまで死んでいたわ。彼女の身体も火葬される。それなら、生きる望みがある方に私と香川さんは賭けたの。そしてあなたは、あなた達は勝った。あなたが守った身体は一切の火傷を負う事なく、あなたを…救ったわ!!」


そう話をする四季の顔を見ると目からは大粒の涙が流れる。それは、俺が見たことのない涙だった。


「それは…奇跡よ…」


そう言い終わると、四季は頭をうなだれ泣き続ける。その様子を見た俺は四季を抱き返して「ごめん…」と呟く。


四季も不安なのだ。

俺が急に死に、冬樹と二人で生きていかなければならない。その上で、俺がこの身体で生きていることは複雑だろう。


何せ、14歳の女の子になってしまったのだから、きっと生きていて嬉しい反面、今後どうしていくべきなのか苦慮するところであろう。


俺と四季が話をしていると、主治医と看護師が室内に入ってきた。


「田島さん、ご気分はいかがですか?」

俺のベッドの横に立ち、主治医は話しかけてくる。


一切の感情を排除した表情をしながらも、ゆっくりと優しく話す主治医に俺は何故か安心した。


「はい、大丈夫です。落ち着きました」

俺は四季を離して問いに答える。


「そうですか。我々もこの移植は初めての案件だったので…。慎重にはしたつもりでしたが、想定を超えていました」


「いえ、意識と身体のギャップが激しかったのでつい取り乱してしまいました。すいません」


「とんでもない。人間の心と身体のバランスは歳をとることで安定されていきます。あなたの場合は一度リセットされた状態で、なお心の自分と身体の自分をなくしています」


…失くしたもの、香川 夏姫の心と田島 春樹の身体。ふたつあったものが一つになる。

その上で助けられなかった後悔や懺悔。2人の家族の思いまで背負ってしまい、覚悟していたもの以上のものが精神に負荷を掛けてしまったのだ。


「ですから、今後は徐々に今の自分に慣れていきましょう。日中は人がいるときは姿見を置いていきます。その時間を徐々に増やして心と身体の安定を図っていきます」


「わかりました」


この身体に慣れていく。

人が器であればそれは可能かもしれない。

だが、人は器ではない。

人知を超えた今の俺には今後何が起こるかはわからない。


だが、慣れていくしかないのだ。この身体と生きていくためには…。



それから数日間、自分は今の自分の姿を見つめ続けた。


顔は痩せているがまつ毛が長く目も二重でぱっちりとしていた。鼻筋も通っていて、肌が白い。髪の毛は白くなってはいるが、まだ幼く可愛らしい顔立ちの顔が鏡の向こうに映る。

白髪と相まって神秘的な可愛らしいを醸し出す。


それが自分でなければ嬉しかったのかもしれないが、自分の顔と認識できない顔を見つめる事が最初は苦行だった。

自分ではない人間がこちらを見つめているという認識なのだが、そこに映るのは今の自分だった。


慣れてくると脳が自分だと認識してくれるのだが、その後に湧き上がる後悔が俺を蝕む。夜間は目の前に鏡がなくても、室内に鏡があることすら恐ろしかった。


まるで幽霊の存在を感じるような感覚。


そんな日が数日間続いていったが、そんな中でも四季や香川夫妻、看護師と何げない会話をしながら髪を櫛で梳くいてもらうだけで安心できた。


その支えのおかげで半月後にはようやく精神的な安定をつかむことができ、リハビリを始められるようになった。


…ピノコに負けるな…

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