転職
清水優輝
第1話
男が再現性がないと言ってうれしそうな顔をして戻ってきた。鼻の高い爽やかな男だ。なのにワイシャツがズボンからぺろりと尻尾のように出ている。尻尾取りゲームの感じで私は彼の尻尾を掴んで引っ張った。きついピンクのボクサーパンツが目に入る。
「ちょっと!何するんですか!」とピンクのパンツは喋った。ワイシャツがだらしなくズボンからはみ出ている。
「ワイシャツ出てるよ」
「あんたが出したんでしょうに」ピンクのパンツは、ため息をつきながら服装を整える。
「ワイシャツってさ、なんでこんなすぐ出てきちゃうんだろう」
「確かに。ベルトがあってないんですかね」
男は自分の席に着くとパソコンを開き、先ほどまでの調査結果をまとめ始める。もうすぐ定時のチャイムが鳴る。すでに社内は人が少ない。今日は祝日だからそもそもほとんどの人は出社していないのだ。この男は、先週までに終える仕事がうまくいかなくてずるずると休日出勤をしている。そして私は特に意味もなく彼を監視している。
「ていうか、鈴木さん、噂聞きましたよ」鼻の高い男は画面を見ながら話す。
「どんな?」
「転職するとかしないとか」
男はトラックボールを親指の腹でぐりぐりといじる。さくさくと作業を進めていく。
「なにそれ。誰それ言ったの」
「橋里さん」
「へー。それで、君はどう思ったの」
「いや、鈴木さんにはお世話になったので」
「ので?」
パワーポイントのスライドが資料で埋まっていく。あんなにも下手くそだったドキュメント作成もだいぶましになっていた。タイプミスを指差してバカにすると、ああ~と情けない声を出した。こんなところは変わらない。
「辞めたら寂しいっすね」
「あらあら」
作業が一区切りついたのか、画面から目を離し私の方を向いた。
「え、本当に転職するんすか?」ちょっと、いつもより真剣な顔してる。仕事の話は眠そうな反応するのに。
「ここより条件が良いところがあったらね~」
男はそっかあと大きい溜息をついて口をへの字に歪める。変な顔。たまにやるよね。
「なんで辞めるんですか?とか、これ聞いてもいいっすか?」
「まあ、いいんじゃない。私が本当のこと言うとも限らないけど」
私は意味もなくボールペンのバネを出して、指先で弄ぶ。
「嘘でもいいんで、なんでですか?部長の体臭に耐えられなかったとか?」
「あはは、じゃあ、そういうことで」
「いや、ちょ、まじめに答えてくださいよ〜」
彼のその言葉の最後を伸ばしたときの声をもっと聞きたい、とは言えず、私は話を逸らす。
「ねえ、君はいつ愛する彼女と結婚すんの?」
「今は先輩の話ですよ〜。んー、まあ年内には親に挨拶に行くつもりっす」
男は右手の薬指につけた指輪を撫でる。
「いいねえ〜末長く御幸せに」
「どうも。先輩も良い人生を送ってください」
「言われんでもやってますよ。そのための転職だし」
「そっすよね〜」
そして、彼は本当に寂しくなるなあと独り言のように呟いて作業に戻った。
初めてできた後輩は少しだらしない奴だった。私はまだ自分の仕事に自信がなくて後輩を指導するなんてとても無理だと思っていたのに、上司に無理やり押し付けられた。最初は邪魔だと思った。だれかに仕事を教えることがこわかった。でも、君の穏やかな性質に助けられてなんとか今日までやってこれた。今では良い相棒となれたと思う。君のだめなところも良いところもたくさん見て、つまらない仕事が楽しく思えた。私がだめな先輩じゃなければもっと一緒にやりたかったけど、これ以上私がここにいてもね。やることは全部やった。もうここに留まっていても余計な感情が増えるばかり。だから転職するよ。
と作業をする後輩の背中に語りかける。
私の視線に気付いたのか、彼はこちらを見て、目を見て、笑った。
転職 清水優輝 @shimizu_yuuki7
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます