その③
深夜、みなが
宿舎からこっそりと抜け出し、夜空の下に
リオノーラは念のためにフードつきの
目指すは、
もともとは王妃の要望で
そんな忘れ去られた場所は、密会にはうってつけだった。
緑一色のつる薔薇に覆われた小さな門をくぐって中に入ると、暗い視界の中、真ん中の薔薇群の向こうに小柄な
「シャーリー」
できるだけ
「お姉様!」
夜着にケープを羽織った少女が、夜目でもわかるほど表情を輝かせて駆け寄ってくる。
波打つ金色の髪を
「会いたかったですわ。この日をどんなに待ちわびたことでしょう!」
「わたしもよ。あなたに会えない一週間がとても長く感じるわ。でも元気そうでよかった。何か苦労していることとか、不便をしていることとかない?」
「ありませんわ。ライオネル様も、侍女の方々も、とてもよくしてくださいますの。侍女長はちょっと厳しい方ですけれど、それもわたくしを立派な王太子妃にするためですもの。わたくしのことより、お姉様が心配ですわ。ほら、また手を
リオノーラのあかぎれが浮いた手に目を落として、シャーロットの美貌が
「おおげさね。こんなのは怪我のうちに入らないわ」
「でもっ! 薪割りに竜の水やりまでなさってるんでしょう? 危険ですわ。おまけに
「みんないいひとばかりだから大丈夫よ」
竜騎士たちはみな気がよく、好青年ぞろいだということは既に理解している。少なくとも、レイブラの王宮にいた頃のように彼らを疑う気持ちは
だが、彼らと
「お姉様は
「大丈夫だってば。彼らは信用できるわ。いじめられたりなんてしてないから」
「いじめよりも可愛がられる方が心配なのですわ」
「? どうして?」
「お姉様、ここはレイブラではありませんのよ。もう少し
「もちろん、ちゃんとばれないように気をつけて──」
そう言いかけたとき、背中に何かがちくりと
ただし物理的なものではない。一瞬だが、何者かの鋭い視線を感じた気がしたのだ。
薔薇園内に自分たち以外の誰かがいる。
お姉様、と言いかけたシャーロットの小さな唇に人差し指を押しつける。それだけで、彼女も状況を
笑いかけて安心させてやりたいところだが、目を
(見張りの兵士に見つかった? でもそれなら、暗闇で息を殺して身を潜めたりしないで、声をあげるなり警笛を
いじわるな異母兄に
「……あなたはここで隠れてて。わたしが
優先すべきは当然シャーロットの安全だ。彼女はレイブラとヴァンレインの友好の
「で、でもそれではお姉様が……」
「わたしは大丈夫。いつだって大丈夫だったでしょう? また会いましょう」
シャーロットを
この薔薇園には何度も訪れている。入り口の門を
フードを手で押さえつけ、身を低くしながら走り込み、
肩口を強く掴まれる
背中から
「動けば喉を切り裂く」
覆い被さるようにしてリオノーラを組み伏せた男が、底冷えのする声を発する。
ふと風が吹き、天上を流れる雲間から月が覗いた。
知っている顔だった。ただし、こんなに厳しい表情は見たことがない。
ぞくりと背筋が
「団長さん……」
「ノーラ!?」
ハーヴェイは一瞬にして表情を緩める。頬が
「お姉様から離れなさい! さもなくば、背中に穴をあけて差し上げますっ!」
シャーロットの震える声に目を向ければ、彼女はハーヴェイの背後で護身用の短剣を抜き、その切っ先を広い背中に向けていた。
「だめよ、シャーリー! この人は……」
「……『お姉様』、だあ?」
ハーヴェイのつぶやきにぎょっとした。正体がばれるわけにはいかない。隣国の王女だと露見するくらいならば、変な
「き、聞き間違いですよ! あの、勝手に宿舎を抜け出したことは謝ります。わたし、そう、ちょっと薔薇には一家言ありまして、覗いてみたくなっちゃっただけで……」
「さっさとお姉様から離れなさいって言ってんでしょうが、この変態
「シャーリー
思わず叫び返してしまってから、失言にとどめを刺したのは自分自身だと気がついた。
もはやなんと弁明しても無駄に違いない。
シャーロットに刃を突きつけられても、ハーヴェイほどの騎士ならば
「まあ、説明してくれるっていうんなら聞かせてもらおうかな。ねえ、お姉様?」
もはや頭を抱えるしかなかった。
リオノーラから事情を聞き終えると、ハーヴェイは芝生の上にあぐらをかいた格好でがしがしと頭を掻いた。その表情は
「……つまり、あんたは王太子妃の実の姉で、妹が心配なあまりご隠居を使ってここに潜り込んだと、そう言うんだな?」
「おっしゃるとおりです……」
「突っ込みどころが多すぎやしないか? 元気に薪割りして、
「……普通はそうなのかもしれませんけど、わたしは
「おまけに顔は全然似てないし。本当に
「お姉様の話は間違いありません。この方こそ、わたくしがこの世界でもっとも尊敬するリオノーラお姉様です」
「うーん」
シャーロットの
「そういう団長はどうしてこんな時間にこんなところにいらっしゃったんですか?」
王宮内の見回りは主に王宮騎士団の担当で、当番として交代で参加する竜騎士は数名程度だ。もちろん指揮官である竜騎士団長がみずから
「ライオネル
「まあっ!」
ふらり、とよろめいたシャーロットを、リオノーラは慌てて支えた。妹は傷ついた様子で胸元にすがりついてくる。
「わたくしが
「ひどいわ、シャーリーを疑うなんて!」
「いや疑うでしょ。まさか国に残っているはずの姉貴と密会しているなんて誰が予想するんだよ。妹の後を追いかけて王宮で下働きする王女なんて聞いたことがないよ」
「当たり前です。お姉様は
「シャーリーったら。あなたこそこの世界でたった一人の、かけがえのない存在よ」
「お姉様っ!」
「シャーリーっ!」
手に手を取って見つめ合っていると、はあ、と重たいため息が聞こえてきた。
「あー、あんたらが似たもの姉妹だってことはよくわかったよ」
がしがしと頭を掻いてから、顔を上げる。その表情はひどく困惑し、
「しかし、知ったからには
「えっ……!?」
とたんに背筋を緊張が駆け抜けた。
「当然だろう。異国の王女に王宮への潜入を許していたなんて知れたら、竜騎士団の名折れだ。
「前者はともかくとして、後者ならは大丈夫です。お母様の許可は得ていますし」
「仮に両者納得ずくであっても関係ない。どんな
言いながら、ハーヴェイはゆっくりと腰を上げた。
嫌な予感がして、リオノーラはじりりと座ったまま後じさった。立ち上がりたいが、そんな動きを見せたらきっとその時点で勝負はついてしまう。
いや、それは単に結末をほんの一瞬先延ばしにするだけの
「秘密
「……っ!」
リオノーラが慌てて立ち上がったときには、目の前までハーヴェイの伸ばした手が迫っていた。速い。異母兄の飼っていた
(
と思ったときには、その手は空を切って地面に向かっていた。見れば、ハーヴェイは体勢を崩しており、その足元にはシャーロットがしがみついていた。
「お姉様、逃げて!」
「でもっ……!」
「この者はわたくしには手出しできません! でもお姉様は違います! 早くっ!」
「……っ」
(って、落ち込んでいる場合じゃないわ。足を動かさないと!)
警邏中の兵士に見つからないようにだとか、そういった意識はとっくにどこかへ行ってしまっていた。周囲の状況など
だが、どこへ行けばいいのだろう。
いまさら竜騎士団の雑用係には戻れない。ブライアンの
シャーロットを守りたい。妹の住まう王宮を護る竜騎士団の手伝いがしたい。
なのに、王女の身分が
(どうすれば……)
答えが見つからないうちに正殿の裏が
てっきり頭上を大きな雲でも流れていったのかと思ったが、遅れて届いた
竜の腹、そして長大な
思わず足が止まりかける。
竜は立派な翼を見せつけるように羽ばたかせながら減速していき、リオノーラの前方へとゆっくりと
勇ましい風貌の竜種の中でも特に
「アクセル!? どうやって抜け出して……」
その先は、頭の中に響いた低音に塞がれた。
『人間の娘よ。望むならば、助けてやってもよいぞ』
「えっ……!?」
反射的に耳元を押さえたが、いわゆる
否、一人──もとい一頭だけいた。
大きな翼を持つ存在が、金色の眼差しをまっすぐに向けてきている。
「アクセル……あなたが喋っているの?」
『左様。そなたはここに留まりたいのであろう。ならば方法が一つだけある。我と竜騎士契約を結べばよい』
リオノーラは思い出した。
竜は、契約を結ぶときと破棄するときだけ語りかけてくるという。
「だめよ! あなたには団長と契約してもらわなきゃいけないの!」
アクセルと契約したくて必死に説得を試みるハーヴェイの姿を毎日のように見てきたのだ。どんな事情があろうとも、横から
『無論、ハーヴェイとも契約してやる』
「え、ええ? どういうこと?」
『我らは人間の騎士に
状況が状況だけに、理解するまでに少し時間がかかった。
魔力を提供させられるだけで竜に騎乗する権利は与えられないという、一見すると不平等な条件だ。
だがリオノーラにとっては特別な価値があった。
(契約すれば、アクセルや竜騎士団から離れられなくなる──)
人間に力を貸してくれる竜はどの国でも
「ふざけるなよ、アクセル!」
叱声に目を向ければ、ハーヴェイが後ろから追いかけてきていた。シャーロットを振り切ってきたようだ。竜を睨む眼差しには
「人のことをさんざん振り続けておいて、なんだそのめちゃくちゃな条件は! んな契約がまかり通ると思うなよ!」
『いいや通る。そなたは今朝、我にこう言った。契約してくれるのなら、多少の条件は?むと。これは多少の条件だ。そなたを
「馬鹿げてる! 俺と契約したくないからってノーラを
これだけ叫んでいるのだからそろそろ誰か駆けつけてきそうなものだが、誰も来ない。竜が何か特殊な能力を発揮しているのかもしれない。
アクセルはハーヴェイの抗議を
暗闇の中、金色に輝く異形の両眼が怪しく輝いた。
『さあ、どうする娘よ。我と契約するか。それとも祖国へ帰るか』
「ノーラ、だめだ!」
ハーヴェイの
「早まるな。アクセルは俺に嫌がらせをしているだけなんだ。契約したらあんたの人生が激変しちまう。二度とお姫様に戻れなくなるぞ」
それは別に構わない。王女の身分はとうに捨ててきた。そんなことよりも、シャーロットのそばにいられる方がずっと重要だ。
(でも、わたしが契約したら団長さんが……)
ハーヴェイはアクセルとの一対一の契約をずっと望んでいた。それが叶わなくなる。
「ねえお願い、もう少し考えさせて!」
『待てぬ。じきに〝人払い〟の力が切れる。ハーヴェイが気がかりなら、やつに気を使う必要はない。そなたが契約しないと言うのなら、我はやつとも契約せぬ。永久に』
その言葉が決め手となった。
あまりの言いざまに絶句するハーヴェイを振り切って、声を張りあげる。
「契約するわ! わたしを餌でも供給係でも、なんにでもして!」
『承知した──これにて契約を
「うっ……あ、あれ?」
目を覚ますと、月は再び顔を雲の中に半分ほど隠していた。
ひんやりとした芝の感触で、リオノーラは自分が外で倒れていたことに気づいた。
首をもたげて周囲に目を向けると、少し離れたところでハーヴェイが
いや、そもそも何が起きたのだろう。
(アクセルに契約しろって言われて、契約するって答えて、それから……)
あたりには既に竜の姿はない。
夢か
「痛っ……?」
倒れた
とりあえず
左胸の上部に、短剣に片翼を生やしたようなかたちの
これには見覚えがあった。寝起きで着衣が乱れていたり、鍛錬後に
竜と契約した証である〝片翼の刻印〟。それに
「これって……」
「見せてみろ!」
すかさず駆け寄ってきたハーヴェイが、リオノーラの胸元を覗き込んでうめいた。
「アクセルのやつ、本気でやりやがった……」
「団長さんにも?」
「ああ、俺の胸にもほら、同じものが──」
それからきっかり一秒後、二人は同時に気がついた。
頭を突き合わせて、いったい何をじっくりと観察しているのか。
「────っ!」
身を離し、弾かれるように
リオノーラは慌てて胸元を隠したが、もう何もかも手遅れだ。時間差で訪れた
「……見ましたね……?」
「…………まあ、見たか見てないかと言ったら、見たかな?」
「見たんですね!? ちょっと
「待ってノーラちゃん、
珍しく動揺した様子でハーヴェイは後じさりながら舌を高速で動かしていたが、ふと何かを察して言葉を途切れさせた。頬を一筋の汗が伝い落ちていく。
リオノーラも気がついた。
ハーヴェイのすぐ後ろで、
「変態は
「ヤッテオシマイ」
「おいシャレにならな────っ!」
竜騎士団長が決死の横っ飛びを決めた直後、彼が一瞬前までいた地面に鋭い切っ先が突き立った。
不本意ですが、竜騎士団が過保護です 乙川れい/ビーズログ文庫 @bslog
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