3 混ざる境界線

 悩もうが逃げようが、満月はやってくる。

 カリムにばれないように寮を抜け出したラルスは、満月の日に開放される施設に足を踏み入れる。ラルス以外のワーウルフの姿もちらほらと見えるが、声をかける気力もなくフラフラと専用になっているベッドにもぐりこむ。


 布団を握り締めて小さくなると、ラルスに気づいた他のワーウルフたちが集まってきた。ヴィオとクレアがいないときは、症状が重いラルスを気遣って、誰かしらがラルスの手を握ってくれている。そうすることで少しは楽になるとワーウルフ同士は知っているのだ。


 「あんがと」とラルスは笑みを浮かべたが、相手の表情はくもっている。頭が重く、鈍器で殴られたような痛みが繰り返し襲ってくるせいで、上手く笑えなかったらしい。せっかく手を握ってくれているのに、誰かすらもぼんやりとした頭じゃよく分からないのだから、声を出せただけ上出来なのかもしれない。


 先月よりもひどくないか?

 これ、マズいだろ。番は本当にいないのか?

 アイツだって、片割の。

 もう限界だって。無理矢理でも連れてきた方がよくないか?


 頭の上で声がする。何を言っているのかラルスには分からず、ただ音だけが響く。体が重い、頭が痛い。胸が苦しい。そんな時は目の奥に、ちらちらとオレンジ色の光が見える。何だろうあれは、ヴィオの瞳だろうか。ヴィオがいないから寂しいのか? と考えた所で、オレンジの光は鮮明になり、それがやわらかい髪だと気付く。

 ヴィオの瞳の色を見ると安心した。その意味を理解して、ラルスは苦笑した。嫌いだと繰り返しながら、無意識に自分は求めている。自分だけが欲している。何てバカらしいのだろう。


 「おい、しっかりしろ」という声が聞こえた気がした。それに答える気力もなく、意識がずぶずぶと沈んでいく。

 また、あの悪夢を見るんだろうとラルスは思った。


 夢の中でラルスは走っていた。細く傷だらけの手足で必死に。無理やり引きちぎったせいで手足からは血が出て、ちぎれた鎖がジャラジャラと音を立てる。それに構わず必死に走っていた。


 後ろから声がする。逃げたぞ。追え。殺せと甲高い耳障りな声。その声を耳がひろうたびに、ラルスは必死に足を動かした。

 失敗した。用なしだ。バレる前に処分しろ。

 そう言われた先ほどの声が耳に残っている。ふざけるなと叫ぼうにも、拘束された弱り切った体ではどうにもならない。ならば逃げなければ。逃げて仲間に伝えなければいけない。「人間」は異種族を化け物だと呼ぶが、アイツらの方がよほど狂っている。化け物だと。


 必死に足を動かしながら、ふと、同じ境遇の男の事を思い出した。自分を憎悪の目で見ていた男。あれ以来見てないが、生きているのだろうか。生きていたとしても、すぐに殺されるのだろう。自分のように。

 首元に手を当てる。火傷の後が残っている。これが紋章なのか、ただの火傷後なのかラルスには判断がつかない。片割が死ぬと消えるというが、火傷の後になっているのであれば消えることなく、一生涯残るのだろう。

 生涯どころか、生まれ変わっても。


「嫌だ……」


 それは夢の中の自分の声なのか、ラルス自身の声なのか、もはや分からない。思考は混ざり合って、夢なのか現実なのかも分からない。境界線が混ざり合い、ただ、嫌だという思考だけが体を支配する。


 こんなところで死ぬのは嫌だ。一人で死ぬのは嫌だ。何でこんな目にあわなければいけないんだ。

 進めば進むほど重たくなる足を引きずりながら、何で、何でと繰り返す。もっと普通に生きたかった。幸せでなくてもいいから平穏に。

 誰か助けてくれと叫ぼうとも、誰も助けてくれないことをラルスは知っていた。この後自分がどうなるのかも、過去に見たことがあるかのように分かっていた。けれど認めたくはなくて、あの光景をもう一度見たくなくて、必死に足を前へと進める。


 「いたぞ!」という声が響く。続いて複数の足音。逃げなければ捕まってしまうと分かっているのに、弱り切った足は動かず、もつれ、体は地面へと倒れた。その間にも足音は近づいてくる。耳がいいワーウルフにとって迫りくる足音は恐怖でしかない。這ってでも逃げようとしても体は言うことを聞かない。


「いやだ……」


 瞳から涙がこぼれて、視界が歪む。地面は冷たい。自分を助けてくれる者は誰もいない。誰か、誰かと頭の中で繰り返した時、浮かんでくるのはオレンジ色。それがヴィオではないことをラルスは気付いてしまった。


 足音がすぐ後ろまで迫ってくる。もはや逃げることが出来ないラルスの体へ近づく影。どうあがいても助からないと分かっていても、このまま死ぬなんてことはごめんだと、ラルスは最後の力で影へと飛び掛かった。

 その時、鼻をかすめたのは心地よい匂いだった。


「……り……む?」


 飛び掛かった影は何故かラルスを払いのけなかった。抱きとめるように止まった影にラルスは戸惑うよりもホッとした。ピンチには変わりないのに、何だかとても安らかな気持ちだ。


 影にすりよると温かい。それに良い匂いがする。良く知っている、ずっと求めていたものにラルスは嬉しくなってしっぽを振る。見上げたらオレンジ色の柔らかな髪と透き通った水色が見えた気がしたけれど、ラルスの意識はどんどん遠のいていく。この状況で眠るなど、自殺行為と同じだが不思議と怖くない。むしろ、このまま目覚めなくてもいいと思うほど幸福だった。


 声が降ってくる。


「仕方ない」


 柔らかい声だ。ずっと聞いていたくなる声。よく聞くたびに耳を済ませたら、頭を優しく撫でられた気がした。


「犬の面倒を見るのは飼い主の務めだ」


 犬とは自分のことだろうかと、落ちそうになる意識の中ラルスは考える。犬なんて失礼だが、まあいい。こうして撫でてくれるならいいと、ぬくもりにしがみつく。

 一人はもう嫌だ。だから責任とって面倒見てくれ。

 それが伝わったかは分からなかったけれど、ラルスは久しぶりに幸せな気持ちで眠りに落ちた。

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