2 クレアの夢

 水の中を漂っているようなぼんやりとした意識の中、声を聞いた。出会ってから今まで、ずっと聞いてきたヴィオとクレアの声。頭が回っていない状態でも自然と二人の声に耳を傾けてしまう。


「ヴィオは体調に問題ありませんか? 吸い取る魔力も増えてるでしょう……」

「ラルス一人分くらい、どうってことない」

「そんなこといって……ヴィオに何かあったら私は……」

「大丈夫だ。約束しただろ。お前より先に死なない」

「……約束ですよ……」


 視界は真っ暗だけど二人が寄り添うのが分かった。それが当たり前で、自然なこと。そう思わせるいつも通りの二人の姿。それなのに、どこか悲しく聞こえるのは何故なのか。

 どうしたんだとラルスは声を出して聞きたかった。けれど、口は重たく、目は開かない。ゆっくりと水の底に落ちていく感覚。

 なあ、ヴィオ、クレア。何か心配事があるなら言ってくれ。俺だってお前らの力になりたいんだ。

 そう心の中で訴えても、二人には通じる気配はなく、意識は暗闇の中へと沈んでいった。



 ワーウルフの体質というのは不思議なもので、満月の日は暴れ狂う魔力で辛いのに、次の日になるとスッキリする。ラルスが五年の間番がなくとも何とかなったのは、月に一日だけという区切りがあったからともいえる。


 といっても、だんだんと体に発散しきれていない魔力が溜まっているのはラルスにも分かっていた。満月の日以外でも体が重たい。頭痛やめまいがする。それでもラルスはカリムや先生の前では平静を装い続けた。

 といっても先生には既にバレているだろう。ヴィオとクレアが誤魔化してくれるのにも限界がある。カリムに話がいくのも時間の問題だと思われた。

 小細工がきかなくなってきた。

 ヴィオの言葉を思い出し、ラルスは顔をしかめる。


 沈みそうになった気持ちを切り替えるべく、ラルスは今月もお世話になったベッドの上で背伸びをする。すっかりラルス専用になってしまったベッド。その隣に置かれた椅子と机でクレアが薬を調合していた。

 机の上に置かれた何種類もの薬草。クレアの畑でラルスも一緒に世話をしたものだ。それをすりつぶしたり、煎じたり、乾燥させたりして、薬に変える。ラルスからすると魔法のようで、何度見ても飽きない作業だった。


 細く白いクレアの手が迷いなく動く。初めてラルスのために薬を作った時に比べるとずいぶん手慣れた動き。クレアが将来薬剤師になって人を助ける姿が見えるようだった。


「クレアちゃん、すごい上達したよな」

「この薬は毎月つくってますから」


 にこりとクレアは笑う。しかしその表情はいつもよりも刺々しく、ラルスは気まずさから体を縮こまらせた。耳がぺたんと下に下がり、しっぽが丸くなる。


「ごめんな……」

「……謝るのなら、そろそろ真剣に考えてください」


 クレアの表情が険しくなる。いつも笑っているクレアが怒るのは珍しく、それだけラルスはとても悪いことをしている気持ちになった。

 故郷の両親と姉たちを思い出す。何の問題もないと手紙を送っているが、今のラルスを見たら怒るに違いない。それだけ自分が危険なことをしているのはラルスも分かっていた。


「……どう言ったらいいんだろ……」


 同じワーウルフだったら簡単だった。お互いに番だ。言葉はいらない。けれど、相手が人間。しかも自分を嫌っている人間に、お前は番だから満月の日一緒にいてくれと言って受け入れてもらえるとは思えなかった。


「カリムさんだって今のラルスさんを見て、見捨てるようなことはしませんよ」

「分かってるから嫌なんだよ」


 ラルスは布団をギュッと握り締める。クレアが作っている薬草の匂いが鼻を刺激して、涙腺までもろくしているような気がした。


「アイツ、不愛想だけど優しいから、一緒にいないと俺が死ぬってなったら一緒にいてくれる」

「でしたら……」

「でもそれって、同情だろ! 脅迫みたいなもんだろうが!」


 周囲の視線が集まるのが分かったが、ラルスは声を抑えることができなかった。


「お前が一緒にいなきゃ相手が死ぬって言われたら、一緒にいるだろ。見殺しにするほど薄情な奴じゃねえし。でもそれって、アイツの意思を無視してるようなもんじゃねえか。一度でおしまいじゃねえし、毎月、これからずっと、アイツの世話になり続けなきゃいけねえ。アイツの意思を無視しなきゃいけねえ。学院卒業したらどうすんだよ。満月の日のためだけに、アイツに一緒にいてくれっていうのか?」

「ラルスさん……」


 いつのまにか目から涙が零れ落ちていた。大粒の涙が頬を伝って、布団にいくつものシミを作る。涙をぬぐおうと手を動かすと、クレアがそっとその手をとめた。ラルスの両手を握り締めてじっとラルスの瞳をのぞき込む。

 ヴィオの燃えるようなオレンジ色とは違う。静かで優しい紫色の瞳がラルスを見つめる。


「すみません。身勝手なことをいいました」

「……クレアちゃん悪くないし……俺のこと心配してくれたのに、俺の方こそごめん……」

「ラルスさんが謝ることじゃないんですよ。私が軽率だったんです。誰かを頼らなければ生きられない自分のふがいなさも、悪くなっていく体調への不安も、先が見えないことへの恐怖も……私は分かっているはずなのに……」

「クレアちゃん?」


 クレアはラルスの手をぎゅっと握り締めて、片方の手でラルスの涙をぬぐう。クレアの体が近づいた時、鼻をかすめたのは薬草の匂い。それに少しだけ不穏な香りが混ざっていて、ラルスは顔をしかめた。


「クレアちゃん、体調悪い? 俺の世話ずっとしててくれたから?」


 今度はラルスがクレアの手を握り返して、顔を覗き込んだ。クレアは驚いた顔で目を丸くしたが、その顔色が少し青白い気がする。うなされるラルスを放っておけず一晩中見て居てくれたのか。


「……少し無理をしすぎてしまったかもしれません」

「体強くないんだろ? 俺は丈夫だし、ほっといたって死なないって」

「今の状態では全く説得力ないんですが……」

「……ごめんなさい」


 クレアに言い返す言葉がなく、ラルスは下を向いた。そもそも無理をさせる原因は自分だと思えば、何から謝ればいいのか分からない。これ以上ないほどに下を向いた耳としっぽを見て、クレアはクスクスと笑う。


「私もラルスさんも他人に気遣いすぎのようですね。もっと自分を大切にしないと」


 クレアはそう言って笑うと、握り締めたラルスの手を優しく撫でる。何だかくすぐったい気持ちになってクレアを見ると、クレアはラルスの手を撫でながら、どこか遠くを見ていた。


「私、昔から植物が好きなんです。植物って強いでしょう? あんなに小さく頼りなく見える花だって、大雨が降っても、強風が吹いても、雪で地面が覆われても、必ず咲くんです。小さな種から芽が生えて、枝が伸びて、いずれは大樹になる。人が想像できないような長い時間を生きるんです」


 「すごいでしょう」とクレアは笑う。子供のような無邪気な表情は、薬草を世話しているクレアがよく見せるもの。楽しそうな顔を見ているとラルスは自然と嬉しくなって、しっぽが小さく揺れる。


「私、小さい頃は今よりも体が弱くて、ベッドで過ごすことが多かったんです。寒い冬も春の温かさも、夏の暑さも、秋の涼しさも私は分からなくて……。そんな私に季節を教えてくれたのは窓から見える草木でした」


 野山を駆け巡っていたラルスは全身で季節を感じていた。風や日の光、水の音、動き回る動物たちの声、揺れる木々。全てがラルスに春や夏、秋や冬の訪れを教えてくれた。

 けれどクレアにとっての季節の変化は、全て窓の向こう側。体が弱いからと押し込められたベッドの上にしか、クレアの世界はなかったのだ。


「育ててみたいと、小さな種をもらって植木鉢に花を植えたんです。最初は失敗もしました。水を上げすぎてしまったり、上手く世話を出来なかったり。でも、何度か繰り返しているうちに綺麗な花が咲いた。それを見て、私は嬉しかったんです。誰かに助けてもらわなければ生きられないような私でも、花を、小さな命を育てて守ることができるんだと。

 それから私は植物について沢山勉強しました。そして薬師という仕事を知って、いつか自分も大好きな植物の力を借りて、誰かを助けられるような人間になりたい。そう思ったんです」


 笑うクレアを見てラルスは花のようだと思った。高い崖の上にひっそりと咲く花。周囲を岩に覆われていても、風が吹いても、凛として日の方向を向き、孤高に美しく咲く花。


「クレアちゃんなら、なれるよ。いや、なってるな! 俺助けてもらってるし。きっとこれから、もっとたくさんの人を助ける、すごい薬師になる!」


 学院を卒業した自分がどんな風に生きているのか。どんな風に生きたいのか。ラルスには全く想像できなかった。無事に卒業できるのかも正直不安だ。未来なんて想像する余裕なんてない。


 それでも、クレアの未来は想像できた。今みたいに優しい笑顔を浮かべて、多くの人に囲まれて、隣にはヴィオがいて、薬を作って沢山の人を救う。きっと何年かたったら、腕のいい薬師として王都内。もしかしたら「人の国」に名をはせるような立派な大人になっているかもしれない。


 そうしたらラルスは自慢する。クレアと自分は友達で、クレアに一番最初に治療してもらったのは自分なんだと。そう周囲に語って聞かせる自分を想像したら、ラルスは少しだけ頑張ってみようという気持ちになった。クレアが立派な大人になる未来を見れるように。少しだけ、勇気を出してみようかなと。


「……私はラルスさんを助けられましたか……?」


 ラルスが一人想像で盛り上がっていると、か細いクレアの声が届いた。なぜかクレアは泣きそうな顔でラルスを見つめている。いつも穏やかで、それでいて強く凛としたクレアらしからぬ弱々しい表情にラルスは面食らった。


「クレアちゃんがいなかったら俺は今も生きてるか分かんないくらいだぞ? クレアちゃんは俺の命の恩人」


 ラルスの言葉にクレアは一層泣きそうな顔をした。涙がこぼれそうになるのを必死でこらえている姿にラルスは焦る。何かマズい事をいってしまったのだろうかと慌てるが、クレアは下を向いて黙り込んでいる。震える方は泣いているのか、泣くのをこらえるためなのか。


「クレアちゃん……?」

 心配になってクレアの顔を覗き込もうと、ラルスが顔を近づけた所で、


「ラルス……?」

 地獄の底から響くような低い声が聞こえた。


「うひぁあ!?」


 悲鳴とともにラルスは慌ててクレアから距離を取り、ベッドの隅へと逃げる。重苦しいプレッシャーを放つ方を見れば、本気の目をしたヴィオが桶片手にラルスを睨みつけていた。前にもこんなことがあったとラルスは昔を思い出す。


 クレアとヴィオと会って間もない頃。初めてクレアとまともに話した日もこんな風にクレアに不用意に近づいて、ヴィオの逆鱗に触れたのだ。

 あの頃に比べるとヴィオは大きくなった。身長はラルスが抜いてしまったが、細身にしては鍛え抜かれた体。迫力をました眼光。上位種のプレッシャーも以前よりも感じるようになった。

 自分も大きくなっているはずなのに、幼い頃に感じたものよりもさらに大きな重圧にラルスは震えあがる。


 ヴィオはラルスを睨みつけたまま、乱暴に桶を机の上に置く。勢いあまって桶から水がこぼれたが、そんなことを言える空気ではない。クレアの隣にひざまずいたヴィオはクレアの顔をのぞき込む。


「クレア、何があった?」

「……ヴィオ……私……」


 クレアの声は震えていた。続いて顔をあげたクレアの両目にはこぼれそうなほど涙がたまっていて、初めて見る表情にラルスは息をのむ。


「救えました……夢かないました……。ラルスさんが叶えてくださいました……」


 その言葉にヴィオは目を見開いた。なぜかヴィオの方も泣きそうな顔をして、クレアの頭を撫でた。ヴィオがクレアの頭を胸に抱きしめて「良かったな」と背を撫でる。仲睦まじい二人が見せる、美しい姿にラルスは恐怖を忘れて見入った。

 これが異種双子だと改めて思った。二人で一人。共にいるのが当然。離れたら生きていけない。これが理想の姿だ。そう思えば思うほど、理想との違いに胸が張り裂けそうになる。


「……ラルス、悪かった。クレアによくしてもらったのに」

「……日頃よくしてもらってんの俺の方だし……」


 無理やり笑みを作って笑う。羨ましいって本音が漏れないように。

 それでもヴィオには伝わってしまったのだろうか、眉をよせ、じっとラルスを見る。


「ヴィオ……」


 腹の中まで覗かれそうな視線に居心地が悪くなったころ、落ち着いたらしいクレアちゃんがヴィオを呼んだ。ヴィオは何を言われたわけでもないのに、自然とクレアの口元へ耳を寄せる。小声で何かをいったクレアに、頷くヴィオ。当たり前に意思疎通が取れている二人にラルスは何だか居心地が悪くなって、ベッドの隅で丸くなる。


 そろそろ体調も落ち着いたし、いなくなってもいいだろうか。

 ここまで面倒見てもらって、「じゃあ」っていなくなるのは礼儀がなさ過ぎるかとぐるぐる考えていると、ヴィオがラルスに向きなおった。


「ラルス、それが本音なら、どうにかなる」

「……何が……?」


 本気で意味が分からずに首をかしげるラルスを見て、ヴィオは不敵な笑みを浮かべるだけ。ヴィオにくっついたままのクレアは晴れやかな笑顔を浮かべている。何だか二人とも楽しそうだが、ラルスには全く意味が分からない。


「来月が楽しみだな」

「だから、何が?」


 出会って七年目。全てを理解したとは言えないが、ここまで意味不明なのは初めてだった。

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