第一話 食欲

 アイスクリームを片手に歩く女子高生。ファストフードの紙袋を下げたサラリーマン。お菓子を大事そうに握る男児。街にあふれる様々な食べ物。人々はそれを嬉しそうに頬張る。次から次へと口へ運ぶ。メニューを見て美味しそうだと笑う。美味しいねと語り合う。そんな日常がもう私には訪れないと分かっていた。それでも、あの日常を味わいたかった。腹を括って買った人気のドリンクを、私は口にした途端吐き出してしまった。勿論、人気のないところまで移動して。店の前で吐けば汚いだの営業妨害だの言われかねない。私は薄暗い公園の公衆トイレの白く濁った鏡を見た。酷くやつれた私の顔は何とも滑稽だ。もう何日もろくに食事を摂っていない。空腹感はさほどない。慣れてしまったと言った方が正しいのかもしれない。水道水で口を濯ぎ顔を洗う。やつれ具合は全く変わっていないが、汚くはなくなっただろう。買った状態と殆ど変わらないカップをごみ箱に捨て、公園を後にした。

 空腹感は薄いものの、食欲がないわけでも食べ物に魅力を感じないわけでもない。何故か体がそれを拒絶する。「こんな下賤なもの取り込めるか」と強情に押し返すのだ。まずいとは感じない。そもそも味を楽しむ前に吐き出してしまう。どうしてこんな体になったかは自分で分かっている。もう取り返しはつかないのだろう。虚ろな目で街を見渡す。色とりどりな食べ物が視界に飛び込む。美味しそう。でも食べる気にならない。何かが足りない、そう感じてしまう。

(お腹、空いてるのかな)

 ぼーっとそんなことを考えながら歩いていると、向かいから歩いてきた人にぶつかった。私はよろけて、足がもつれて転んでしまった。

「だ、大丈夫⁈ ごめんね!」

 手を差し出してきたのは大学生くらいの男だった。焦げ茶色の髪で、カジュアルな服装。どこにでもいる普通の大学生の風貌だ。私はその男の手を取り、引かれるままに立ち上がった。男は私の体を見渡して「怪我はない?」と尋ねた。痛みはないので頷いた。男はほっと胸を撫で下ろした。私は会釈をして立ち去ろうとした。すると、男が私の手首を掴んだ。

「待って、何かお詫びをさせて。怪我をしてないとはいえ、転ばせてしまったし。それに……」

 振り向くと、男は少し渋る顔で続けた。

「君、ここ最近何も食べてないんじゃない? 顔色も悪いし、手首もすごく細い。何て言うか、病的に痩せてる感じ」

 男は申し訳なさそうに私を見つめる。私は静かに頷く。

「じゃあ、何か奢るよ。食欲ある? 何か食べたいものある?」

「……ない」

「え?」

「食欲がないわけじゃない。でも、どれも、食べたいと思えない」

 私は思っていることをそのまま話した。隠すことでもない。男は首を傾げたが、少し考えて頷いた。

「それなら、僕んちに来ない? 僕大学で栄養系の勉強してるんだ。もしかしたら何か食べたいと思えるものが用意できるかもしれない」

 男は嬉しそうにそういった。正直とても気になった。もしかすると、また以前のように食事を楽しむことができるかもしれない。かつて家族や友達とそうしたように、食べ物を囲んで笑えるかもしれない。私は頷いた。すると男はにっこりと笑った。私は男についていくことにした。


 家に着くと男はキッチンへと向かった。冷蔵庫を開け、ペットボトルを取り出した。

「取り敢えず飲みなよ。少しは気分もよくなると思うよ」

 差し出されたコップの水を少しずつ飲んだ。男はキッチンに行こうとはせず、ずっと私を見つめていた。少し不審に思うが、気にしなかった。頭がぼーっとして考えられなかった。水を飲み干すころには眠気と目眩で意識を保つのに必死だった。

「大丈夫? ベッ……少し休ん……?」

 男の言葉も途切れ途切れにしか聞こえない。朦朧とする意識の中、立ち上がらされ、どこかに移動させられている感覚はあった。柔らかいところに寝かせられ、上に何かが覆いかぶさる。それはおそらく毛布ではない。無理矢理目をこじ開けると、男はが私の顔を見つめていた。男の手が私の服の襟を掴む。襲われる。何とか抵抗したいが、体が思うように動かない。男の手が私の体に触れる。気持ち悪い。逃げたい。抵抗しないと。方法を考えようにも、靄がかかったように頭がはっきりしない。どうしよう、どうしよう……

(お腹、空いたな)


 目を覚ますと、部屋は暗くなっていた。カーテンを開けると外は真っ暗になっていた。視界も頭もはっきりしている。ここ最近で最も調子がいいかもしれない。うーんと伸びをする。体が軽い。自分がいる場所がどこか思い出そうとした。

「あの男は……」

 暗い部屋を見渡すが、男の姿はない。暗がりの中、手探りで電気のスイッチを探す。途中何かを蹴飛ばした。棒状のそれは暗くてよく見えない。ようやく見つけて電気をつけると、その部屋の異様さが分かった。その部屋は真っ赤に染まっており、いくつか何かの塊が落ちている。私はさっき拾ったものに目をやった。それは明らかに骨だった。転がっているものはおそらく臓器だろう。

改めて理解した。私はもう二度と以前のような食事は楽しめない。流行りのデザートや人気のランチや変なお菓子じゃ物足りない。血が足りない。人間の血が。何故人間を食べるようになったか自分でも思い出せない。ある時、突然不気味な空腹感に襲われた。私はその食欲を抑えられなかった。親も食べた。兄弟も食べた。友達もクラスメイトも先生も近所のおばちゃんも。初めはとても怖くなった。人を殺めてしまった。罪の意識にさいなまれたが、あることに気付いた。なにも可笑しなことはないと。人間はたくさんの命を殺め、食して生きている。それが罪だと知りながらそうしてしか生きられない。命を貪るしかないのだ。だから私のこの食事も


罪ではない。


そう考えると、人間の血肉が欲しくて仕方がなくなった。他のものはいらない。食べたくない。人の味じゃなければ嫌だ。そんな欲が私を支配した。罪の意識よりも満足感の方が強くなったのはいつごろからだろうか。

いつも通り手早く処理を終え、男の部屋を後にした。マンションの五階から螺旋階段で下る。エレベーターでは監視カメラに映ってしまう。こんなことに成れている、平気でやっている。私は悪人だ、凶悪だ、サイコパスだ、狂っている。

そうわかっていても、この味を求めずにはいられなかった。

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変食 月満輝 @mituki_moon

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