結合双生(身体知篇Ⅰ)_2017作

トーリック.V チャイカ

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『結合双生』

トーリック.V チャイカ



  0 周縁知


■科学界の二大巨頭、意識に関する新論文を執筆

[#地付き]ノイエス・ドイッチュラント《ドイツ民主共和国》新聞 科学コラムより(二〇二〇年二月三日付)


 皆さんは量子脳理論をご存じだろうか?


 人間の意識現象を量子力学で説明しようとする科学理論の一つだ。

 我々の生体活動は、化学や古典物理学に則った科学式で記述できると知られている。例えば、あなたが一人娘の愛らしい笑顔を見た時、脳内でチロシンが水酸化しやがては快楽物質ドーパミンになる。その過程は化学式を用いれば簡単に記述することができる。また、ドーパミンにより連絡されるニューロン間の信号伝達の過程も、その速さや量や位置について古典的な物理式で記述することができる。つまり、人間のあらゆる生体活動は、それが例え喜びや或いは悲しみといったエモーショナルな活動であっても合理的に説明可能なのだ。その意味で科学とは我々人間の実態を解き明かしもしたが、一方でその実存を矮小な数式にまで貶めてしまったことも確かだろう。一七世紀にイタリアでガリレオ・ガリレイが「それでも地球は回っている」と地球を宇宙の中心から引きずりおろし、一九世紀にイギリスでチャールズ・ダーウィンが「人は猿から進化した」と人間を神の子の座から引きずり降ろした。人間が事実を手に入れる代わりに尊厳を失ったというのであれば、彼等科学者が当時の人々に強く非難されたことも一部頷ける。科学時代以前の宗教界から見れば、悪魔的だったとさえ言えるだろう。

 しかし、今日の科学者の試みは必ずしも人間から尊厳を奪うだけのものとは限らない。ある側面では、科学による事実の解明が進むほどに神秘のフロンティアが拡大しているようにも見えるのだ。

 例えば〝意識〟という事態がそうだ。

 我々は皆、人間には意識が存在していると思っている。だが、それは必ずしも科学で証明された事実とは言えない。

 どういうことか?

 前段で出しぬけに要約したとおり、脳内での感情の喚起やその他の生体活動については既に多くのことが説明可能であり、諸々の科学分野でさまざまな記述方法が編み出されている。しかし、あなたが赤いりんごを目視した時のことを考えてみて欲しい。恐らく、その科学的な説明は次のようなものと考えるだろう。

 ①あなたは赤いりんごに視線を向ける。②赤色を表す光波こうはが速度と量と位置を有してあなたの網膜もうまくにぶつかる。③あなたの網膜もうまくはその入力を電気パルスに変換し物理量を有した信号として脳に伝達する。④脳では視覚野しかくやのニューロン網に電位情報が駆け巡る。【かくして、】⑤あなたに赤いりんごが見えるという意識が芽生えた。――めでたしめでたし……とはならないのだ。

 この演繹えんえき的記述には一つだけ問題がある。最後から二つ目の文脈「④脳では視覚野しかくやのニューロン網に電位情報が駆け巡る」と、最後の文脈「⑤あなたに赤いりんごが見えるという意識が芽生えた」の間を説明する科学的記述は今のところ全く不可能なのだ。④と⑤を繋ぐ【かくして、】の接続詞は文系的には意味が通じても、理系的には何の根拠もないただの記号の羅列なのだ。脳内のニューロンに電気パルスが走ったところで、なぜ、あなたの意識なる心象世界にあの赤々と瑞々しい質感クオリアのりんごが浮かび上がるのかは客観的には――つまるところ科学的には一切説明できない。

 これが二一世紀初頭から盛んに議論されてきた、通称「意識のハードプロブレム」とか「クオリア問題」という意識に関する有名な命題だ。科学者が究極の理性で事実を追求した結果、神秘だけが浮き彫りになっていくという今日的な科学問題の象徴なのだ。今や、科学者が述べる言葉は中世の宗教者の言葉に勝るとも劣らない神秘主義的な含みと妖しさを纏わざるをえない。

 しかし、腐っても科学は科学だ。

 この究極ともいえる意識の難問に物理学をもって真っ向から立ち向かう科学界の二人の巨人がいる。

 ロジャー・ペンローズ博士とスティーヴン・ホーキング博士だ。

 皆さんも、一度は二人の名前を聞いたことがあるだろう。言うまでもなく彼等こそが、あの有名な「事象の地平面イベント・ホライゾン」の提唱者だ(二人が証明したブラックホールの特異点定理に基づけば、ブラックホールの周囲には、一定以上近づくと、二度とこの宇宙に帰還不能となる限界領域があるとされ、この限界領域を事象の地平面イベント・ホライゾンとよぶ)。

 この功績含め一九六〇年代には既に宇宙物理学の分野で栄華をきわめていたペンローズとホーキングだが、それから半世紀以上が経った二〇二〇年の今日、二人は新たに〝意識〟について共同研究を行っているというのだ。

 ベースとなる理論は、過去にペンローズが麻酔科医スチュワート・ハメロフと提唱した「Orch-OR理論統合された客観収縮理論(Orchestrated Objective Reduction Theory)」だ。一般には、一九八九年にペンローズが出版した「皇帝の新しい心」以降の著書によって知られることとなった「量子脳理論」のことだ。

 この理論は、人間の意識という事態が量子力学的な過程でこそ生じるものであると提唱する。脳細胞やニューロンというマクロな器官ではなく、その内部に遍在する「微小管びしょうかん(Tublin)」とよばれるミクロの窪みの中に意識が宿るというのだ。……筆者のようなサイエンスライターの端くれでは理解できない内容だが、共同研究者である麻酔科医ハメロフによる説明を紐解けば少しだけそのイメージを捉えることができる。

 ハメロフは量子脳理論の根拠として麻酔のメカニズムを挙げる。

 臨床の場で用いられる全身麻酔は、特定の分子が呼吸器から吸入されることで被施術者の意識のみを消失させる。臨床の場では欠かすことのできないこの麻酔なのだが、実のところ、それがなぜ効くのかはいまだにわかっていない。小難しく言えば、あらゆる生体活動を殺さずに意識だけを選択的に奪うという芸当を記述する科学式はないということだ。使ってみたら効果があったので使い続けているといった、至極臨床的な方法であると言ってもいい。

 だが、ある時、ハメロフはこの麻酔について臨床科医らしくなく、その原理やメカニズムへの思索を巡らした。――そして、ある事実に気がついた。どうやら、麻酔を吸入した被施術者の脳では、麻酔成分のミクロな分子が、微小管というミクロな器官にぴたりと嵌まり込んでいるらしい。つまり、麻酔が脳活動そのものを停止させることなく意識のみを消失しえる理由は、それが生体活動全般に影響するマクロな単位で古典物理学的に作用しているからではなく、微小管というミクロな単位で量子力学的に作用しているからだと発想したのだ。

 ここで再度、微小管について説明をしておく。

 微小管はニューロンその他の細胞内に存在する管状の構造物だ。細胞内部に空いた小さな穴のようなものだと想像してもらってかまわない。ただし、その穴は直径二五ナノメートルという極小サイズで、通常では起こり得ない量子過程が現象化する特異な器官なのだ。量子過程については紙面の都合上詳しくは説明できないが、理系の読者の皆さんには〝波動関数〟が適用される過程と言えば伝わるだろう。理系ではない読者の皆さんには、とりあえずのところ〝お化けの世界の話〟が現実に起こる過程とでも言っておこう。これは比喩でもなんでもなくそうなのである。ミクロな系の量子の世界では、一つの粒子が、ここにも、そこにも、あそこにも〝可能性の波〟として同時に存在するという現象が生じる。これをマクロな世界に当て嵌めるのなら、大リーガーが放った第一球がストレートの軌道、カーブの軌道、シンカーの軌道を同時に描くという摩訶不思議な現象が生じるということなのである。日常感覚では了解しかねるこの現象の解釈においては、例えばエヴェレットの多世界解釈などを採用し、この宇宙はパラレルワールドである(ボールを投げた瞬間に、世界そのものが分裂し、ストレートでストライクになった世界あるいはカーブでボールになった世界、また、その他の無限の可能世界に分裂している)ということさえ真剣に議論されたりするのだ。

 とにかく、このようなお化けの世界の話が現実として生じている過程こそが量子過程だ。そして、ハメロフは、そのような過程こそが人間の意識を何らかの形で生成しているのだと考えた。ペンローズもこれに同調し、既存の科学では捉えられないまさにお化けのような意識の生成の場とは、同じくお化けのような振る舞いを見せる量子的器官――微小管なのだと提唱したのだ。

 これがペンローズとハメロフが二〇世紀に提唱した量子脳理論の骨子だ。近年では、この理論を拡張し、意識現象とは、通常の物理学では捉えることの難しい魂のようなもの(意識素粒子と呼ぶ学者もいる)が存在し、それが微小管に嵌まり込むことで生じると唱える向きすらある。量子脳理論とは正にお化け理論なのだ。無論、批判も多々あり、実証にはまだまだ遠い仮説ではあるのだが、ここにきてあのホーキングがこの量子脳理論についての研究をペンローズと共に着手したのだ。

 ――ホーキングの量子脳理論への傾倒の経緯は興味深い。

 ホーキングは一九九〇年代にはペンローズの量子脳理論に関する著書への寄稿を行ってはいたものの、本筋の宇宙物理から離れることはなく、意識の研究とは一定の距離をとっていた。しかし、二〇一八年の春、ホーキングは自身の患う難病「筋萎縮症候群」の進行で一時的に危篤状態に陥った。奇跡的に生還したホーキングはその際にいわゆる「臨死体験」をしたという。それだけでも驚きなのだが、ホーキングの臨死体験は少々特異なものだった。

 ホーキングは臨床的に危篤状態とされていた間、他の並行宇宙(パラレルワールド)に生きる、もう一人のホーキングとしての人生を体験したのだという。その宇宙では、今日我々の世界が直面する東側諸国と西側諸国の三次大戦は起きていなかった。さらには、我らが共産主義あるいは社会主義は衰退し、資本主義と自由主義が全盛を迎え、大戦ではなくグローバル化こそ世界が直面する最重要課題であったのだという。ホーキングは世界各国にコカ・コーラとマクドナルドのハンバーガーの広告が溢れかえるという異様な光景を目にしてきたのだ。さらに興味深いことに、その世界でのホーキングは二〇一八年の春、くだんの危篤の際に亡くなってしまったのだという。自らの死さえ体験してしまうとはなんとも特異な臨死体験だ。

 ホーキングはこの体験以降、直前まで手をつけていた宇宙物理の研究を放り出し、急速に量子脳理論にのめり込み始めた。いわく、臨死体験の中で、自らの意識素粒子のようなもの(魂と比喩してもよいだろう)が、時空の壁を越え、並行宇宙の別の自分の微小管に宿ったように実感されたのだとか。さらには、それは妄想などでなく物理学的な事実に基づく真実の体験であったとしか思えないとさえ述べている。そんな報告を引っ提げて共同研究を持ち掛けられたペンローズも度肝を抜かれたに違いない。

 とにかく、今日、意識という難問の前に二人の偉大な科学者が量子力学をもって立ち向かおうとしているのだ。そしてその言わんとするところは、意識はニューロン製の電気回路のような機械的仕組みで発生するものではなく、まさに魂がその座を求めて並行宇宙すら越境し微小管なる魂の座に憑依することで発生するというのだから現代科学はやはり神秘的だという他にないだろう。彼等が西側諸国の科学者だとは言え、今日の三次大戦は新戦時国際法が示すとおり、野蛮で秩序なき旧大戦とは違う。一人の人間として、是非とも今後の二大巨頭の探究を見届けたいものだ。


 ここで筆者の余談。

 筆者は先日テレビである双子を追ったドキュメンタリー番組を視聴した。その双子は所いわゆる「結合双生児けつごうそうせいじ」だった。結合双生児とは身体が結合した状態で生まれてくる双子のことで、一つの身体器官を二人で共有していることがままある(例えば一つの心臓を二人で共有しているなどだ)。この双子の場合、頭部が癒着しており、どうやら一つの脳部位を完全に共有しているらしい。双子のうちの片方が思考したり考えたりしたことをもう片方も感じとることができるのだそうだ。そこでふと、量子脳理論のことを想起しながら思った。


 ――[#傍点]もし[#傍点終わり]、[#傍点]一つの微小管を二人で共有する結合双生児が生まれたのなら彼等は何を分かち合うのだろう[#傍点終わり]、と。


  1 


 ヨハンを産んだのは一年前のことだった。ちょうど私が三〇歳の誕生月を迎えたときだ。

 私は妊娠したことが分かると、夫となるヨーゼフと一緒に急いで結婚式の準備を進め、どうにか出産前に挙式を間に合わせた。私より一〇歳年上でドイツ社会主義統一党の政治局員を務めるヨーゼフとしては世間体がやたらと気になったらしく、いつになく手際よく準備を進めてくれた。

 妊娠がわかった三カ月後の二〇一八年八月。雲一つないベルリン市の青空の下、純白のウエディングドレスが乾いた風に靡いた。眩しくて細めた視界に乳白色の透過光が滲み、やがて空に撒かれた花びらが辺りをパステル色に染め上げた。ゆっくりとしたリズムで鳴らされる鐘は澄み渡った残響を重ねながら、徐々に繊細な空気の揺れとなって、小さな式場からコンクリートの建物が立ち並ぶ市街の彼方へ消えていった。あとには参列者の声がクラッカーのように四方で明るく弾け、私とヨーゼフを祝福した。人生で最も幸せな瞬間だった。

 式を終えるとさっそく出産の準備に移った。党が手配した産婦人科で出産についての知識を学び、呼吸法などのトレーニングをしながら、来るべき日にそなえた。

 だが、予定日が近づくたびに私は胸のうちに予想外の不安を覚えるようになっていた。もちろん、母になることに怖気づいていたことは確かだが、妊婦なら誰もが抱くその不安を引いたとしても、別の不安が燻っていた……。


 ある晩のことだった。

 その日、ヨーゼフは党本部での仕事を早々に切り上げ、夜七時を回る頃には家に帰ってきた。ヨーゼフは玄関でコートを脱ぐと、右手にさげた紙袋の中から二本の赤ワインとブルーチーズの包みを取り出し私に手渡した。私は暖炉に火を点けると、でき合えのサラダとカリーブルストを木テーブルに並べ、二つのグラスにワインを注いだ。

「ララはどんな名前を考えてる?」

 ヨーゼフはフォークに突き刺したピクルスを口に運び、咀嚼しながら言った。

「そうね。男の子ならヨハンがいいわ。朝の市街を散歩していたとき、直感で思いついたの。理由があるわけじゃないんだけど、なにか心に引っかかる響きを感じたの」

 私はテーブル越しにヨーゼフの目を見つめながらそう言った。

「ヨセフ……〝ヨセフ・シュトルム〟か。男らしい響きでいいじゃないか。それに僕の名前に似ているのが一番いい点だ」

「あなたったら」

 私は悪戯っぽく笑うヨーゼフに呆れたような素振りを見せ、すぐに小さく微笑み返した。ヨーゼフは四〇歳にもなる男だったが、時折、口元に髭を生やしたもの難しそうな顔が青年のような笑顔に変わる。それを見るたびに、私達は年齢こそ離れているものの精神的にはどこかで良いバランスが保たれているのだと思えた。

「ところで、もし女の子だったらどんな名前を考えてる?」

「そうね……」

 私は右手に摘まみ上げていたチーズを皿に戻しながらしばし考え込んだ風にして言った。

「実はいい名前が思いつかないの」

「なぜだい?」

 ヨーゼフがきょとりとした表情でうつむいた私の顔を覗き込んだ。

「正直、女の子が生まれてくることはあまり考えていないの」

 そう言うと、ヨーゼフはなおさら不思議そうに私を見つめた。

「それは初耳だ。――ララは女の子は嫌なのかい?」

 ヨーゼフは不安そうな声で静かに問うた。私はすぐには答えなかった。沈黙を埋めるように食卓には暖炉の中で薪がパチパチと弾ける音が響いた。いつしか暖まり始めていた空気が鼻腔に抜けていくのを感じていた。

 私は俯いた視線を上げて言った。

「嫌なわけじゃないのよ。でも、どうしてかしら……。女の子が生まれてくると思って名前を考えると、いつも真っ先に妹の名前が浮かんでしまうのよ」

 私は秘め事をつまびらかにするときの自信のない声でそう言った。

「ルルさんのことか……」

 ヨーゼフは小さく溜息をつくと続けた。

「でも、ララ。妹のルルさんはそもそも生まれてもいないんだ。君がなにか気に病んだり考え込む理由が僕にはわからない」

「――別に悩んでいるわけじゃないわ」

 そう言って私はまたしばし沈黙した。

 私には妹がいた――というよりいるはずだった。

 一九八九年にこのドイツ民主共和国――通称、東ドイツで生を受けるほんの数カ月前まで、私は母の子宮の中で双子の妹ルルと一緒にいた。母が妊娠して間もない頃の検査では確かに双子の胎児の影がエコー写真に写っていたという。後年、私もその写真を何度か見せてもらったことがあった。白く縁どられたモノクロの写真の中に、なにかもやもやとした黒い塊が二つ並んでいた。当時一〇代にも満たない私には、その胎児の姿は不気味な〝影〟としてしか印象に残らなかった。また、母は双子が生まれることがわかった段階で、もしそれが姉妹なら、姉にはララ、妹にはルルと名付けることを決めていたとも話してくれた。

 だが、実際に母の子宮から産まれて来たのは姉のララ――この私だけだった。

 医学的には「消える双子バニシング・ツイン」とよばれる稀な現象だった。さらに私たちの場合、重ねて特殊な所見もあった。どうやら、妊娠初期の段階で私とルルは頭部の一部が結合していたのだという。始まりは結合双生児という状態だったのだ。それがいつしか結合が進み片方が片方の身体を完全に取り込んでしまうタイプの「消える双子バニシング・ツイン」現象が起きたのだった。そのようなタイプで生まれた子には、後年、病院のレントゲン撮影などで体内に取り込んだ双子の身体が発見される例もあるのだという。今のところ、私の身体にもう一人の双子の影が見つかったことはなく、また、母が流産らしき経験をしなかったこともない。まるで影のように消えてしまったのだ。

 だから、私は姉のララとして生きてはいるが、実のところ妹のルルだったのかもしれないと思うことがあった。どちらがどちらを取り込んだのか、そもそも、取り込んでいるのかはもうわかりようがない。ただ単に最初に母から産まれて来たのがこの私だったから、私がララという姉の名を授けられたに過ぎない。――しかし、当然だが、最後に生まれて来たのもやはりこの私なのだ。初めから頭部が結合し一つだったはずの私たちは今も結合しているのか、それとも、片方が消滅してしまったのか……答えのない問答に陥るときがあった。

「やっぱり、ララはルルさんが生まれなかったのは自分のせいだとか、そういうことを思って悩んでいるんだろ?」

 沈黙を破り、ヨーゼフが私に声をかけた。

「悩んでいるっていうと言いすぎだわ。……でも、私の身体の中から女の子が生まれてくる――そんな想像をするとどうしてか妹のことが勝手に浮かぶの」

 私は歯切れ悪く応えた。多分、自分でもこの感覚が何なのか理解できていない。理解できていないからこそ、不安めいた感情として感じられるのだろう。

「いいさ。女の子だったときの名前は僕が考えるよ」

 ヨーゼフはそう言って優しく微笑んだ。

「お願いしていいかしら」

「もちろんさ」

 私は母親として不甲斐ないような気持ちを覚えてか、声に覇気がない。

「心配するな」

 ヨーゼフの両手がテーブルのうえで私の左手を包み込んだ。そっと触れた親指で私の薬指に嵌められていたプラチナ製の結婚指輪を柔らかに撫でた。

「男の子でも女の子でも、それはララと僕だけにしかつくれない子供だ。きっとララに似て綺麗なブロンドの髪に透き通った青い瞳をしているはずさ。そして、僕のような男らしさを宿している。――女の子であってもね」

「あなたったら」

 私はヨーゼフの冗談に小さく微笑むと、少し心が軽くなるのを感じた。

「でも、タバコひとつ吸わないあなたの場合、男らしさというよりは子供っぽさかも」

 そう言いながら私は、ヨーゼフの髭に付いたケチャップを母が子にするように右手の親指で拭った。

「あぁ、失敬。とにかく、何も心配はいらないさ」

 ヨーゼフは改めて諭すようにそう言った。


 ヨーゼフが言ったことは本当だった。数カ月後、ベルリン市に二〇一九年の春の気配が訪れた頃、子供は無事に産まれた。ブロンドの髪に青い瞳の男の子だった。彼には晴れて私が考えたヨセフという名が与えられた。


  2


 ある冬の日だった。

 三日三晩降り続けた雪はベルリン市街の路上を一面真っ白に染め上げ車の往来を完全に遮断していた。街路を吹き抜ける風の音や通行人の話し声は、反響する先を失って、静かでくぐもった響きとなりやたらと遠く聞こえていた。私は、どうせ市場に食料は届いていないだろうと買い物にも行かず、もうすぐ一歳になるヨセフの子守りとその傍らでの編み物に勤しんでいた。だが、窓際のロッキングチェアに座り赤い毛糸をひと編みふた編み細く織っていると次第に指先がかじかみ作業は捗らなくなった。ひざもとの両の指先に向けていた集中を解いて、ふっと溜息を吐くと白い息が立ち上った。壁際でコチコチと音を鳴らす時計を見ると、既に午前一一時を回っていた。私は慌てて、ベビーゲートからヨセフを抱き上げ授乳を始めた。しばし両手は使えないので、この時間はいつもテレビを点ける。

「ごめんね」と一声、乳房に吸い付くヨセフを抱え込むような前傾姿勢になり、テーブルの上のリモコンを取って、電源を入れる。薄型のディスプレイは瞬時に像を結び、午前のニュースを流し始めた。私がまだ一〇代そこら、ブラウン管テレビが主流だった頃なら、この極寒の日にテレビがすぐに像を結ぶことはなかったろう。西側諸国発祥のテクノロジーとは言え、デジタル型のテレビには感謝を覚えずにはいられない。私は再度ロッキングチェアに背を深く預けると、ヨセフを抱いたままニュースに耳を傾けた。

 …………二〇一一年から続く東側諸国と西側諸国の大戦も既に九年が経過しており、一九四五年以降続く冷戦体制は今も膠着したまま…………

 ニュースはいつものように大戦の戦況を伝えていた。

 …………一方、今回のアフリカ大陸における東ドイツと西ドイツ間での局地戦については、新戦時国際法に基づき先週、休戦協定が締結されており、現在、第二七回目となるベルリンの壁の境界移設についての協議が…………

 キャスターは東ドイツの領地拡大とそれに伴うベルリンの壁の再移設の可能性を報じていた。――東側諸国に属する私たちの東ドイツと、西側諸国に属する敵国西ドイツの間では戦況に伴いベルリンの壁が何度も移設されてきた。いつしか国際社会では「ベルリンの動く壁」と揶揄されるようになり、今日では、この三次大戦の、引いては、一九四五年から続く冷戦全体の形勢を測るメルクマールとさえ目されるようになった。恐らく、日夜変動し続ける空虚な株価のチャートを神聖視する西側の人間が初めに発想したのだろう。

 私はため息をつきながら、縁に雪の積もった窓から外を眺めた――が、道路を挟んだ向かいにそびえたつ大きな壁がすぐに視線を遮った。もう一度深くため息をつく。

 ベルリンの壁は我が家の真向いにも走っている。昔からこの家の窓はその機能を果たせずにいる。一階のリビングからも、二階の書斎からも、まるで街を見せまいとするように壁が立ち塞がり、景色を見通すことを許さなかった。だから、いっそのこと今回の移設で、家の前から壁が移動してくれればとも思った。たとえば、[#傍点]ある朝起きてみれば壁が移設され街全体の景観を見渡せる[#傍点終わり]――ありえない可能性だ。国際社会から見れば動く壁なのだろうが、ベルリン市民にとっては強固で不動の巨大な壁でしかない。

 それでも、たった一度ではあるが壁そのものが崩壊しうる日もあった。一九八九年一一月九日。私が、生まれたその日の出来事だ。一般には、東ベルリンが国家存亡における最大の危機を迎えた日のことだ。どうやらその日、党の広報担当者シャボフスキーは、完全なる事実誤認にもとづき、会見の場で「東ドイツ国民はベルリンの壁の向こう側、西ドイツへの出国が認められた」という旨の発表をしかけたのだとか。発表直前になって、他の広報担当者がその認識の誤りに気がつき、シャボフスキーを会場から引きずり下ろした。もしその発表が為されていれば、ベルリンの壁は崩壊しえたのだ。もちろん、二〇二〇年の今日、眼前に壁がそびえ立っているように、東ドイツにおける最大の危機は寸でのところで去ったのだが、当時、東側諸国が今日よりずっと弱体化していたこともまた事実だった。壁が取り払われてもおかしくない状況が続いていた。

 だが、事態は一九八九年の年末に急転した。西側諸国の中心であるアメリカの世界貿易センタービルに、二機の大型旅客機が突っ込んだのだ。首謀者はそれまで冷戦体制における脇役ですらなかったイスラム圏のテロリストだった。テロリストは資本主義と自由主義を憎んでいた。この憎しみゆえの自爆的テロを契機に、世界中に資本主義と自由主義の欺瞞が改めて認知されるに至った。また、イスラム圏は東側諸国の戦闘にゲリラ的に加担するようにもなり、徐々に形勢は逆転していった。とどめとして、翌一九九〇年三月一一日には、東側諸国の主要国である日本で、ソビエト連邦のチェルノブイリ原子力発電所事故を遥かに超える、福島第一原子力発電所の大規模な事故が発生した。一号炉と三号炉が水素爆発を起こし、所員全員に退避命令が下され、結果、二号炉はメルトダウンに至り臨界爆発を起こした。空の彼方まで咲いたきのこ雲は、多量の放射性物質を胞子のごとく世界中に送り届け、数千万の死者と甚大な被害を各国に与えた。だが、日本がこの賠償を行うことはなかった。恐らくそれは無理な話だ。

 結局、これらの賠償に対する東側諸国からの要求と、テロ被害に対する西側諸国からの要求の摩擦は、二〇一一年一月七日に第三次世界大戦というかたちで発火した――――。


 気がつくと、両の腕の中では、ヨセフがすやすやと寝息を立て始めていた。私は慎重にベビーゲートの中のベッドまでヨセフを運ぶと、雪の日特有の静けさにか珍しく眠気を覚え、ロッキングチェアに腰を掛け瞼を閉じた。

 来客を知らせるベルが鳴ったのはそのときだった。

 平日の昼間に人が訪れることは珍しかった。ベルで目を覚ましたのであろうヨセフのぐずり声が背後から聞こえてきた。私は少し気怠く立ち上がり、玄関に向かい、のぞき穴越しに扉の向こうを眺めた。男の顔が見えた。あまりに見覚えのある男の顔が見えた。

 瞬時、みぞおちから喉元に震えあがるような感覚が突き上げた。

 それが胃液のような熱いものなのか、氷のような冷たいものなのかはわからなかった。それでも、視点は定まる場所を見失いぐらりと揺れ、地に着けていた両足は微かに震え重力を曖昧にした。

 その一瞬に思考した。扉を開くべきか否かを思考した。

 だが、私は何かに耐えられなかった。扉を開けてしまった。ヨーゼフとヨセフと私の、三人だけの家族の扉を開けてしまった。

 間はなかった。会話はすぐに彼から切りだされた。

「……久しぶり」

 間違いなかった。私の鼓膜を何度も揺らした懐かしさすら覚えさせる声だった。ハーゲンだった。

「元気にしてたか?」

 軍服のコートに身を包んだハーゲンの四肢はほとんどが隠れていた。でもその黒い短髪、そして、やや下向き加減の表情からのぞく黒く大きな瞳は、見間違いのないほど、見慣れたものだった。

 私は、何かを口ごもるように、唇をか弱く戦慄かせたあと、やっとのことで言葉らしい音を発した。

「――お帰りなさい……」

「――ただいま」

 そう言ってハーゲンはしばらく俯いて、何か言葉を探すように視線を右往左往に振った。

 私はその間、視線を逸らすことすらできなかった。開かれた扉から吹き込む零下の風が、全身の自由を奪い去ったように感じた。ほんの数秒の間がまるで永遠のように間延びされていた。扉の外、ハーゲンの背後に除く路上、そこで雪と戯れる子供達の声が遠い世界から木霊する残響として聴こえていた。同時に、背後からはヨセフのけたたましく泣き叫ぶ声が聴こえ始めていた。

「何も言わなくていい」

 ハーゲンは続けた。

「元気な赤ちゃんの声が聞こえる。それで十分だ。全て忘れてくれ。俺はベルリンに帰って来た。そして、君は『お帰りなさい』と言ってくれた。――十分だ」

 私が何かを言うより早くハーゲンは外から扉を閉じた。

 しばらく動けなかった。

 私はどれくらいの時間が経ってかはわからなかったが、もう一度、扉を開いた。その時、そこにハーゲンの姿はもうなかった。私はその場で泣き崩れることはなかった。怒ることもなかった。声一つすら上げなかった。ただ、そのことを胸のうちにきつく閉じ込め、いつものように夕方にヨーゼフが帰って来るのを迎え、いつものように食事を準備し、いつものように寝床に着いた。

 その頃になってから涙は溢れ出した。嗚咽を聴かれないように噛み殺し、まるで窒息でもするかのように閉じ込めた何かを胸の奥で震わせた。


 3


 大学の三回生の頃だった。

 私は二一歳。世界は二〇一〇年。三次大戦前年。

 その春にベルリン市フンボルト大学第二哲学部のゼミでハーゲンと出会った。

 その頃の私は、生来の真面目さのせいか、大学での哲学の勉学に集中し切っていた。連休中に書斎に篭って書き上げた論文が学会で賞をとるなども相まって、異性への関心などは一〇代の頃の半分以下だった。でも、ハーゲンは、ゼミでのちょっとした世間話を皮切りに、私に熱を上げて言い寄り始めた。初めは胡散臭い男だと思った。だが、四日後には二回目のデートを終え、八日後にはキスを、一〇日後には体を重ねていた。ハーゲンはありていに言えば情熱的で直情的、要は男らしい男だった。初めに感じていた胡散臭さも、東ドイツのヴェルニゲローデという田舎の出身と聞いて純朴さのように感じるようになっていった。

 私たちはひどく気が合った。恋愛観も、家庭観も、人生観ですら必ず共通する部分があった。運命の相手なんてものがあるのならば、私たちはきっとそれに違いなかった。

 もちろん、真逆の部分もあった。でもそれですら完璧な補完関係のようだった。ハーゲンは、書斎に篭り難しい顔で論文を睨みつけている私の前に現れては嬉々として強引に外に誘った。どれもロマンチックなロケーションでもなければ、お金もかけない街歩きのデートだった。けれど、市内のアートギャラリーや喫茶店を巡ったり、初めてクラブで踊ったり、どこだかわからない雑居ビルの屋上で朝焼けを浴びながらハーゲンが爪弾くギターを聴いたり……私一人の人生では触れることさえなかったろう新鮮な体験ばかりだった。家と大学の間を往来するだけだった私の生活は豊かな思い出に変わっていった。やがて、二人で大学を卒業する頃には当然のように将来の結婚を誓い合っていた。

 だが、人生はスムーズに進まなかった。私は市内の法律事務所に就職が決まっていたが、ハーゲンは就職先を決めかね、結局、その前年に勃発した大戦に陸軍として志願し中東の戦場に旅立った。ハーゲンは二年で戻ると約束した。戻ってからは市内で職を見つけるのでその頃に籍を入れようと提案した。私はハーゲンのその言葉を疑わなかった。ハーゲンが約束を違えることなど頭になかった。

 結局、二年後に来たのは、ハーゲンの戦死の通知だった。二四歳の春だった。

 手渡された茶けた紙切れには、党のシンボルと何行かの慰安の言葉が印字されていた。これ以上にないほどの空虚が襲った。そして、空虚から目が覚めたときには涙も枯れ果てていた。私は半年ほど仕事を休職した後、退職し、何の目的もない日々を送っていた。

 そのとき、勤労態度調査で呼び出された党本部で出会ったのがヨーゼフだった。

 始めヨーゼフは党の就労指導員としてこそ私を気にかけ手を焼いていてくれていたのだが、いつしか、その関係は男女のそれに変わっていった。私も親身に接してくれるヨーゼフに人生の新たな希望を抱き始め、気がついた時にはヨセフを身ごもり、籍を入れ、立派な家庭を作り上げていた。

 不幸は確かにあったものの、私の袂に人生は戻ってきていた。ささやかな幸せに満ちた日々が流れ始めていた。――だが、運命はまたもや私の人生に影を落とした。

 ハーゲンは帰って来た。

 後に党の関係者から聞いた話では、ハーゲンは中東での戦闘で永らく現地の非ムスリム系ゲリラの捕虜となっており、二〇二〇年に行われた捕虜交換で東ドイツに返還されたのだった。ハーゲンの戦死は完全なる誤報だった。

 ハーゲンは東ドイツの地に帰り着くなり、私の家を探し出し、真っ先に帰って来た。遅れはあったが、ハーゲンは約束を守った。――だが、私は守れなかった。

 ハーゲンは私の家を訪れるなり、二人の人生の乖離をすぐに悟った。でも、私を一切責めなかった。代わりに、もう一度、戦場に旅立った。そして、その二カ月後にまたあの茶けた紙切れが私のもとに届いた。まるでデジャヴのような光景だった。

 今度の知らせは本当だった。



 小雨が降る日だった。三二歳を目前に控えた春の日だった。

 冬の寒波は随分と前に去っていた。ベルリン市街はコントラストの低いのっぺりとした灰色に覆われていた。光が照っているのか影が射しているのか判別がつかなかった。私はただ足元だけを見つめながらコンクリート造りの建物の間を縫って歩いた。石畳の上で小さな雨粒が弾け、それを私のブーツが左右交互に踏みつける光景だけがリピートされた。

 戦死者の共同墓地に辿り着くと、十数人ばかりの人々がハーゲンの墓石の前で行き先を失ったように立ち尽くしていた。私はその中の丈長の雨具に身を包んだ中年の男性から花を受け取ると、ハーゲンの名が刻まれた碑銘の横にそっと手向けた。

 皆ほとんど口を開くことはなかった。そこに集った者達が何者であるのか、互いに知りえていないように見えた。少なくとも、ハーゲンの両親はいないはずだった。生前、ハーゲンから聞いた話が正しければ、彼が幼い頃、両親はプラハ市の西ドイツ大使館経由で西側に亡命していた。それが、家族として不本意な別れだったのか、もとから子を捨てるようなことだったのかはわからない。いずれにせよ、両親が訃報を知りえたところで西側からベルリンの壁を越えて東側に来ることは不可能だった。

 そんなことを考えていると、私はハーゲンについて実はまだ何も知らなかったのだと悟った。両親すら知らなかった。ハーゲンがどのように育ち、何を悩み、どのような明日を生きようとしていたのか、何も知りえないままに、知ったつもりで約束だけをし、私はそれを破った。

 もしハーゲンが捕虜として拘留されることがなかったのなら、もしハーゲンが知らせの手紙を届けられていたら、約束が破られることがなかったのなら、あるいは、今もまだこのベルリンで生きていたのなら、二人の間にはその知らない何かを埋めていく人生が始まったのだろうか。

 私は傘の下から盗み見るように空を見やった。

 モノクロームの色調の空に厚い雲が何重にもはりついていた。どこまでも茫漠とした空間が広がっていた。遠くで車が雨水を切って走り去る音が聴こえた。止まったような時間が漂っていた。


  4


 真夏の日差しが市街を照らしていた。

 私は隣町の駅に向かって歩いていた。マンションのように背の高い駅舎が大きな影をアスファルトに投げかけていた。路面からは熱気が湧き上がり、日射面と日陰のくっきりとした境界線を揺らしていた。建物やファサードの直線的な輪郭と、トチノキの並木が見せる樹冠の曲線が鮮明にあぶりだされ、網膜を強く刺激した。私は汗ばむ右の掌を水色のワンピースの裾で拭うと、前面に抱えたベビービョルンを抱え直した。ヨセフは胸元で寝息を立てていた。

 私はヨーゼフが出向いた隣町にいくつかの書類を送り届けた帰り道にいた。ヨーゼフは朝、出勤早々に会議書類を忘れてしまったと慌てふためいて電話をよこした。ヨーゼフの不注意に慣れていた私は特に難色を示すこともなく、電車に三〇分ほど揺られ、隣町の党施設の会議室に書類を送り届けた。ヨーゼフは胸を撫でおろし礼を告げた。代わりに私は夕食のアルコールの買い出しを依頼した。いつものワインではなく、夏日に合いそうなレモンビールを頼んだので、ヨーゼフは「どこに売ってるんだい?」と、戸惑った表情を見せたが、店の場所を教えると了承した。

 私は日の差した歩道に出ると、晴れやかな青い空に目をやった。

 ――ほんの数日前の出来事だった。

 初夏の風がリビングに吹き込む爽やかな朝だった。ハーゲンの葬儀を終えた後、私はいつかと同じように暗くふさぎ込み、しばらくの間、自分を見失った生活を送っていた。ヨーゼフはひどく心配した。しかし、その状態が長く続くことはなかった。

 ある朝、鬱屈とした気分のまま朝食の支度をしていた私は、ベッドの上で、ヨセフがいつもとは違う様子で声を発していることに気がついた。近くに寄って耳を傾けると、たどたどしい発音で「わんわん」と言っていることがわかった。ヨセフが初めて言葉をしゃべった瞬間だった。私は気が動転し、洗面所で髪を整えていたヨーゼフのもとに駆け寄り「ママでもパパでもなかったの」とか「『わんわん』だなんてヨセフやっぱり動物好きなのよ」などと早口に感動を口走り、ふと、随分と久々に胸のうちに喜びが戻ってきたことに気がついた。

 それが、転機だった。――人生で何が一番大切なのかを再び見つけた気がした。


 私は、見上げていた空から視線を降ろし、胸元のヨセフをもう一度見やった。そして、両の腕でしっかりと抱きしめると、駅までの道を歩き始めた。

 帰りの電車はエアコンが壊れていた。むっとするような熱気を払うため乗客は皆車窓を開放していた。私も窓を開け放ち、吹き込む風を感じながら、うつり変わる東ドイツの景色を眺めていた。すると、その中に麦畑の光景を見つけた。

 黄金色の麦が日差しをうけ、きらきらと煌めいていた。郊外にはまだ豊かな自然があるのだなと感心した私は、ベルリン東駅で下車すると、ヨセフをおぶったまま麦畑に向かい歩き始めた。行く道々で通行人に尋ねながら、二〇分ほどで遂に麦畑に行き当たった。長い車道の向こう側で、大きな風が麦畑の上面をゆったりと撫でていた。ブリューゲルのそれよりはゴッホの絵具に近いビビッドで鮮やかな麦畑だと心のうちで独り言ちた。

 私はもっとそばに寄ろうと、車道を越え、麦畑の前に立った。そのとき、一瞬だったが、不思議な感覚を覚えた。暑さに軽い眩暈を覚えたかのような、一瞬の時の静止と反復感。デジャヴの感覚。その奇妙な感覚に判然としない気持ちのまま、改めて麦畑の彼方に視線を向けた。そのデジャヴは珍しく正しい認識だった。

 麦畑の向こう、錆びた鉄柵が張ったその麓にいくつもの墓石が並んでいた。見覚えのある場所。ハーゲンが埋葬された共同墓地だった。

 額から流れた汗が頬を伝ってポツポツと足元に落ちた。立ち止まったまま回想した。恐らく、私はハーゲンの葬儀でこの場所を訪れた日、茫然自失の状態だった。だからなのか、そこがどこであったのかとか、近くに麦畑があったのだとかいうことは忘却していた。そもそもその認識すら危うかったのかもしれない。

 私は、墓地に続く麦畑の畦道に足を踏み入れた。柔らかな土の感触を踏んで恐る恐る進んだ。だが、一〇メートル程歩を進めたところで、立ち止まり、胸の中で寝息を立てるヨセフの頬を撫でた。

 私は、踵を返し、墓地に背を向け、来た道に沿って歩き始めた。

 心の中で反芻した。それが何なのか明確に言えなかったが、今、この私が向かうべきところはどこなのかを問い直していた。両の腕でヨセフの小さな体を強く抱きしめた。後ろ髪をひかれるような感覚を吹っ切ろうとさら速く歩を進める。だが、両の脚は震えていた。そして、麦畑から車道に出る――その直前だった。

 ふと背後の近い場所で麦畑がざわざわとさざめいた。私は反射的に振り向いていた。

 そこに一瞬だが、麦畑の中に消え入る小さな〝影〟が見えた。振り返った姿勢のままあたりを見回したが誰かがそこにいるわけではなかった。小動物か風の悪戯だと思い直すことにした。まるで何事もなかったかのように私は道路を横断し、帰路についた。確かに何事があったわけでもなかった。あたりは真夏の陽気で、ちっとも幽霊などが出てきそうな雰囲気ではなかった。それでも、どうしてか、その日眠りにつくまで首筋から後頭部辺りの火照りがずっと冷めず、強い日の中の影のイメージが脳裏に焦げ付いていた。夢うつつの中、私はその影にハーゲンを重ねていた。だが、意識が遠のくにつれ、その影がルルのものにすり替わっていった。それがどうしてか全くわからないと思ったのが最後の意識だった。


 5


「ルル[#「ルル」に傍点]は子供が欲しいと思わないのか?」

 ハーゲンはベッドのヘッドボードからタバコの箱を手に取りながら言った。

「いつかは欲しいと思ってるわ。でも、私達まだ学生よ? そういうことは職に就いてからのことよ」

 私は寝そべったまま、シーツの端に追いやられていた下着を身に着けながら続けた。

「それに、もし子供ができたのならコレはもうナシよ」

 私は、ベッドの上で上半身を起こしジッポライターでタバコの先に火を点けたハーゲンの口元からそれを奪った。

「おい、返せよ。一汗かいたあとのタバコほど美味いものはないんだ。返してくれ」

「私にはまったくもって不味いしろものだわ。そもそもあなた副流煙すら知らないの?」

 私は奪い取ったタバコを白い陶器製の灰皿に押し付け、それごと窓際のローテーブルに持っていった。そして、ふと、窓越しに外を眺めた。いくつもの街燈が[#傍点]ベルリン市街の西部から東部の彼方まで、遮るもの一つなく[#傍点終わり]広がっていた。水辺に映った星空のようだった。

「言ったじゃない。うちで吸うのなら必ず窓辺よ」

ハーゲンは、一瞬、目をしたたかせたあと「あー……そんなこと言ってたっけな……わかった、わかった」と溜息を吐いて、窓際には行かずベッドに戻った私を抱くようにしてシーツの上に寝ころんだ。

「タバコのことはおいておこう。それより、さっきの話だ。――じゃあルルは、もし俺が職を見つければ子供を作ってもいいと思ってるのか?」

 私は少し考えるふりをしたあとで言った。

「そうかもね」

 本心では、卒業の時期が迫るにつれ、ハーゲンとの子供をつくりたい欲望は肥大していた。だが、まだそれをハーゲンに伝えたことはなかった。単純に気恥ずかしかった。

「そうか。じゃあ喜べ。今日、就職先を決めた。教授から紹介して貰った自動車メーカーの事務職だ。退屈そうな仕事だがな」

 私は一瞬その言葉が信じられなかった。心のどこかで、ハーゲンは卒業後にアフリカや中東の国にでもバックパッカーとして旅立つような、どうしてかそんな思いを抱いていた。自由気ままなハーゲンはいつかどこかに去ってしまう。無意識で私はハーゲンとのこの暮らしがどこかうたかたの儚い夢のようなものだと感じていた。

 だから、突然のその言葉にすぐに反応することができなかった。代わりに頭の中で、私とハーゲン、そして子供の三人が仲睦まじく暮らしている映像がなぜだか懐かしさを伴ってフラッシュバックした。

「ベルリンの西部に小さな白い家を建てよう。君は内定先の美術館の学芸員。俺は自動車メーカーのサラリーマン。どこにでもある平凡な中流家庭だ。そして、休日には小さな庭に出て君の作ったエッグマフィンを子供と食べる。クヌーデルも焼いてくれると嬉しい。やがて、西日が射し出すと、君は庭でレトリバーと遊んでいた子供の名を呼ぶ。子供は走って駆け寄りエプロンを付けた君に抱きつくんだ。俺は冷やしておいたワインをテラスに運ぶと、三人で乾杯をする。……あー、子供にはオレンジジュースを渡しておこう」

 ハーゲンは左手で私の髪を撫でながらそう話した。なんてことはない日常のワンシーンの話だった。ひねりもなければ、独創性もない。家庭とか家族と聞いたときに、誰もが言うような話を誰もが言うように語っただけの言葉。それでも、私の胸の奥のなにかの琴線はゆっくりと揺れ動き始めていた。遠い過去、生まれる前にさえ思えるほどの昔。そんなありえもしないいつかに夢見た未来が、今、目の前で、手を伸ばせば届くところにあるような懐古の錯覚を感じていた。そして、なぜだか、胸からせり上がって来るものが涙となって溢れそうな、そんな場違いな感覚さえも覚えていた。

 私は平静さを装い言った。

「その話には続きがあるわ」

「どんなだい?」

 ハーゲンが興味深そうな面持ちで問うた。

「三人で夕食を食べ終わると、あなたは庭の隅でこそこそとポケットからタバコを取り出して火を点けるの。『父親ってのは大変な仕事だ』とか格好つけて独り言ちる。でも、すぐに私が現れて、タバコを取り上げながら『また吸ったわね』って怒るの。あなたはいつものように『わかった、わかった』と言って溜息をつく」

「言うじゃないか」

 ハーゲンは撫でていた私の髪をくしゃくしゃと崩した。そうやって、二人で笑ったあと、私とハーゲンはいつしか見つめ合っていた。沈黙が訪れた。柔らかな沈黙だった。階下の住人がかけていたクラシック音楽が遠く静かなBGMとなって揺蕩っていた。窓際からキャメルのタバコの甘い香りが漂っていた。

「結婚しよう。子供も作ろう」

 ハーゲンは透き通った黒い瞳で私を見据えたまま言った。

 私は深く確かに頷いた。

 私とハーゲンはそのまま抱き合うと愛を確かめた。とても長い夜に感じた。その間、幸せとか永遠といった類のものを、その小さな部屋の中に閉じ込めておくことができた気がした。指先が確かにそういうものに触れた気がした。


 6


 私は泣きながら目を覚ました。

 ヨーゼフが驚いて揺り起こしたようだった。私はしばらくベッドの上で動揺をおさめると、見ていた夢の話をヨーゼフに告げた。

 その夢の中にこの私ララは存在しなかった。そこで生きていたのは、私の視座が宿った妹のルル、そして、恋人のハーゲンだった。二人は来るべき未来と希望の予感に胸を打ち震わせていた。そんな世界など存在しないのに。二人はこの世界にもう存在しないのに。――ヨーゼフは私を優しく抱いたままただ耳を傾けてくれた。

 翌朝になると、私はもう冷静さを取り戻していた。日曜日だった。ヨーゼフは気を使って、ヨセフの子守りは自分がするので、散歩でもして高級なランチでも食べてくるといいとお金を渡してくれた。ヨーゼフだって久しぶりの休みなのだからと断ったが、心配いらないと私を送り出してくれた。私は市街を少し散歩したが、何かを楽しめる気もしなかったので、喫茶店風のテラスがあるイタリア料理店で、食前酒のアペロールとアスパラが乗ったオイルパスタのランチを食べ、早々に帰路についた。

 道中、ふと、建物が立ち並ぶ脇、道に沿って高くそびえる壁を見やった。

 ――街を東と西に分けるベルリンの壁。

 私は壁をしばらく見つめながら夢のことを思い出した。夢の中で、私はララではなく妹のルルだった。ルルの家はベルリンの西側にあったようで、窓から眺めたベルリン市街には壁が存在していなかった。不思議な光景に思えた。壁がないベルリンの街などありえるのだろうかと考えた。もしかしたら、壁のない世界には、大戦や冷戦といったものさえ存在しない二一世紀が訪れているのかもしれない。今よりもっと豊かな生活が人々を包み、ハーゲンが戦争で死ぬこともなかったのかもしれない。不思議とそのようなアイデアやイメージが頭に溢れ始めていた。

 その白昼夢の中、一瞬、視界の端が既視感のある像を捉えた。また、あの〝影〟だった。

 壁と建物の間の曲がり角にそれは消えていった。気のせいだと考えたかったが、麦畑であの影を見た時と同じような印象がくっきりと心の中に残っていた。いつか、デ・キリコの画集を開いた時の印象にも似ていた。――輪を転がす少女の影が夕暮れ時の街角に消えていく光景。その絵を見た時の印象と瓜二つだった。何か不安なのか不穏さなのかを感じ始めていた私は、少しだけ歩く速度を上げた。


 家に着くと、私は書斎に入って、書き物机の上にノートを開いた。自覚的な行動には思えなかった。合理的な目的があるわけでもなかった。だが、壁を見た時に溢れたイメージを、私はなぜかノートに書き留めたい衝動に駆られていた。

 少々戸惑ってはいたが、ノートに「三次大戦は起きなかった」、「一九八九年に冷戦は終わりベルリンの壁は崩壊した」、「ハーゲンは戦争に行かなかった」とか、そんな意味のないナンセンスな文言の切れ端を書き並べた。自分の不可解な行動に呆れたが「9.11が起きたのは二〇〇一年だった」、「日本の原発事故は二〇一一年にもっと小規模に起こった」とか、さらにいくつかの言葉を書き足すと、急にそれらの点のような言葉が、互いに結び付き始め、整合性のある物語を指し示しているかのように思われ始めた。さらに書き続けると、いつしか立派な文章を書き始めていた。書きなぐった無意味な言葉は、しかし、新たな連想を生み、次の無意味な言葉を生む。それらは徐々に絡み合い、文脈が生成され、やがて整合し、意味のある文章が記述されていく。アイデアが勝手に溢れていた。オカルト界隈の話で知った「自動書記」とかいう感覚なのかもしれないとも思った。眉唾ものだが、自分の意志と無関係に動くペン先にまかせ、フィクションの世界を書く小説家というのが一九世紀末の欧州では流行ったのだと聞いたこともある。他にも、当時、ウィジャボードやミーディアムとかいった神秘主義が席巻した欧州にはそんな奇妙奇天烈な芸当を真面目に議論する学者さえいたらしい。

 ただ、それらと一点だけ異なるように感覚したのは、私の書いている文章は、ファンタジー小説かと言えば、そうではないように感じられた点だ。フィクションであることはそうなのだろうが、でも、まるでノンフィクション小説のようなリアリティと複雑さを有した、歴史書のような世界観がノートのうえに表出していた。

 やはり奇妙だった。まるで自分が書いている気がしなかった。

 ノート四ページ分を書き終えたところで、ふと、この小説の主人公は誰なのかと疑問に思った。自分で書いているのに、そんなことさえ認識せずに書いていたのだ。まるで他人の書いた物語を模写するような体感だった。だが、答えはすぐに浮かんだ。主人公はルルだ。この世界に生まれなかった双子の妹。ルル。

 まるでそれが正しいと言わんばかりに、小説の時代設定は私達双子の誕生年である一九八九年から始まっていた。主人公ルルは、西ドイツに双子の片方として生まれた。この私、姉のララは「消える双子バニシング・ツイン」現象によって生まれてくることはなかった。そして、ルルが一歳になるより早く、その世界ではベルリンの壁が崩壊した。党の広報担当シャボフスキーが誤報を誤報のままに流し、本当にドイツが統一されてしまうという筋書きだった。そんな奇天烈なことは現実には起こりえないのだろうが、フィクションとしてなら捻りが効いているように思えた。さらには、冷戦構造が世界から取り払われ、作品世界の登場人物はグローバル化しフラット化する世界に立ち向かうあるいは適応することに躍起になっていた。私のこの現実の世界よりは幾分も平和な世界に思えた。

 そこまで書いた時に、書斎の扉が開いた。

「帰ってたのか」

 ヨセフを抱えたヨーゼフが言った。

 私は突然、正気に返り、手元のノートを一瞥すると、どうしてこんなものを書いていたのだろうと改めて呆れた気持ちになり、書斎を出て、夕食の支度を始めた。やはり心が少し疲れているのかもしれないと思った。けれど、その日以来、私は夜な夜な書斎に篭っては、物語の続きを書くようになった。


 7


         *

 ルルは二三歳の誕生日をハーゲンと共に祝った。ベルリンの西部に建てた小さな白い家で、いちごがのったケーキを二人で食べた。ルルのお腹の中には新たな命が宿っていた。臨月はもうすぐそこまで迫っていた。ハーゲンは妊娠がわかると、この食べ物が胎児にはいいらしい、あの玩具が新生児に好まれるらしい、その重い荷物を持つのは胎児に良くないと、らしくなくルルと胎児のことを気にかけた。ルルはハーゲンのことを、内面は繊細で優しい人だとわかってはいたが、ここまで子煩悩を露骨にされると少し笑えてしまうと思った。見かねたハーゲンの両親は結婚式が終わった頃から胎児よりハーゲンの先走りに手を焼くルルの手助けのために二人の小さな白い家によく訪れるようになった。

 ――――――。

 ルルにとって、朝、ハーゲンをオフィスに送り出すのは少し寂しいことだった。どうしてかいつも、もう帰ってこないような不安を感じていた。でも、ハーゲンは夕暮れには必ず帰って来た。ルルは腕によりをかけた料理を毎日振舞った。ハーゲンは家事も料理ももっと手を抜けと言った。ルルが「どうして?」と尋ねると、ハーゲンは「赤ちゃんに障ったら大変だ」と返した。それを聞いてルルは「心配し過ぎよ」と笑った。二人はとても幸せだった。戦争もなく、豊かな世界に抱かれていた。

         *

 私は書くのを止め、握りしめていたペンを机の脇に置いた。

 書斎の古時計が〇時を回ったことを告げた。私はかすむ目を擦り、背を伸ばし、椅子から立ち上がると、窓から外を眺めた。もちろん、そこには、すぐに大きな壁が立ち塞がり、展望に堪えるものなど何もなかった。それでも、ここがもしルルの世界のルルの部屋なら、壁のないベルリンの街を望むことができたのだと空想した。目の前の壁の向こうにパノラマのように広がる夜景を想像した。現実にはないイメージが、心のどこかを癒していた。

 ヨーゼフが扉を開いた。

「ララ、こんな時間まで書いていると体に障るよ」

「そうね。もう深夜になってたなんて気がつかなかったわ」

「少しはペースを落としたらどうだい? 最近の君を見ているとその小説のことばかりで心配してしまう」

「そうね」

 労わるような視線を向けるヨーゼフに、少し申しわけないような表情で告げると、しかし、私はうって変わって弾む口調で言った。

「でも、もうすぐルルが子供を生むエピソードに差しかかるの。自分で書いていて何なんだけど、それが楽しみで待ちきれないのよ」

「――君は不思議な才能の持ち主だな。作者でもあり、でも、物語の行く先は筆を執るまで浮かばないという読者でもある。どこでだか自動書記なる奇術の存在を聞いたことがあるが、それに似ているな」

 ヨーゼフは腕を組み感心して言った。

「一読者として言っていいのなら、この小説の世界はとても魅力的だわ。人々は豊かで、平和が当然のように存在している。ベルリンの壁もとっくに崩壊しているの。確かに、資本主義と自由主義が横行していて人々が不甲斐ないのは問題だけど、子育てには最高の環境よ。そして、そんな世界でルルは幸せというものに一歩一歩無垢に近づいているの」

「党員の私としては、東側が滅びた世界なんて目も当てられないがね」

 ヨーゼフはしかめた面持ちで言った。

「それは私だってそうよ。いくら平和だといえ、この世界がまともだなんて思わないわ。――でも、もし、ルルが生きていて、彼女が幸せになりたいと願うのなら、私たちの世界よりもこの小説の世界の方が向いていると思うの。ルルにとっては小説の中のフィクションの世界こそが本物で、この私達の現実の世界なんてものこそがナンセンスに思えるはずよ」

 ヨーゼフは神妙な表情で「難しいことを考えるものだ」と漏らした。

「最近、私、街中で不思議な影を見ることがあったの。そして、どうしてかその影を私はルルのものだと思うことがあった。まるで、私の生の代わりに生まれることができなかった妹が、幽霊とか亡霊になって、この私の人生を恨めしく覗いているような不安さえ覚えていたのかもしれない。でも、ルルを主人公にした小説を書いていると、こう思うようになったの。本当は影なのは私。ルルにとっては私の人生なんて恨めしくもなんともないただの影なの。そう思えるくらいルルには幸せになって欲しい。例え小説の中のであっても」

「なるほど。多分、ララにとって小説を書くことは、過去への弔いなんだ。ララは、心のどこかでルルさんが自分のせいで生まれなかったと罪悪感を抱いていたんだ。君にとってももしかしたら心理療法みたいな効果があるのかもしれない」

 ヨーゼフはそう言ってほほ笑んだ。

 ヨーゼフは私が小説の中でハーゲンを登場させていることについて咎めたり嫌がったりすることはなかった。悪趣味で不埒だと恥じ入るばかりだったが、頭に浮かんだストーリーを改変なくそのまま書き連ねること以外はしたくなかった。それに口を挟まないヨーゼフに感謝を覚えた。

 そして、思った。ヨーゼフが言うように、私にとってフィクションを書くことは、この現実の人生を受け止める手段になっているのかもしれない。もし、ルルが生まれ、世界が平和で、ハーゲンと叶わぬ約束をすることもなかったのなら、悲劇はきっと起きなかった。正しい世界の中で、正しい意志をもてば、人は必ず幸せを手にする。そんな当たり前の秩序が、失いかけていた人生の約束が、物語の中に垣間見える気がしていた。

「次の章で、きっとルルは家族を得るのだと思う。それまで待ち遠しくてたまらないの」


  8


         *

 ルルの涙は途切れることがなかった。

 二人の小さな家の小奇麗なフローリングと白い壁には、鮮やかとさえ言いたくなるような真っ赤な血が付着していた。リビングルームでルルはマタニティウェアの下半身を血で染めたまま背を丸めて泣き続けていた。

 ハーゲンは両の手に血を付けたまま、ルルの介抱をしたり、エマージェンシーコールをかけたりしたので、部屋の所かしこに血液の赤い痕が付着していた。

 流産だった。

 臨月はすぐそこだった。新生児のためにハーゲンが先走って買ってきていたベビーベッドや、小さなくまやうさぎが吊るされたモビールのおもちゃも二人の家には既に用意されていた。それに、ルルとハーゲンは子守歌を歌えるようになっていた。最初は恥ずかしがって嫌がったハーゲンですら、今ではゆりかごに揺られるライオンの赤ちゃんの子守歌や、狼と羊の冒険の歌、シマウマやゾウのレパートリーまでも歌えるようになっていた。二人は、やがて訪れる新しい家族が「ねぇ、あれ唄って」と枕元で懇願したとしても困ることはなかった。

 あとは待つだけだった。

 二人は何をする必要も義務もなかった。二人の意志と覚悟はあの夜にもう試されていた。世界からの福音を、正当な幸せの訪れをただ待つだけだった。――二人に何かを為す術なんてもう何も残されていなかった。

「ヨセフ、ヨセフ……」

ルルは生まれて来なかったその子供の名前を呼び続けた。

――――――。

 葬儀は親族だけで行われた。でも、それは本当に葬儀と呼んでよいものかは誰にもわからなかった。ヨセフは生まれて来なかったからだ。親族と少数の友人、そして、ルルとハーゲンだけが知っている命だった。いや、本当は遂に誰も知ることのなかった命だった。

 ルルは墓地の敷地を出ると、傍らに広がる麦畑をただ見つめていた。麦はまだ青く、これから来る実りの時を待ち望んでいた。ルルは、いつの間にか、ふらふらと彷徨うように麦畑の中に足を踏み入れていた。そして、いくつも覚えた子守歌の一つを口ずさんでいた。届くことのない唄だった。麦がざわざわとさざめいた。

 気がついたハーゲンは駆け寄ろうとしたが、すぐに足を動かすことができなかった。一瞬の妄想が両足を掴んでいた。ルルの姿が、いつかミレーの絵画の中に見たオフィーリアに見えた。狂気の歌を口ずさみ川に流されていくオフィーリア。悲しみの中で狂ってしまったハムレットの恋人。

 ハーゲンは自信なくルルの肩に手を当てた。ルルはまたその場で嗚咽し始めた。そして、生まれて来なかった子供の名前をまた何度も呼び続けた。

         *

 私は震える手でノートを机の上から払いのけた。ガラス製のペン立ても床に落ち、硬質で脆い素材が砕け、ペンがばらけ、弾け、叩きつけられる無数の音が書斎に響いた。

「どうした」

 ヨーゼフが書斎の扉を開け私のもとに駆け寄った。

「……こんなのおかしい。どうして? どう書こうとしても酷い結末になってしまうの」

 ヨーゼフは焦燥した様子で何があったのかを私に問いただした。私はルルの身に起きたことと、それが、自分のストーリーテーリングでは変えようのないことを嗚咽のなか訴えた。ルルが何かの選択を間違えたわけでもなく、意志を違えたわけでもなく、また、物語世界が劣悪なわけでもなかったことを叫んだ。全てが正しく進展していた。間違いなど何もないストーリーだった。悲劇への伏線などまったく存在していなかった。悲劇に陥る理屈など一切存在しなかった。

「ララ、落ち着くんだ。ララが書いているものはフィクションだ。悲劇に見舞われた被害者なんてどこにも存在しない」

 ヨーゼフは酷く動揺しながら私を諫めた。そして、リビングに私を連れて行くと、温かいミルクを手渡して告げた。

「ララは少し疲れているんだ。よく考えてみればこれほど小説を書くことに執着したり何か影を見たと思い込んだり――それは心が普通ではない時の症状だ。いいかい? しばらく小説を書くのはやめだ」

 私は返事をすることなく俯いたままでいた。


  9


 次の日の夜だった。

 私はヨーゼフとヨセフが寝静まったことを確認し、一人、書斎に篭っていた。眠ろうとしても、枕元で「書け」と急き呪詛を吐く亡霊が寄り添うような、そんな強迫観念が襲っていた。いつしか、ベッドを抜け出しルルの人生の続きを書こうとしていた。抑えようのない欲求だった。ヨーゼフの言葉は今の私には届かなかった。悲劇を迎えたルルの人生の物語をそのままにしておくことなんて私には到底できなかった。それに、ルルの人生を知ることは、対照的にこの私の現実の人生の意味を浮き彫らせることにさえ思われ始めていた。私にとっても重要な現実の一部になり始めていた。

 ノートを机の上に広げる。

 息を深く吸い込む。それを細く吐き出しながら、意識を閉ざし、右手に握っていたペンの先をノートに当てると、自動的に浮かび始めた文脈たちを書き綴り始めた。

         *

 深夜だった。ルルが流産をして、もう八年の歳月が流れていた。物語は何も動いていなかった。まるで壊れた時計のようにルルの人生は沈黙してしまっていた。

 ルルは小さな書斎に一人篭っていた。心は空っぽだった。空っぽのまま一人、椅子に座り窓の向こうを眺めていた。微かな声でいつか覚えた子守歌を口ずさんでいた。

 ハーゲンが扉を開け、言った。

「ルル、もう、真夜中だ。眠った方がいい」

 だが、ルルはうつろな瞳のまま的外れの応えを返す。

「だめよ。ヨハンが初めて言葉を話したの。何て言ったと思う? 『わんわん』って言ったのよ。ママでもパパでもなくて動物のことを話すなんてヨハンらしいと思わない?」

 ハーゲンはルルのその言葉を聞くと深く俯いたまま言った。

「……ルル。ヨハンは、もういないんだ。生まれて来なかったんだ。もう随分と長い時間が経った。ルル。君は君の人生をまた歩き出さなければいけないんだ」

 ルルは俯いたまま無表情で言った。

「……書斎から出て行って」

         *

 私はペンを止め、気がついた違和感に意識を取り戻し、集中した。

 ――ルルは何故、ヨハンが初めて喋った言葉を知っているのだろう?

 そう思ったあと、すぐにそれは違和感に資する奇妙なことではないと察した。当然だ。この小説を書いているのは現実のヨハンの母であるこの私だ。作者が知っていることを作中の主人公が話したところで、何の矛盾があるわけではない。だが、完全に違和感をぬぐい去ることは遂にできなかった。そういう理屈で解決できることとは違うと感じた。そうでないにせよ、このままでは小説のプロットが崩壊してしまう。ルルがどこからこの私ララしか知りえない人生の記憶をえたのかという整合がとられなければストーリーの破綻は免れない。そんな思いが焦燥として突き上げた。

 しかし、すぐに、あるアイデアが想起された。ストーリーを整合させるシンプルな発想だった。


 ――[#傍点]ルルも私と同じように小説を書き生まれなかった双子の片割れの人生を、この私ララの人生を覗き見ている[#傍点終わり]。


 四肢の血が引き、脳の一点に集まっていくような緊張が走った。

 そのとき、書斎の扉が開きヨーゼフの声が響いた。

「ララ! もう小説は駄目だって言ったじゃないか。こんな真夜中に……。君は今、どう見ても普通の状態じゃないんだ」

 真剣な目が見つめた。切迫した声だった。

 だが、私はひるむことなく、張り詰めた声で言った。

「――一体、何が普通なの? どうして普通でいられるの?」

 私は堰を切ったように捲し立てる。

「私にはわからないの。ルルは何かを間違えていたの? あの時ルルに何ができたと言うの? 物語はなぜルルから幸せを奪ったの?」

 ヨーゼフはまったく理解できないといったふうに顔をしかめ、一瞬、言葉を詰まらせたあと、言った。

「ルルさんは……ルルは初めからいないんだ。ハーゲンだってそうだ。もうこの世界にはいない。君は起きえなかった何かの……過去の亡霊に憑りつかれている。いるのはヨセフだ。君の、ララの息子だ。そのノートに書き殴られた空想の世界には遂に生まれなかった子供が、今、この、ララの現実の世界には確かに存在するんだ。何と向き合うべきかもう一度考えるんだ」

 ヨーゼフは絞り出すように言った。きっと心からの言葉だった。それでも、私は言った。

「私の人生は幸福なものなの? 不幸なものなの? 成功なの? 失敗なの? 私は、今、無限にあった可能性のどこにいるの? 無限の中のうちのいまここに押し込められたのは何故? 誰が何をもって決めたの? ――私は知りたいの。知る必要があるの」――知る以外には何もないの。

「わからない。君が言っていることが、僕にはわからない」

 わからなくて当然だと思った。私自身、薄皮を破裂させ噴き出した水流のようにのべつまくなしの言葉を羅列しながら、なぜ、それをそのように叫んでいるのか頭では理解できていなかった。ただ、胸で飽和し、破り出た想いを叫んでいるだけだった。でも迷いはなかった。そうすべきだと感じた。動物的な熱感に身をゆだねるべきだと直感していた。

 私は半ば突き飛ばすように、ヨーゼフを書斎の外に追いやり、扉を閉め、施錠した。

 外からヨーゼフが扉を叩き私を呼ぶ声が聞こえていた。私は構うことはなかった。目の前に書きかけの物語があるだけだった。

 ――世界は私たちの人生を裏切り続けている。正しい世界と環境の中で、正しい意志と覚悟を表明したとしても、悲劇は伏線なく、正当な道理すらなく私たちの人生を襲う。そして、私は、そんな世界の振る舞いに対して常に不可知だった。盲目と沈黙を強いられ、しかし、そのことに気がつくことさえできずに、大切なものから順に奪われていく様を黙認しているだけだった。――今、この瞬間にも、世界は、この私から何を奪っている?

 きつく握りしめたペンの先をノートに押し当てる。

 激昂する鼓動が身体を駆け巡る。

 強迫観念のように襲った、別の人生の物語への欲求は、怒りともいえる熱に変わっていた。私は胸の内に溢れ出す言葉の塊を力まかせに書き綴り始めた。

         *

 ルルは書斎に篭り、机の上にノートを開いた。古びてボロボロになったノート。ヨセフの流産以降、八年間、慰みのように物語を書き続けてきたノート。ヨセフが生まれた世界の物語。双子の片割れのララが生を得た世界の物語。ありえなかった母子の物語。

書斎の外からハーゲンが仕切りにドアを叩いていた。だが、ルルはそれに構うことはなかった。

 ――今、ルルがやるべきことは一つだった。知ることだった。

 ルルの人生を根底から支配する何者かを、物言わぬ世界という怪物の正体を、物語の中に引きずり出そうとしていた。ルルの人生を影から翻弄するありとあらゆる全てが、その沈黙を破り、語り始める瞬間を知ろうとしていた。

 そして、また、ルルは気がつき始めていた。自らが書く物語の中に自分とは別の意志が存在している可能性を。


 ――[#傍点]ララも私と同じように小説を書き生まれなかった双子の片割れの人生を、この私ルルの人生を覗き見ている[#傍点終わり]。


 ルルはララの人生の続きを書く必要があった。ほとんど理屈のない欲求だった。だが、それは、ありえた可能性という亡霊に苛まれるルルが、唯一、世界に対峙し得る方法なのだと直感していた。ルルはきつく握りしめたペンの先をノートに押し当てた。そして力まかせに書き殴り始めた。

         *

 ララはそのシーン――ルルが力まかせにララの物語を書き殴り始めた場面を書き終えたとき、予感が確信に変わるのを感じた。

 ――ララが書く物語の中で、ルルはララの人生の物語を書いている。そして、その書かれた物語の中で、ララはルルの人生の物語を書き進めている。相似形の現実と幻想の中で互いが互いの人生を覗き見ている。

 今まで見ることすら叶わなかった世界の影が――それが可能性というものなのか、時空というものなのか、運命というものなのか、理というものなのか、言い当てることはできなかったが、人生を司る巨大な力学が物語の中に投影され、その輪郭を露わにし始めていた。

 ――現実と虚構、リアルとフィクション、事実と可能性、生者と亡霊、その間に確として立ち塞がっていた物言わぬ壁が崩れていくのを、ララは目撃している気がした。決して交わるはずのない想像力の軌道が、現実世界の殻を破り、幾重にも交錯し、無限に自己遡及し、いつしか、引き返すことのできない巨大な特異点として立ち現れた気がした。

 ララは融解していく現実感の中、ふと、顔を上げた。

 何度目になるのかわからないデジャヴの感覚の中、机の向かいに、初めて目にした、しかし、何度も目にしたその影があった。

 ララに向かい合い、同じノートに物語を書き進める影――ルルの姿。ララは取り乱すことはなかった。目の前のルルがそうするように、激情に身を任せ物語を書き進め始めた。

         *

 ルルはそこまで書き終え、しかし、ペンを止めることなく思った。それまでルルが街角で見ることのあった影の正体が何だったのか、今、物語の中でララが察したことでわかった気がした。

 そして、思った。

 ――ルルもララも、きっと影だった。互いに亡霊に憑りつかれた亡霊だった。影に射した影だった。

 今や、自分もララも、人生を影たらしめた何者か――物理世界そのものといったものに対峙していた。壁を越え、亡霊同士が、可能性の波を伝い、ありえなかった物語を介して繋がっていた。虚数同士が掛け合わさり、初めて実体を得、今まで気がつくことさえできなかった確かな実感に触れていた。

         *

 ララは、今まさに目の前のノートに書き上げたルルのその想いの全てを理解した。感覚は極限にまで研ぎ澄まされていた。既に、ララは現実の自分の手触りさえ見失い始めていた。既に第一視点は失われ、主観と客観は区別をなくしていた。――それでも、構わなかった。ただ書くことだけが、ありえなかった物語だけが、現実を威圧し、脅し、退け、押しつぶし、破壊していた。初めて打ち勝っていた。小さな書斎の中には、物理的実体は何もなく、叙述だけが留まることなく続いていた。

 そして、ララは、ある一瞬、遂に、何かが、至り、完成するのを感得した。

 身体のうちのどこかにあった最後の壁の一画が崩壊する。充満しきっていた熱が飽和し、破裂し、空間に浸透していく。

 ララの、精神の、身体の、書斎の、街の、宇宙の、時空の――あらゆる現実の壁を破壊し、光速を超えた何かが波状に広がっていく。一瞬一瞬に身体が世界に侵食し、融合し、強力なモーメントをもって渦巻き始め、やがて、極小だが、無限の奥行きをもった一つの特異点に収束していく。収束していく……。


  10


 ――。――――感覚。――定期的な感覚。リズムで刻まれる感覚。波間で漂う感覚。

 ……いや、違う。――体感。何かを揺さぶられる体感。誰かの手が私の肩に触れ、揺り動かされている時の体感。

 私は蘇る現実感の中、ゆっくりと瞼を開いた。そして、自分が書斎の机の脇に倒れていることを認識した。

 肩を揺さぶっていた誰かが背後から覆いかぶさるようにきつく抱きしめて言った。

「物語はもうお終いだ。現実を生きるんだ。この世界で生きていくんだ」

 低く、少し枯れた、涙混じりの声。聞き覚えのある男性の声。私のことを誰より愛している人の声。物語ではない現実の声。

 私は横たえていた体の上半身を起こした。

 書斎の窓から、朝日が差し込んでいた。部屋の中には色彩が、輪郭が、豊かに、鮮明に浮き上がっていた。去年の春に購入したペルシャ模ようのカーペット、植物のレリーフが刻まれた真っ白な壁紙、ウォルナット調の大きな本棚、実家から持ち込んだ古い物書き机……。

 忘れていた感覚が身体に満ち始めていた。長く見失っていた現実の手触り。世界から差し込む光。眩しさをうける時の網膜の痛さ。

 私は朝日に目を細めながら告げた。

「――長い夢を見ていたような気がする。今、どうしてそう思えるのかわからないけど……もう物語は書かないわ」

 背中越しに、小さく頷く感触が伝わった。私をいたわる生きる者の息遣い。

 ――私は、現実を生きなければならない。

 いつの間にか、そんな思いが心のうちに満ちていた。私に憑りついていた亡霊がどこかに去っていく気配を感じた。どんなに濃い影も、朝日に照らされ、現実の輪郭を取り戻していく。まるで何事もなかったかのように。予定調和のもと約束が果たされるように。

 私は、世界と身体の間に調和と秩序が取り戻されていく狭間で思った。

 ――私はこの世界と人生との関係についてやはり何も知らない。知りえない。理屈も理由もなく悲劇は訪れる。誰が何を説明し、物語ることもなく、何かは勝手に奪われていく。そしてある日やっとそれに気がつき、嘆く。その不条理を叫ぶ。でも、どれだけ叫んでも、運命は変わらない。何も変わらない。悲劇を受け入れることも、受け入れないことも、そんな選択すら関係なく、人生はただ続いていく。でも、どうだろう。この現実の世界の確からしさだけは、今、ここに、そうあるように、残り続けている。

 それで良い気がし始めていた。結局のところそれ以外に確かなことは何もない。しかし、それだけは確かなことなのだ――そんな、トートロージーに陥った思考の反復が結論を得ぬままに、しかし、遂に諦念という輪郭を獲得し始めていた。

 ――現実に亡霊は存在しない。物語は現実を超えない。だからこそ、私の目の前に広がるこの世界の光景こそが最も確かなものなのだ。どれだけの可能性と妄想が氾濫し、亡霊が跋扈したとしても。

 私は立ち上がり光の射す方へ歩いた。窓辺から光で照らし出されたベルリン市を眺めた。

 [#傍点]西から東の果てへ遮るもの一つなく街の景観が広がった[#傍点終わり]。

 私は振り返り「もう大丈夫」と言って彼に抱擁をした。

「もう物語の世界に生きるのはやめにする。この現実の世界を生きる」

 そして、全てを祝福するかのように小さく呟いた。疑念し、恨み、対峙していたこの世界と改めて和解するような、もう一度この世界を信じ始めるような、そんな思いで呟いた。

 ――この現実は、この世界だけはきっと確かなものだから。

[#地付き]了




  結合双生 梗概

★0章の梗概は割愛(新聞記事転載の形式でSFガジェットおよび思考実験テーマを提示:一つの量子脳(微小管)を共有する結合双生児は何を体験するのか)★

 出産を控えたララ【人物1:主人公 30歳女性】はある不安を抱いていた。やがて生まれる子供に、双子の妹ルルの影を見てしまうのだ。――ララが生きる二〇二〇年、冷戦下東ドイツベルリン市に妹ルルは存在しない。母の子宮でララの身体と結合し、その姿は影のように消えてしまっていた。ララは心のどこかで、自分の代わりにルルは生まれなかったと罪の意識を抱いていた。しかし、出産はうまくいき男の子ヨハン【人物2】が生まれ、妹ルルの影を忘れ夫ヨーゼフ【人物3】含めた三人家族として平穏な生活に戻っていった。

 だが、ある冬の日、ララの家の門を昔の恋人ハーゲン【人物4】が叩いた。かつて、ララはハーゲンと婚約をしていた。しかし、ハーゲンは三次大戦に出向き、ほどなくしてララのもとには戦死の通知が届きララはヨーゼフと結婚をした。しかし、ハーゲンの戦死の報は誤りだった。ハーゲンはララが既に家庭をもつことを知ると身を引いた。その数カ月後、新たに旅立った戦場で戦死する。これを転機にララの精神は失調する。

 ララは、本当はハーゲンと結ばれたかった欲望と妹ルルへの罪悪感の投影として、自身が妹ルルになり、ハーゲンと結ばれ、さらには、一九八九年にベルリンの壁が壊れた平和な世界で仲睦まじく生きる夢を見る。また、ベルリン市街で不思議な影を目撃するようになる。やがて、ララはそれらからえたインスピレーションをもとに自動書記で、ルルとハーゲンと一九八九年にベルリンの壁が壊れた世界という題材でフィクションを書き始める。

 フィクションでは冷戦は一九八九年に終わっており、世界は資本主義と自由主義、平和と豊かさの中にあった。三次大戦も起きていなければ、あらゆる歴史の経緯が、ララとルルの誕生年である一九八九年を境に違っていた。たとえば、ララの部屋の窓からは壁が遮りベルリン市街を展望できなかったが、ルルの部屋からは平和な市街全部が見渡せた。

 ララは自分が叶えられなかった理想を小説の主人公ルルが叶えることに幸せを感じ始め、また、自動書記で進む小説もついにヨセフを身ごもり幸せのピークが展望された。

 しかし、小説は悲劇を迎える。ルルは流産をした。小説世界の中でララの現実のようにヨハンが生まれることはなかった。ララは小説の中のルルと同じく悲嘆に沈んでいくが、絶望と怒りの中、小説を自動書記し続ける。そしてある時、小説内のルルが生れなかったヨハンが初めて喋った言葉を知っていることに気がつく。そしてあるパラノイアが巣食う。

 ――ルルもまた私と同じく小説を書きこの私ララの人生を垣間見ている。

 ララはある夜半過ぎに、「ルルがララを主人公にした小説を執筆するシーン」を書き始める。すると、『ルルがララを主人公にした物語を書き進める中で、ララがルルを主人公にした物語を書き進める……』と入れ子構造の叙述が続き、ララ(あるいはルル)は何が現実の世界だったのかを見失い、やがて、気を失う。

 気が付いた時は朝だった。書斎に朝日が差し込み、背中越しに自分を愛する夫(ヨーゼフかハーゲンかは明記しない)が「現実を生きてくれ」と泣いていた。彼女(ララかルルかは明記しない)は小説を書くのは止めると宣言し、虚構ではない現実を生きることを決心する。――虚構は現実に勝らない。爽やかな諦念の中、窓からベルリンの街を眺める。そこに壁は存在していなかった(オチは次の読みが可能①単に壁が移設②ララは完全に虚構に自閉、③虚構に自閉していたルルが治癒、④ララとルルの魂が交換)。

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結合双生(身体知篇Ⅰ)_2017作 トーリック.V チャイカ @miyateru

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