後編

 珍妙な顔で漫画をくわえている僕は必死に言い訳を考える。


「に、忍者だから?」

「忍者?」


 自分でも何を言っているのか分からない。

 意味もないのに、そうっと漫画を音を立てないようソファに置いた。

 「ふーん」と興味無さそうな顔で本棚の前を通りすぎる彼女の横顔を、乾いた笑みで見つめる。


「は、早かったね……」

「そう? もう一時だけど」


 はっと気づいて掛け時計を見た。確かに約束していた十二時をとっくに過ぎていた。

 部屋の隅の折りたたみ式のテーブルに置いたスマートフォンを確認する。薬局のビニール袋の隣に無造作に放り出されたそれは、病院だからとサイレントモードにしたままだった。

 SNSの連絡が四件。着信が二件。すべて彼女だった。

『お昼、外行く?』『何か買っていく?』『もしかして寝てる?』『今から行くね』

 漫画に夢中でまったく気づかなかった。


「全然、連絡無いから、心配したよ」

「ごめん……」

「インターホン押しても出ないから、合鍵使っちゃったけど、良かった? 勝手に入るのは初だね」

「う、うん。その為に渡したし、全然」


 彼女が「そっか」とつぶやく。怒っているようには聞こえなくて、どこか楽しそうな雰囲気が背中に漂っている。


「時間なかったから、パンだけどいい? 外行く?」

「パンでいい」

「そっ」


 台所でビニール袋の中を探す音と共に、彼女が何種類かのパンを取りだした。壁の隅のテーブルを引っ張り、ソファと本棚の中央に移動させて即席の昼食が始まる。

 僕は干上がった喉を紙パックのジュースで潤し、何もかも呑み込むようにクロワッサンにかぶりついた。


「薬あるけど、どっか悪いの? 風邪?」

「うーん……おとといぐらいから、喉が痛くて」

「見たげよっか? 一応、私、看護師だし」

「あっ、大丈夫だから、ほんとに! 薬飲むから」

「そう?」


 彼女の言葉に、僕は勢いよく首を振った。それができないから、わざわざ離れた耳鼻科に行ったのだ。

 僕が抱えている一番重い問題は――彼女にどう自分の秘密を打ち明けるべきか、ということだ。

 正直にミュータントと伝えられればいい。

 けれど、数が増えたと言ってもマイノリティだ。人間社会に受け入れられたといっても、毛嫌いする人も当然いる。初老の医師のようにあからさまな態度を取られることもある。

 おっとりした性格の彼女なら、ストレートに伝えても気にしないと思いたい。

 でも――言えない。

 いずれ話さなくてはと思いつつ、彼女の顔が豹変するのが恐ろしくて、僕は今日も先送りにする。


「昨日の夜勤は、どんな感じだった?」


 当たり障りのない話に誘導する。彼女が、少し腫れぼったい目をしている。この時間に僕の家に来たということは、仕事が色々と伸びたのかもしれない。

 彼女は、「うーんと、昨日はね……」と話に乗ってくれた。

 どうやら、本をくわえた僕のことは不思議に思わなかったようだ。

 内心で、ほっと胸を撫で下ろした。



 ***



「眠いんだったら、ベッド使ったら?」

「ううん、大丈夫。私も漫画読むから。読みかけの巻あるし」


 ゴミを片づけた僕は、ソファに力なく座った彼女を見つめる。珍しく、にへらとほほ笑む彼女が甘えた声で言う。


「三巻取ってー」

「はいはい」


 タイトルは聞かなくても分かる。三日前、帰る寸前に読み始めた漫画をとても名残惜しそうに片づける彼女の姿を覚えているからだ。

 僕は、まとめて四冊抜き取り、ソファに置いた。いつもの癖で座ろうとして、自分が何も持っていないことに気づく。


「自分の分は?」


 当然の疑問だった。

 きょとんと可愛らしい表情を浮かべる彼女の視線が突き刺さる。

 一瞬、秘密を知られたような居心地の悪さを感じ、しどろもどろで答えた。


「そ、その漫画読み直そうかなって」

「さっき、読んでた漫画は?」

「あー、あれはちょっと今は違う気分……それにその漫画って五巻あたりから面白くなるから、つい読みたくなって」

「えぇー、ネタバレ?」

「違うって……この先も期待できるってことで」

「ふーん、まあいいけど」


 彼女はそう言って、三巻を手に取って開いた。両足をソファに上げ、三角座りの要領で膝を抱えて読む。

 ソファの上では逆にしんどいのではと思うのだが、彼女の一番落ち着く姿勢らしい。

 僕は、午前中に読んでいた漫画に後ろ髪を引かれながらも、彼女と同じ漫画を開いた。



「ねえ、一つ聞いていい?」


 彼女が一冊読み終えたらしい。

 自分の隣に三巻を置いた彼女は、抱えた膝をさらに抱き寄せ、頭をそこに乗せて僕の方を見た。

 ちょうど、漫画に気持ちが入り込み始めていたところだった。視線を向けずに生返事で答えた。


「漫画の背表紙が傷んだり、濡れた跡みたいになってるのって、さっきみたいにくわえちゃうから?」


 僕はとっさに力いっぱい漫画を閉じた。

 パタンという室内の空気を壊す音と共に、勢いよく首を回した。


「……なんで、突然そんな話?」

「だって、さっき本くわえてたから。ワンちゃんが骨をくわえるみたいで、可愛かったから。そうなのかなあって」

「可愛かった? そうか……」


 背中に冷や汗が噴き出たが、彼女にとっては愛嬌のある姿に見えたらしい。


「なんで?」


 彼女のブラウンの瞳が好奇心で輝いている。

 どうして本なんかくわえるの? 誰だって抱く疑問だ。けれど、答えようがない。

 視線を逸らして消え入りそうな声で言った。


「僕ってちょっと変わってるみたいで……」

「どの辺が?」

「そ、その……たまに本をくわえたくなるとか」


 苦しい言い訳だ。まったく説明になっていない。食べるわけでもなく、単に本をくわえたいなんてどうかしている。

 恐る恐る彼女の顔を窺う。

 幸い引いている様子ではないが、納得している表情とも言い難い。


「それだけ?」


 他意の無い純粋な疑問。背中を押されるような感覚の中で、僕は思わず一歩話を進めてしまう。それが自分の首を絞めることにも気づかずに。


「ちょっと……舌が人より長い……」

「どれくらい?」


 ここまで興味を持たれるとは思っていなかった。

 しかし、不自然に打ち切ると怪しまれてしまう。

 僕は、針に糸を通す際の何倍もの集中力を発揮して、固く閉じた唇をほんの少し割り、そろーっと舌を伸ばした。敏感になった舌先に空気が触れる。

 これで、普通の人の長さプラス一センチぐらいのはず。


「終わり?」


 さほど驚く様子は無かった。拍子抜けした僕は、素早く舌を引っ込め、口の中でもごもご転がす。


「もう少しなら伸びるかも……」

「やってみて」

「え?」


 彼女がいつの間にか態勢を変えている。両膝をこちらに倒し、手をついて口元を見つめている。

 僕の額に脂汗が浮いた。


「わ、わかったから……ちょっと離れて」


 彼女を押し返し、お尻の位置を離す。

 そろり、そろりと舌を伸ばした。平均プラス二センチはいっただろう。もう普通の人の長さは十分越えたと思う。

 口内で舌の付け根がぷるぷると震え始めた。

 ゆっくり伸ばすと、舌の自重で先が顎の方に曲がりそうになる。直線を保つのはここら辺が限界だ。

 素早く、舌を吸うように引っ込める。ちゅるっという音が響いた。


「それだけ?」

「あとは……舌を巻ける」

「どんな風に?」


 彼女はさらにぐいぐい来る。

 僕は再び舌を伸ばして、くるっと舌を巻いて口の中に収納した。

 わずかに目を輝かせた彼女だが、


「確かに長いね。もしかして……キス嫌がるのってそれが理由?」


 心臓が変な音を立てて二度跳ねた。

 何だかんだと言い訳して、ソフトキスに留める理由に気づいてしまったらしい。

 とっさにうまい返しが思い浮かばない。

 時計の針がカチコチとバックミュージックを演奏する。

 彼女が小さくため息をついた。


「別に、それくらいいいのに」


 彼女が頬を膨らませて本棚の方に向き直った。

 それくらいじゃないんだよ――僕は、背筋が冷たくなる感覚の中で、無味乾燥な笑みを浮かべた。


「そんなの、変わってるうちに入らないって」


 彼女が立ち上がった。

 冷蔵庫に向かい、コップにミネラルウォーターを注いでいる。一杯、二杯。喉を鳴らして飲み干す音が終わった。


「あのね……」


 彼女はソファに掛けて背筋を伸ばした。太ももに手を置きまっすぐ前を向く。

 緊張感を滲ませる横顔を訝しく思って声をかける。


「どうかした――えっ?」


 シュッ、ピタッ、パクン。

 自分の目の前で、見慣れた動きが行われた。

 一つ違うのは、受け止めた本が縦――彼女は自分の首を曲げて本を受け止める方法だった。

 唇を内側に巻いてくわえる手法もそっくりそのままだった。

 呆気に取られて言葉を失う僕に、彼女は本をソファに置いて、はにかんだ。


「……私も……できる」

「な……なんで?」

「私……カエルのミュータントだから。君は?」

「……カメレオン」


 彼女はくすくすと笑い始めた。僕は膝から崩れるようにソファにもたれかかった。

 付き合い始めてからため込んでいた不安やストレスが、堰を切ったダムのように流れ出した。


「ずっと……言えなくて……今日、君が漫画くわえてたの見てさっきようやく決心したの」

「そうだったんだ……」

「嫌われたら嫌だから」

「それは僕も一緒」

「本の背表紙見て、もしかして、ってずっと思ってた。似た者同士かなって」

「寿命縮んだ……」

 

 完全にソファに倒れ込んだ僕を上から見つめて、彼女は、柔らかく微笑んだ。


「さっきみたいな横着って小学生くらいまでしかやらないでしょ。大人になってまではしないよねって思ってたから」

「お言葉ですが……僕はずっとしてる」

「唾液ついちゃうし、傷むからやめよ。代わりにこっちに……ね?」


 彼女はそう言って、唇を近づけた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

霊長目ヒト科ミュータントの憂鬱 深田くれと @fukadaKU

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ