霊長目ヒト科ミュータントの憂鬱
深田くれと
前編
耳鼻科の古めかしい診察室で、初老の医師が僕の首に両手を当てた。
「リンパが腫れてるね。喉見せて」
舌圧子と呼ばれるアイスクリームに付いているスプーンに似た道具を開封し、開けた僕の口に突っ込む。
と同時に、
「ああ、ミュータントの方か。最近多いね」
医師は悪びれることなく言い、軽く鼻を鳴らした。医療用のペンライトで喉奥を照らし、「少し赤い程度かな」とわずかに不機嫌さを滲ませる。
「炎症を抑える薬を一応五日分出しとくから」
「ありがとうございます」
なんとなくもやもやした気持ちになったものの、丁寧に頭を下げてスツールから立ち上がった。看護師の「お大事に」という声を背中で受け止め、スライドドアを通り抜けて待合室に出た。
診察料を手早く払い、処方箋を受け取って外に出る。色褪せたカエルに似たマスコットが目を引く薬局に滑り込み、少量の薬を受け取り帰路についた。
世界には色々な人がいる。足が速い人、器用な人、お腹が弱い人もいれば、病弱な人もいる。その点、僕はどれも人並みで、平凡だった。
一点を除けば。
僕はミュータントと呼ばれている。
ミュータントとは突然変異という意味だそうだ。
ある日、人間の中に変わった特性を持つ者が現れた。異様に爪が伸びて硬質化したり、オリンピックの走り幅跳び選手が子ども扱いされるほどジャンプ力があったりと。
種類は千差万別で、数も爆発的に増えた。
まことしやかに囁かれていただけの都市伝説が、SNS上で実話として一気に拡散されると、ミュータントの存在は数日で明るみに出ることになった。
世界はミュータントの話題で荒れに荒れた。
当然だろう。
普通の隣人だと思っていた人が、動物やら昆虫やらの特性を持っていると知れば不気味に感じるに違いない。人目に触れない箇所ならまだいい。けれど、目立つ箇所に発現した人は注目の的になる。
何年かかけて、そんな混乱がようやく落ち着いた。
人間は生物学上、「ヒト科」に属するそうだ。「ヒト科ヒト亜科ヒト属」。ミュータントを新しく分ける話もあったそうだが、結局今までと同じ分類にしたそうだ。
つまるところ、人間の中にいる一種の変わり者と認識されたわけだ。
僕の住居は安い賃貸アパートだ。壁が薄く、台風が来ると家ごと吹き飛ばされるのではと心配するほどの揺れに襲われる。
大きな音を立てて音楽はかけられないし、大型の液晶テレビを置く気にもなれない。
けれど、本棚だけは大きい。
天井ほどの高さの幅百二十センチの棚が二つ。本を収納するには結構な大きさだ。
右の棚が新書や文庫。左の棚が漫画と決めている。手当たり次第に読んだ時期があり、もうスペースの余裕はないが。
電子書籍はなんとなく味気ないから好きになれない。いずれ本が増えてきた時には諦めて引っ越そう。
「まだ、大丈夫か……」
昨晩、昼食を一緒に、と電話してきた彼女のことを考える。
朝一番に病院に駆け込んだおかげで、約束の時間までには十分な時間がある。久しぶりに小学校時代に好きだった漫画を読み直そうと決めた。
巻数が多すぎて、全部は難しそうだから、
「十二巻あたりからかな」
二人掛けのソファに掛けた僕は、独り言をつぶやいた。
そして、対面にそびえ立つ左の本棚の中ほどを睨む。
「今日は一発で行くぞ」
距離、約百八十センチ。狙いを定め――
シュッ、ピタッ、パクン。
どこかで聞いたような陳腐な音と共に、僕は唇を内に巻いて、引き寄せた漫画の一冊を咥えた。
「喉が痛い割には調子いいな。一発じゃん」
少し気持ちが上向き、病院で感じたもやもやが晴れた気がした。
僕はカメレオンのミュータントらしい。それも、舌だけの。
残りは正真正銘人間のもので、ちょっと長い舌と舌先に粘着力を持っている変わり者。厳密には喉奥に舌を収納する機構があって、喉がやや膨らむのだ。
こんなの何の役に立つんだよ、と毎日愚痴をこぼしていた時期もあったけれど、しばらくするうちに気持ちの整理はついた。
だって、仕方ない。
無いものねだりができないのと同じで、備わったものを消すことはできないのだから。それなら有効活用してやろうと、少しやけくそ気味に練習したのが今の技だ。
本を捕る技は、簡単そうに見えて実は非常に難しい。
まず、狙いがそれるのが当たり前。
左右のズレの調整はもちろん、舌は伸ばした瞬間から自重と引力で下に落ちていく。距離が長ければ落ちる角度を計算してやや上向きに伸ばす必要がある。
さらに、強い粘着力で引っ張るため、カバーを付けたままの本は引き寄せた瞬間に中身が落ちるので、最初にカバーを取り外しておかないといけない。おかげで、僕の家の本は、すべて剥き出しの状態だ。
まだある。
本棚に立てた本を引き寄せるので、そのまま縦で顔に飛んでくると、パクンと口で受け止められずに顔に当たる。だから、わずかな引き寄せ時間の間に、舌を九十度ひねって横向きに変えるという高度なテクニックが求められる。
汚い話だが、本にできるだけ唾液がつかないよう、唇を内に巻きこむのもポイントだ。
ただ、人に見せられる技でないことと、繰り返すとどうしても背表紙が傷むので、お気に入りの本ばかりが傷つくことが問題だ。
僕は陽気な気分で、漫画を開いた。
敵に囚われた仲間を、必死の思いで救いにいく。空想の世界でしかありえないと思いながらも、胸が熱くなる。
何度も読んだ。
すぐに読み終わる。その巻を隣に置いて、再び本棚に狙いをつけた。
シュッ、ピタッ、パクン。
今日は本当に調子がいい。
物語がのってきたところで、何度も意識を本棚に向けるのも興ざめなので、さらに三冊ほど引き寄せる。
シュッ、ピタッ、パクン。
シュッ、ピタッ、パクン。
シュッ、ピタッ、パクン。
マジックハンドのような遠くをつかむ道具よりも優れていると言っていい。スピード、正確性。熟達するとかなり便利だ。
僕は、瞬く間に手元に引き寄せた本を読み終えた。
こんなことなら、さっきの倍くらい取っておけば良かった。自分の迂闊さを呪いながら、流れ作業のようにさらに一冊を引き寄せる。
シュッ、ピタッ、パクン。
「なんで、本をくわえてるの?」
唐突にかけられた声に、心臓が跳ねあがった。慌てて視線を向けると、扉の前に不思議そうに首をかしげる彼女が立っていた。
切りそろえられた前髪がさらりと揺れた。
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