6 :覚悟が決まっていないなら誰だって狼狽えるもんだ
……嘘でしょ。
全力を込めた『ギフト』が、受け切られる。
正味三秒の高圧は、敵をわずかに押しのけただけで、両手で掻き払われてしまった。
霧散した水滴に西日が虹色に拡がり、獰猛な姿のジェントル・ササキを彩る。
その後ろでファンクラブの皆さんが、
「くそ! ジェントル・ササキめ! どれだけ俺たちの前に立ち塞がるんだ!」
「貴様さえいなければ、俺達が浴びることができたのに!」
「十四歳の体内で生成された水分なんだぞ!」
……虹越しとか、すごく幻想的な『ばっちぃ』物ねぇ……
いやいや、げんなりしている場合ではない。
眼前の脅威が、一歩を踏み出したのだ。
「決着をつけるぞ、プリティ・チェイサー」
低く硬い声が、少女の背筋を震えさせる。
この場合、決着とは『普通の女の子に戻ります』攻撃をされるということなのだ。単位は一撃ではなく『一発』のそれを。
……こわい……!
……いやだ……!
狼狽が背筋から四肢へと広がる。首筋から頬と眉尻へ至るが、負けず嫌いな自尊がどうにか押さえつける。
しかし、体は恐怖に重く、目敏い敵は怯みを見咎めて、
「っ!」
暇を与えずに、飛びかかってきた。
最大の一撃を防がれたいま、こちらに抗うすべはない。
細く華奢な喉を、濡れた右手で鷲掴みにされ、
「っいや……っ!」
身をよじって抵抗するも空しく、少女の痩躯は男の突進に浮き上がり、
「きゃあぁぁぁぁぁっ!」
背にしていた瓦礫の山の中へ、叩きつけられてしまった。
※
衝撃と光量の変化から眩んだ視界が、輪郭を取り戻すまで幾ばくの時間が必要だった。
「うぅ……」
薄暗い瓦礫の下で、まず見えたのは、組み伏せた自分を見下ろす男性の、強い瞳。
精悍な、まあ整っていると言っていい顔つきで、状況から見るに、
「……じぇ、ジェントル・ササキ?」
「うん? ああ、マスクが……濡れていたから仕方ないね」
自分のギフトによって幾度の損傷を受けた紙袋では、衝撃に耐えきれなかったようだ。
素顔の魔法使いは、じっとこちらを見つめて、
「な、なによ!」
ちょっと『イケメンかな』とか考えたのが見抜かれたかと思って、顔が赤くなる。
「衣装を汚してしまった。状況が許さなかったとはいえ、謝らせてくれ」
「え?」
見れば、彼の右手首のあたりまで血がしたたり、滴が自分の胸元を染めていた。
「ちょっと、それ……」
「さっきの、君の一撃だよ。さすがだ。右掌の皮は、完全にめくれ上がっている」
そんな。
立ち振る舞いに変わりなかったから、無傷だとばかり思っていたのに。
「なんで……避ければ……」
「? 避けたら、背後の市民に被害が向かうじゃないか」
そうか。平和を守るという、彼の理念が許容できなかったのか。
「それに」
……それだけじゃなくて?
「君は本気じゃなかった。それなのに誰かを傷つけたなら、後悔すると思って」
……どういう、意味?
「わ、たしは本気だったわよ! 本気であなたを……!」
「殺そうとした?」
……は? いや、倒そうとはしたけれど……
「わかった。君たちの敗因は『覚悟』だ。俺は言ったよ。『覚悟をしろ』って」
それは確かに言っていたが『性暴行』への覚悟の話では?
「俺が言ったのは『殺す覚悟』と『死ぬ覚悟』だ」
……やべぇ、想定より一回り狂っていた。
途端、喉元を押さえつけている大きな手の意味合いが変貌する。
恐怖が、さらに根源的な恐怖に塗りつぶされていく。
自分でもわかる。目尻の涙が大きくなっているのが。
「君に『殺す覚悟』があれば、あの一撃で俺は死んでいた」
「……え? 現に倒せてないじゃない……」
「君のギフトにはおそらく、水圧カッター並の殺傷能力があるはずだ。ダイアモンドですら切り裂くとなれば、両手と一緒に心臓を貫いていただろう」
「いやいやいやいや!」
「そもそも、自由に水分を発生させられるなら相手の体内に作ればいいし、操作できるなら血流操作や体内水分を外向きに操作すればいい。一瞬で俺を肉片にできた」
「怖い怖い怖い!」
……発想とメンタルが『修羅』なんだけど!
「……俺だって怖いんだ」
不意に漏らした弱音に耳を傾けると、
「次に瞬きをした時、自分の体が弾け飛ぶんじゃないだろうかと……」
「しないわよ! そんな怖いこと!」
「なら、ここからは『君の覚悟が定まる』か『俺の海綿体が膨張するか』の勝負だな」
「大丈夫だから! そんな覚悟、決まんないから!」
「……いいのかい? そうでなければ、俺に『挿入』されるんだよ?」
「こっちのベットは『誰かが止めにくる』よ!」
「その可能性があったか!」
ササキの顔が一瞬で焦りにまみれ、
「くそ! 鎮まれ、俺の『理性と良識』! 法規制なんて足蹴にして進むんだ!」
二秒の間があって、
「ちっ……くしょおおおおおおおおお! 頭と下半身は別の生き物ってのは、本当なんだな! くそ、目の前にいるのは美少女アイドルなんだぞ! 動けよ! 動いてくれよおおおおおおおお! 助けてくれ、サイネリア・ファニーィィィィィ!」
「安心とか通り過ぎて、腹が立つわ!」
怒りにか恥ずかしさに、頬の火照りを覚えながら、とりあえず右ストレートを顔面に差してやった。
※
肩で息をする魔法使いは、とりあえず錯乱は収まったようだった。
依然、組み伏せられたままであるが、MEGUからもそれまでの極度の緊張は消えていた。
「……ねえ、さっきの覚悟の話だけど」
聞いた直後は、身の危険に思考が固まってしまったが、一息ついた今は疑問が浮かぶ。
「ぶっちゃけ、アンタも『殺す覚悟』なんてできてないんでしょ?」
あるというなら、たった今にもこの首をへし折ればいいのだから。
それを選ばない彼は、そうだなと、困ったようにはにかんで見せた。
「俺にできたのは『それ以外を行う覚悟』だけだね」
朗らかに話す姿は、
……頭がおかしいのは確実だけど。
どうにも憎めない気分になるのはなぜだろう。
胸の鼓動が、高く聞こえるのは一体はなんで?
「だけど……くそ、時間切れだな」
「え?」
「君たちのファンが動き出した。俺は組合の規定で、素顔を晒すわけにはいかないんだ」
三十歳童貞の身元を隠すための措置か。
「ここは引き分けにしておかないか?」
「……それじゃ、実質私の負けじゃない……」
女として、小悪魔系アイドルユニットのリーダーとして、自尊心は傷だらけだ。
呟きは、しかし届くことなく、彼はワイシャツを脱ぎはじめて、
「何、してるの?」
「アイドルなんだろう?」
「ちょっと……あ……」
シャツの綺麗な面で、血塗れの首元を拭われた
人肌のぬくもりがやけに心地よくて身を任せていると、
「そのシャツはあげるから、身支度を整えるんだ」
「え、ありがとう……いや、なんでアンダーシャツまで脱ぎはじめてるの!?」
「マスクの予備を切らしていてね。緊急措置だよ。いや、自分のうっかりが恥ずかしい」
ばつが悪そうに微笑みながら、頭に巻き付けていく。手の出血が止まっていないから、まだらな血染めが白いマスクを彩っており、
「……猟奇事件帰りよ、それ」
「よく言われるんだけど、俺にはユーモアが足りてないようなんだよね」
いや、比喩とか冗談じゃなくて、見たまま『怖い』って言ってるんだけど。
ササキは、気にした様子も見せずに立ちあがり、
「じゃあ、多分、もう会うことはないだろうけど」
「え? それって……」
「今日のはイレギュラーなんだ。俺は、基本夜の担当だから」
「ちょ、ちょっと!」
……なんだかわからない、もやっとした敗北感はこのままってこと?
「そのほうがいいんだよ。俺も本当は『子供相手』にはやりづらい」
傷だらけだったハートに、楔が打たれた。
敵の魔法使いは気にもせず、背を向けて瓦礫から這い出ていく。
残されたMEGUは、最初は呆然と、そして表情が崩れていくのがわかってしまって、
「……ぅ……っ」
手元に残された彼のワイシャツに隠れるように、顔を埋めて声を殺すしかなかった。
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