赤と白

十森克彦

第1話

 タダシは長旅の疲れもあって、ぐっすり眠っていた。夢を見た。倒れ伏した長い髪の女。人垣の向こう側で、原型をとどめないほどにひしゃげた乗用車が、歩道の真ん中にある街灯にぶつかって、停まっている。周りを取り囲む顔は口々に何かを叫んでいるが、何故だか音は聴こえない。何故だろう。いやに静かだ。タダシ自身も大声を出して叫んでいるつもりなのに。横たわる体からタダシに向かって差し伸べられた手には、血がべっとりとついていた。その手がタダシの顔に届くかと思った瞬間、目が覚めた。

 また、あの夢か。タダシはベッドの上でしばらくの間、汗まみれの荒い呼吸を整えていた。落ち着いてくると見慣れない天井が目に入る。ここはどこだ。しばらくそうして呆然とした後、ようやく昨夜たどり着いた金沢駅前のホテルだということを思い出した。

「今、何時だろう」

 枕元の電光掲示になっている時計を見ると、すでに7時を回っていた。起き上がってベッドから降りたタダシは、窓際に歩いて行って、締めきってあったカーテンを開く。勢いよく飛び込んできた光に思わず閉じた目を、ゆっくりと開くと、今度は予想外の景色に息を呑むことになった。一面、真っ白になっていた。

 そう言えば、明日は雪になるから気を付けてくださいね、と立ち寄った飲み屋の女将が言っていた。窓から見えている名物の鼓門も、その奥にあるもてなしドームも、皆、冗談のように色を失っている。その上、降りやんでいない雪は空までも白く塗りつぶしていた。

 初めて見る雪景色に、魅入られていると、LINEが入った。


 バリに友達と行った旅行で出会った日系人。行きずりの恋、で終わる予定だった。戯れにLINEの交換だけをして、いつか日本に来ることがあったら連絡をして、と伝えはしたが、まさか本当に連絡が入るとは。

 イマ、カナザワニツイタトコロ。ユウコは、日本人離れした顔立ちの、よく日に焼けたタダシの、陽気な笑顔を思い出しながら、少々困惑していた。


「ハイ、コンニチハ。アナタどこから来たの。日本人でしょう。ボクも日本人。生まれたのはジャワ島だけどね。あなたジャパニーズ、ボク、ジャワニーズ、なんちゃって」

 今時、オヤジギャグにもならない次元の冗談を、いきなり満面の笑顔で一方的に言われた。口を開けてぽかんとしているユウコたちを前に、タダシは一人で手を叩いて爆笑した。デンパサールのカフェでの出来事だった。

「おもしろいでしょう。ボクの名前はタダシです。クタビーチの近くでお土産物、売っています。アナタたちは旅行で来たのですか。いつ来たのですか。バリは楽しいですか」

 タダシはユウコたちの応答に構わず一方的に話しかけてくる。一緒にいた香奈美と佳子は警戒をしているようだったが、ユウコは答えることにした。せっかく来たんだから楽しまなくちゃ。悪い人じゃなさそうだし、日本語を話せるなら、知り合っておけばお得な情報ももらえるかもしれないし。

「私たち、今朝着いたばっかりなの。クタの方に泊まる予定なんだけど、とりあえずランチを食べてから移動しようと思って。やっぱり、バリは暑いわね。当たり前でしょうけど」

「はい、バリは暑いけれど、とってもいいところですよ。クタでマリンスポーツしますか」

 特に予定はしておらず、ビーチでゆっくりすることと、エステに行こうと思っているくらいだったので、それをそのまま伝え、

「他にどこかお勧めのところあるかしら。ていうか、クタに行くにはどうしたら一番安全で安いのかしら」

 と言ってみた。香奈美が小声で

「よしなよ」

 と耳打ちをしてきたが、大丈夫よ、と目で合図する。

「よかったら、僕の車で送りましょう。デンパサールには買い出しに来たんだけれど、大体終わったんで、これから帰るところなのです」

 とタダシが提案した。やった、そうこなくっちゃ。不安そうな香奈美と佳子をなだめながら、便乗させてもらうことにした。そう、今だけは楽しんどかないと。たとえ帰ってから何が待っているとしても。

 少しだけ、思い出したくもない横顔がよぎったが、全力でそれを打ち消して、楽しんでやるんだから、と自分を励ました。


 タダシはジャカルタで生まれ、両親が亡くなってから、大人になってからこのバリに移って来たのだと言った。日本語がうまいというだけでなく、バリの観光スポットについても詳しく知っていて、ガイドブックでは分からないようなところをたくさん教えてくれた。ユウコたちが泊まることになっていたホテルとタダシの土産物屋は歩いて五分あまりの距離だったので、何度かそこへも行き来し、すぐに香奈美と佳子も打ち解けて、四人で食事に行ったりもした。何もかもが明るく、輝いているように見えた。

 三日目の夜、食事を終えた香奈美と佳子が先にホテルに戻ると言ったので、ユウコはタダシと二人でクタビーチを歩いた。

「タダシと会えたおかげで、とっても楽しい旅行になったわ、本当にありがとう」

 バリの夜空は、怖いくらいに星がたくさん見えた。ユウコの地元でも星はよく見える方だが、比較にならない。これまでの人生の中にあったどの場面ともつながらない、夢を見ているような時間だった。明日帰るなんて、考えたくなかった。

「ボクもユウコと会えて、楽しかった。ところで、ユウコは恋人がいるのかい」

 タダシが尋ねた。

「急に、聞くのね。どうして」

「日本の話をするとき、ユウコは少し切ない顔をしていた。だから日本にいる恋人を思い出しているのかな、と思って」

 そんなところ、見てたんだ。ユウコは驚いたが、動揺を悟らせないように、一生懸命平静を装った。自分のことは答えずに、問い返す。

「タダシにはいるの、恋人」

 今度はタダシの方が少し悲し気な表情をしながら、

「今は、いない」

 と答えた。

「今はいないって。別れちゃったの」

「今は、いないんだ」

 タダシの声は、それ以上その話題に触れることを拒んでいた。何か、あるんだろう。それは私も同じ。今は、とにかく楽しもう。

「私も、一人よ」


 雪が屋根と言わず、歩道と言わず辺り一面を真っ白にしていたが、融雪装置のおかげで駅前の鼓門の下だけには積もっていない。ユウコはホテルのフロントまで迎えに行くつもりだったが、タダシが鼓門まで出るからそこで待ち合わせよう、と希望したので、雪景色の真ん中で、二人は再会のあいさつを交わすことになった。亜熱帯のデンパサール空港で別れた時の景色とのあまりの違いに、お互いの顔すら、別人のそれに見えたような気がした。

「よく、金沢ってだけで、来れたね。詳しいことは説明しなかったのに」

「両親から色々と聞いていたからね。知識だけは持ってたんだ、色々とね」


 本当は、ジャワ島で生まれたというのは真っ赤な嘘だった。タダシは、千葉県で生まれ育った。両親も、そこにいる。ウィンタースポーツをするタイプでもなかったので、雪景色を見たのは確かに初めてだったけれども、金沢のことはよく知っている。実際に一度は遊びに来たこともあったのだ。

 東京で暴走車が歩道に突っ込んでくるという事故があった。タダシはたまたま休日で千葉から遊びに出て来ていて、現場に居合わせてしまった。思わず身を避けたのだけれども、一緒にいた恋人は巻き込まれてしまった。

 はねとばされ、血まみれになって死んでいく彼女を見て、タダシは日本を捨てた。というより、逃げ出した。

 結婚するつもりで貯めていたお金で、バリ島に小さな土産物屋を開いた。そこで、何もかも忘れて、陽気な日系人を装って生きていた。そんなときに、ユウコが現れた。死んだ恋人にそっくりだった。いや、そう思おうとしただけなのかもしれない。気が付けば話しかけていた。二度と人を好きになることなんて、ないだろうと思っていた。けれども、観光案内をしてまわりながら、どんどん惹かれていく自分に戸惑った。

 ただ、時々ユウコが見せる悲し気な表情が、気になっていた。もしかして、ユウコには何か深い悩みがあるのではないか。ユウコたちが帰国してから何度もそれを思った。そして、いたたまれなくなって、日本に来てみることにしたのだ。

 バリでの暮らしの中で、かつてのことはずいぶん薄れかけていた。でも、日本に帰ろうと思い立ったから、なのだろうか。飛行機や新幹線の中で、昨夜はホテルの部屋で、あの時の夢を何度も見た。


 タダシの希望もあって、せっかく金沢に来たのだから、とまずは兼六園を見に行くということになった。

「すごいね、写真で見たことしかないけど、雪って本当に真っ白なんだ。この景色はバリでは見られないな。とても美しい。なんだか心が清められていくような白だね」

 兼六園に向かう周遊バスに揺られながら、タダシはまぶし気に雪景色を見て言った。

「私はあんまり好きじゃないな。雪が降ったら色々大変だし。それに白って、日本では死を意味する色でもあるのよ」

 ユウコは少し浮かない顔をしている。

「死を、意味するのかい」

 タダシは唐突に投げ出された不吉な単語に、思わずユウコの顔を覗き込み、意図するところを探ろうとした。黒や黄ならまだしも、本当は日本で生まれ育った自分にも、白が死を意味するという印象はない。

「命を意味するのは赤なの。だからBABYのことを日本語では赤ちゃんって言うでしょう。それと対比させるから、白は死なのよ。死んだ人が着る服のことを死装束って言うんだけどね、真っ白なのよ」

 なるほど、確かに棺に入っている遺体は白い着物を着ているイメージがある。そこからの発想で、幽霊も白い服を着ていた。それにしても、こんなきれいな景色を見て、死を連想するというのはやっぱり健康的じゃあない、とタダシは思った。

「でも、美しいイメージもあるんじゃないかな。日本人は近頃バリに来ても肌を焼こうとしないよ。白い方がいいんだって。死、というだけじゃなく、健康的で美しいという面もあるんじゃないのかな」

 別に意地になることもないのだが、何となくユウコの表情が気になるので、バリの話題を出して、気分を変えたかった。

「うん、そういうところもあるかもね。でもね、雪って一見きれいに見えるけれど、春になって溶け出すと、泥だらけの汚い地面が出てくるのよ。だから雪で覆われている景色って、本当の姿じゃないのよ」

 ふうん。分からなくもないけれど、無理矢理に否定的な見方をしているように思える。どこかに陰のあるその横顔を見て、確信した。やっぱりユウコは何か悩みを持っているに違いない。ボクが助けてあげることはできないんだろうか。タダシは繰り返し夢に見る、かつての恋人のことを思い出しながら、自分の拳をそっと握りしめた。


 バスが兼六園下に到着し、ユウコはタダシを促して、降りた。なんであんな話をしちゃったんだろう。バスの中での話があまりに暗くて、気まずくなってしまった。タダシが一生懸命明るくしようとしてくれていたのが分かった。でも、どうしてもそれに応えられなかった。クタビーチを歩いていた時の、何もかもが輝いて見えた夢のような時間とは正反対だ。せっかく来てくれたのに。ユウコは反省し、自分からも何とか明るい話題に持って行こうとしたが、うまく言葉が出てこない。沈黙のまま、観光物産館の前から兼六園の方に向かって、タダシを案内して歩いた。


 本当は一人じゃない。恋人がいないどころか、結婚していた。夫は、職場内恋愛をしていた頃はとてもやさしい人だったが、結婚するなり、暴君に豹変してしまった。洗濯物のたたみ方が気に入らない、食事の盛付方が気に入らない、お帰りなさいの声が聞こえなかった。どれもこれも些細なことばかりだったが、言い募り始めたら、止まらなかった。はじめはそれでも言葉だけだったが、徐々にエスカレートし、今では毎日のように殴られていた。何度も離婚を考えたけれども、とても言い出す勇気が持てず、ただ耐えるだけの生活が続いていた。

 事情を知った高校時代からの友達の香奈実と佳子が、色々と助言もしてくれたが、動けなかった。そんな中で疲れ果てていたユウコを見かねて、せめて気分転換にと、バリ島への旅行に誘ってくれた。到底実現するとは思えなかったが、ユウコが自分で言う形ではなく、二人が家に遊びに来て、夫の目の前で切り出してくれたのだ。外面のいい夫はにこやかに、是非行っておいで、たまには骨休めもしないとね、と送り出してくれた。香奈美と佳子の力を借りた、ささやかな反撃だった。

 本心では、煮えかえっていたに違いない。案の定、旅行から戻ると、散々に殴られた。自分では、どうすることもできない。あきらめて、バリ島での夢のような数日間だけを胸に、耐えていくしかないんだ。

 そんなところに、タダシが突然日本に、金沢にやって来たのだ。夫に知れたら、殺される。でも何も知らないタダシが、自分を訪ねてきてくれたのだ。無視することはできなかった。もしかして、この真っ暗な暮らしから、連れて逃げてくれるのではないか。そんな淡い期待も、どこかに持っていたのかもしれない。

 学生時代の女友達が遊びに来たから、と嘘をついて、タダシに会いに出てきたのだった。


 兼六園口に着いた。ここから坂を上っていけば、兼六園の入り口があるのよ、とユウコが言った。バスを降りてから、ユウコが気分を変えようとしながら、言葉を探しあぐねている様子が分かった。でも、どんな事情があるのかを知らないタダシにも、うまく返してあげるだけの言葉は選べなかった。

 兼六園、か。きょろきょろとあたりを見回しながら、初めて来たかのようにふるまっていたけれども、本当は前にも来たことがある。ただ、その時には緑あふれる季節で、雪がなかったというだけだ。ユウコに本当のことを伝えるべきなのかどうなのか。タダシは、そんなことを考えていた。歩道の角にさしかかり、いつかこんな場面があったよな、と漠然と考えた。


 前方から広い交差点を右折してきた車が、スリップしたのが見えた。地元ではなく、関東あたりから来たのだろう。突然降った雪に慣れていなかったのか。そのまま、滑って来た。スローモーションのように近づいてくる。何故か既視感のある場面だった。

 ああそうか、あの時だ。妙にゆっくりと納得したタダシは、思わず手を伸ばした。ユウコの手を、つかむ。景色が急に、回った。二人一緒に、はねとばされたようだった。

 なんでだろう。あの時と一緒じゃないか。白い雪の上に、真っ赤な血がしみだしていく。だめだ、やっぱり助けられなかった。でも、今度は手を差し出すことができた。ユウコ。


 赤は命の象徴。死の白の上に、広がっている。私の、命。タダシの、命。やっぱり、連れに来てくれたんだ。これで自由になれるのかな。


 二人の視界はゆっくりと、真っ白に塗りつぶされていった。

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