第24話【LOVERSONL番外編Ⅿ】
スペイン絵画紀行後編
バリ立寄り停車Ⅲ
もしもあなたがマネであったなら。
画家であれば芸術家であれば誰しも、耳を塞ぎたくなる罵詈雑言の数々。
耐え忍ぶことが出来るだろうか。
繊細な心を持つ芸術家ならば。
筆すら折ってしまいかねない。
しかしマネはサロンの酷評にまったく屈しなかった。すぐに次のサロンに作品を提出する。それが【草上の昼食】と並び傑作と名高い【オランビア】であった。しかしその評価たるや。
「便所の落書き扱いだ」
「いや・・そこまで言ってねえべ!」
『田崎君はサロンより口が悪いな!』
マネがそうしたサロンの評価に対して黙って手を拱いていたわけではない。
「バカでもわかるように描く」
そして酷評にはこう答えた。
「これは女神ですよ!」
根拠はルネッサンス時代に描かれた、ヴィーナスの絵画にあった。
「ヴィーナスを描いた作品と言えば」
「鉄板でヴィーナスの誕生だべ!」
「ぴんぽん」
田崎彗は答えた。
「ボッティチェリのやつな!」
「ヴィーナスと言えばそれだべ!」
「あの・・教科書とかに載ってる?」
「お股を手と髪で隠したやつ?」
「言い方!」
「そうそう!貝殻に乗った女神様!」
それはギリシア神話の愛と美の女神の誕生を描いた作品である。現代人が、物心ついて初めて目にする美の女神。その可能性が非常に高い作品だ。
後のヴィーナスを描いた画家たちに、与えたその影響は計り知れない。
ルネッサンスを代表する絵画のひとつである。しかし、ダ・ヴィンチ作品に代表されるように、人体の解剖学、骨格を手本に描いたとされる作品たち。
どれもが厳しい写実に基づいている。
ボッティチェリのヴィーナス。
それとは些か異なって見える。
アフロディーテと同一の存在とされ、
海の泡から生まれたとされる女神は、誕生した時から既に成熟した女性の姿として描かれる。一糸纏わぬその姿。
アフロはバブル乃ち泡の語源である。
「確か・・天地を創造した大神ウラヌスの息子クロノスが、殺した父親のち○こを切り取って・・海に捨てた、その泡からヴィーナスは生まれたはず」
『げ・・』
「さすがギリシア神話だべ・・」
「だから、そんな女神様がエロスや情慾と無関係なはずないんだけどね〜」
首を傾げた女神の表情。
戸惑いや恥じらい。
足もとの貝殻は生命の象徴だ。
帆立の貝殻は女性器の隠喩。
傾げた首の角度と肩のライン。
あまりにしなやかな肢体。
これらが不自然である。
厳しい人体の写実が重要視された。
人の立つ姿に求められた質感。
そして背景の奥行き。
それらをすべて無視するような画風。
ルネッサンス期に於いての不自然さ。
そうした絵画の定石を捨ててまで。
描こうとした肉体的な官能美
「現代の美容整形ってさ、色んな過去の美人たちの目や口や鼻のデータを集めたパッチワーク・・だよな?」
それでは本当の美人は生まれない。
シンメトリーは今も昔も美であり。
生物的優位性と強さの定義である。
しかしボッティチェリのヴィーナス。静かに首をふって見せる。
真の美とは不完全さの中にある。
整合の中にある不完全さこそ。
唯一無二の個性であり美なのだ。
見る者にそう伝え続けている。
彗にはそのように思えた。
今更ボッティチェリの画力は疑うまでもない。当時の画家としての名声は、レオナルド・ダ・ヴィンチよりボッティチェリの方が上であり。ダ・ヴィンチは、多才な発明家として世に注目され、その絵画が評価されるには、さらなる時間を要した。
「そもそも、当時からダ・ヴィンチなんて誰にも呼ばれてなかった。レオナルドが名前でダ・ヴィンチは生まれ故郷の田舎の村のことなんだ」
「なるほど・・昔の人の名前はやたら長くて、名前に、どこで生まれて、どんなやつなのか?すぐ分かるようになっていたんだべな・・俺ならカオル・エノモト・アツギ・オヤジモトヤンキーみたいな・・」
『なんで姓名が逆に・・』
この絵画はヴィーナスを中央に3分割した手法で描かれたものだ。
左の宙空には風の神ゼフィロス。
そしてゼフィロスに抱かれたニンフ。
女性はニンフでないという説もある。
彼女たちは多神教の神。
華やかな衣を重ね着するように。
様々な役割と名を同時に併せ持つ。
一目見て恋に落ちた情熱の西風の神。ゼフィロスが拐った緑の女神クロリス。後の妻となる花の女神フローラ。
左側には時の女神ホーラ。
ホーラは時の女神三姉妹の一人。
季節と植物や人の秩序を司る女神。
彼女の衣にはそれを示すかのように、緑の草木の模様が描かれている。
裸身に戸惑うヴィーナスに纏わせるための衣。恭しく女神に捧げている。
見る者にとって幸運なことに。
足下の貝殻は浜辺に着いてはいない。
それゆえヴィーナスは裸身のままだ。
頭上に美の女神である象徴でもある、
宙に舞うエロスたちの姿は未だ不在。
背後に揺蕩う金糸のような光背。
右の背景に描かれたオリーブ。
そしてオリーブと異なる枝葉。
彼女の誕生がこの世に齎すもの。
それが美と愛と豊穣であると伝える。
ヴィーナスの肉体は貝に乗って。
薔薇の花に囲まれて風の中に。
風の神ゼフュロス。
緑の妖精クロリス。
西風は強く息を吹き。
クロリスは柔らかな吐息。
ヴィーナスを岸辺へと運ぶ。
右端に描かれた果樹園のある岸辺。
それは理想郷ヘスペリデス。
黄金果実が実る林檎の園。
そこに4人の姉妹がいて。
この果樹園を守っている。
しかし楽園の果実は林檎に見えない。
画家はそのように描いていない。
果樹園のニンフは後にヴィーナスに仕えたとされる三人のホーラーたち。
季節と盛衰と秩序の女神。
その姉妹の一人。
それがホーラ。
ヴィーナスに衣服を手向ける。
彼女は季節の女神である。
華やかなドレスと、ヴィーナスに差し出しているローブには、ヒナギグ、サクラ草、ヤグルマギクの花々。
それは誕生の主題にふさわしい。
春の花が刺繍されている。
季節の女神が付けている花輪。
それはヴィーナスの聖木である。
やや青みがかった暗い緑の天人花。
腰に巻いているのはピンクの薔薇。
ボッティチェリのもうひとつの代表作【プリマべーラ】春という画題に描かれた。女神フローラのようでもある。
舞う花々と、神々と、陸に足を未だ降ろさぬ美と愛の女神の誕生。
すべて此の世の人とは違って見える。
神話世界の住人たち。
絵画ですらないと思わせる。
神々の棲むキュプロスの島より。
ヴィーナスの誕生に駆けつけた。
三人の神々。
それは実にこの時代らしい。
誇張された筋肉、骨格、すべての肉体が齎す躍動。それこそが美の原点と定めた。象徴的ルネッサンス絵画である。
そして西風ゼフィロスと抱かれたクロリスでさえも、およそ有り得ぬように肉体は互いに絡み合い宙に浮かぶ。
この世のものではない。
それでもヴィーナスだけが。
肉体のバランスを欠く。
その答えは明瞭だ。
彗は思った。
そこにはモナリザの微笑みや、ベラスケスのラスメニーナスのような、深い謎が隠されているわけではない。
「その方が立ち絵の女性は美しい」
ルネッサンス様式の定石や、医学的整合性を一切捨ててまで、ボッティチェリは、ヴィーナスの美しさを描くことを選んだ。肉体的表現を用いて描いた。ただそれだけのことだ。
15世紀の時代西洋文化において、これ以前に裸体画が描かれたのは唯一。
聖書のエヴァのみとされている。
あるがままに美しいものを描く。
それがルネッサンスの本質である。
彗はこの絵画をそのように解釈した。
誰も美の女神の姿を見た者はいない。
額縁を飾るタペストリーのように描かれたオリーブの枝葉。ギリシア神話では重要なモチーフとされている。
「そしてオレンジの枝葉」
注視すればオリーブと共に描かれている。オレンジの枝葉。
「オレンジ?」
「そう、オレンジなんだ・・多分、岸辺のヘスペリデスの林檎園に実ってる、黄金の果実は林檎じゃなくて、本当はこれもオレンジの実なんじゃないかな・・俺にはそんな気がするんだ」
「へえ〜てっきり楽園ていうから・・アダムとイブの楽園の果実みたいに、林檎の実なのかと思ったぜ!」
聖書に記されたアダムとイブの物語、そこで二人が口にして、楽園を追放されたとされる。知恵の木の果実。
実は聖書に明確な記載はない。
中世ヨーロッパにおいて最初に失楽園を題材にした演劇が上演された記録。
その季節は冬であった。
その季節に手に入る木の実と呼べる果実。林檎しかなかった。それが後々、民間で「楽園の果実は林檎」として印象深く人々の記憶に残された。
それが今日まで定着してしまった。
「こっちの、ギリシア神話の楽園になってるのは、黄金林檎ってされてる、けど・・キリスト教の聖書には『アダムとイブが食べた木の実は林檎』なんてどこにも書いてないんだ」
『へえ・・ヴィーナスの絵一枚でも、すごく奥が深いんだな』
ていうか、この田崎ってやつ・・一体なんなんだ!?こいつ生徒じゃなくて今すぐ教壇に立てるくらい刻博じゃないか。ちゃらいのは見せかけだけか。
そんな話を彗に向けると。
「ただ絵画が好きなだけだ」
そんな答えが返って来た。
「ちなみにルドンも一枚描いてるぞ」
ルドンも晩年にヴィーナスを描いた。
ボッティチェリ作品をモチーフにした【ヴィーナスの誕生】である。
「ひとつ目のヴィーナスだべか?」
『それ怖っ!?』
『それすげえな!?』
そんな絵はルドンは描いていない。
「お前ら冗談は・・」
つられて笑いかけた。
彗の言葉は道に落ちる。
目の前に誰かが立っていた。
水に濡れた女の素足があった。
「冗談はやめろよ」
そう言って顔を上げた。
行き交う学生たち。
それ以外は誰もいなかった。
夕べの酒が残っているのか。
朝まで続けた創作のせいか。
彗の背中を冷たい汗の滴が流れた。
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