第7話【LOVERS ONLY】




黒く冷たい林の中の瀦水。

其処に秋風薫る夕まぐれ。

樹木やその周辺に降り注いだ雨水。

地中に浸透てこの場所まで伏流する。

私の目前に湧き出ずるは幽水。

ただ立ち竦む足下に蟠る。

ただひたむきなまでに。

春夏秋冬。


死に続ける。






いつもの待合せ場所。


マップの上のお互いの部屋の小さな点。

そこから線で結んだ石神井公園。

三宝池のベンチの前。


「どうしたの…溜息なんかついて」


「心也さんて化物ですか?」


「化物?」


心也さんは私の言葉に戸惑う。


私は常にボキャブラリーが貧弱だ。

規格外の才能を持った人を見ると、すぐ安易に化物だの怪物だの言いたがる。

直さないといけない。


「いえ…本物の間違いです!心也さんって、本っ当の本当に、絵の才能に恵まれた人なんだなあって、心から思います!」


ネット上に掲載された。

心也さんのギャラリー。

その回廊を私は目で追う。

眩いばかりの絵画作品の数々。

まるでそれは畳に散らした金襴緞子。

雅やかな時代の絵巻物を見ているよう。


ようするに…たとえようもなく素敵。


溜息まじりに私は眺めていた。

ばかみたいに褒めるしかない。

絵が上手いなんてレベルじゃない。


私の偽りや贔屓目なしの感想だ。

すると、絵のお化けさんは決まって、こんな答えを私に返してよこした。


「ありがとう…誰に言われるより嬉しい。けど繭に褒めてもらえるような才能が、本当に僕にはあるのかな…たまに不安になるんだ。今日はいい線がひけたと思えても、次また描けるとは限らないからね」


「美人ですね」


超美人にそう褒めるようなものか。

少し違うかも。私って本当に。


「ずっと絵を描いて生きていきたい」


心也さんが私に明かしてくれた。

襟胸を開いて素肌を見せるように。

彼の胸のうちに秘めた決意だった。


「いつも僕はそう願ってた。将来も絵に関わる仕事がしたいんだ。けど、願うだけじゃ叶わない。そのためには、今以上に研鑽や努力して…それから、繭が言うような才能だって…もっと必要なんだと思う」


自分の言葉を伝える時。

人の言葉に耳を傾ける時。

いつも相手の目を見つめて話す人。

それは御両親の教育の賜物だろうか。


でもその癖は女の子には毒だ。

きっと勘違いしてしまう。

彼は気づいていない。


なにが人にとって一番幸せなんだろう。

ふと私はそんなことを考える。


自分のことを見ていてくれる人。

友人でも知人でも隣人でも。

私を理解してくれる人。

そんな人がいてくれたら。


男の子だったら可愛い彼女。

女の子だったら素敵な彼氏。


いてくれたら幸せ。

誰だってそう願う。


それから自分が夢中になれること。

それまで見つけることが出来たら。

それ以上に幸せなことなんてない。

私はそんな風に考える。


私には、彼のように情熱のすべて傾け、夢中になれることなんて見つからない。


けど心也さんのそばで、こうして話を聞けているだけでいい。私はとても幸せだ。


心がそれ以上ないくらい充たされる。

心也さんはどうなんだろう。


心也さんは?


私といて、そんな気持ちを少しだけでも感じてくれるだろうか。


なにをしたら、どんなことを話せば。

彼は喜んでくれるだろう。


うつらうつらと櫓を漕ぐように。

私はそんなことを考える。


絵を描く人、音楽を奏で、スポーツの世界で他人と競合する選ばれた人々。

私たちが思うのとは、まったく別の次元で、自分の高みを目指す人たちがいる。


そういう人は他の人とは違う。

違う世界があるのを知っている。

他人にはけして踏み込めない場所。

そこに心也さんの幸せは眠っている。

そんな気がしてならない。


すこし寂しくなる。


彼が熱心に絵を描いてる時。

時々そこに行ってしまう。

そんな気がした。


時々、絵のことばかりで頭がいっぱいの心也さんが嫌いだ。


「戻って来てよ」


私の思いは裏と表がわからない。


スケッチに夢中の彼から、不意にペンや紙を取上げたら。彼はどんな顔をするだろう。


『目の前で丸めて捨ててしまえ』


驚きや悲しみに歪む顔が見てみたい。

そんな破壊的衝動はどこから来るのか。

本当に人を好きになるって。

こういうことなのだろうか。


足が底につかない隠れ水。

そこに身を浸すようだ。

指の先が冷たくなる。


「私この絵とても好き」


タップした指の先が触れた。

やわらかなパステルの色彩。

目が痛くなる綺麗な絵も素敵。

だけど私はその絵が好きだった。


目の前に繰られた絵の中で。

心也さんの描いた動物達が踊る。

色とりどりの折り紙のモザイク。

その色紙で折られた紙飛行機たち。

夕焼けの空に浮かんだ飛行機の隊列。


折るという言葉は祈り似ている。

ふとそんなことを考えた。


そこに文字は一切書かれていない。

文字などいらない。そう思った。


「ありがとう」


その言葉の熱に私は顔をあげた。

心也さんは微笑んでいた。

本当にうれしそうな顔で。


「その絵が僕も一番好きだ」


不意に溢れた笑顔。


「繭がそう言ってくれて嬉しい」


微かな麻酔の痺れにも似た痛み。

私の指の冷たさが溶けて消える。


ひたひたと爪先に打ち寄せる細波が後ずさる。忌々しげに舌打ちするように。





「いけない…うっかり忘れてた」


そう言って心也さんは、自分の携帯端末を取り出して何やらいじり始めた。


見ると、今私が開いているのと同じ、自分のギャラリーのぺージの作品を、しきりにタップしている。一頻り指を繰る。


そして、今しがた私が褒めたばかりのその絵の前で、彼の指先は静止した。


また、なにか思いついて、いつかの風景画にオペラおばさんを描いたみたいに、何かを描き足すのだろうか?


携帯の液晶画面に直接?

いくらなんでもそれは無理だ。


「削除しなくては」


「削除ですか!?」


思わず敬語で聞き返す。


「はあ!?なんなのあんた!?」

心也さんでなければそう言ってたかも。


「そう…繭のも消しといてくれる?」


削除って…この絵消しちゃうの!?


今の今、私が好きだと言ったこの絵を!?


「ちょ…心也さん止めて!」


私は慌てて、彼から携帯を奪おうとした。ばたばたと手をのばした。


この絵を削除なんて。

そんな愚行を止めさせるためだ。


「や焼いては割り!焼いてまた割る!心也さんは頑固陶芸職人ですか!?」


なにか、私が彼の気に障ることでも言ったのか。思い当たるふしがない。


しかし芸術家の心はデリケートだ。

些細なことでも、彼のプライドでも傷つけたのなら謝る!謝るから!


私は、心也さんの手から携帯を取り上げようと、躍起になって手をのばした。


「消しちゃうのだめです!もし消すなら、その絵を私に下さい!額縁に入れてお部屋に飾って!毎日眺めて大切にしますから!」


消す前に私に転送して!心也さん!


「でも権利の問題が」


削除しようとしてる人が、今度は今頃になって権利とかいい始めた。


「それに」


心也さんは、暴れ馬のたてがみを撫でてあやすように優しく静かな声で言った。


「ここにあるのは原画のフォトだから…もし消しても、もとの絵そのものが消去されるわけじゃないからね」


「はあ…原画の写真…ですか」


心也さんの言葉に私の鼻息も治まる。


「繭が好きだって言ってくれた、この絵のいくつかは、そのうち絵本になるんだ。だから著作権とかの問題で『しばらく掲載は控えて下さい』って出版社の人に言われてた。それ、すっかり忘れていたんだよ」


「出版社…絵本…絵本て!心也さんが絵本を出版するの!?それって、もうすでに絵本作家じゃないですか!?」


頑固陶芸職人じゃなかった。

私はたまげて開いた口が塞がらない。


将来絵の仕事がしたい…どころかこの人、もう既にその夢を現実に叶えている。


そんなことってある?

そんな人いるのだろうか?

いや…現実に私の隣でにこにこ笑ってる。


この間、私の彼氏になってくれた人だ。


「繭の誕生日は12月だよね?遅くても、クリスマスまでには渡せるかなって」


なんてことだ。

そんなことを。

誕生日や聖夜の晩にされたら。

私はどうなってしまうのだろう。


「なんてことを」


「繭?」


「心也さん」


私は彼に訊ねた。


「心也さんは、ちなみにだけど…【サプライズ】って言葉知ってる?」


この期におよんでも女の子は貪欲だ。

せっかくそんな切札を持ちながら。

みずからそれをどぶに捨てるとは。


心也さんは少し考えて言った。


「女の子にしてあげたら喜ぶやつ」


そう言った後で彼は両手で顔を覆った。

そうよ。心也さん。


持って生まれたものに頼っていてはだめ。

それはいい男とは呼べない。

せいぜい悔やむといいわ。

その浅はかな貴方のお口。


「繭」


心也さんは両手を話して私を見た。


「心也さん」


それは心也さん史上最強に。

変な顔だった。


「心也さん」


自分でもぞっとするような。

冷淡な声で私は言った。


「つまらない」


「え…」


「その程度の変顔、実の母親だって、絶対に笑ってはくれないと思うよ心也さん」


「え…そうかな…」


心也さんが私と出会って以来。

史上最大級にショックを受けていた。





「それな。チートでも、お化けとか?そんなんでもなくさ~」


彼女の口調ちょっとイカれたメンソーレ。

ちなみに彼女は東京出身だ。


いつも大学の帰りに友人とお茶するカフェ。


紗栄は、新歓コンパで自転車オタをパスして私が座った席にいた子だ。

以来ずっと仲良くしてくれている。


紗栄はあれ以降も合コン三昧で忙しい。


「ハイエンドな彼をゲットしたい」


本人は常に、そんなことを口にしいてるが、まだ彼氏はいない。


見ため華やかで、モデルさんみたいで、それは羨ましいくらい綺麗な女の子。


彼女こそ、その気になれば、すぐに彼氏なんて出来るだろう。


そんな紗栄は、合コンとか、そういうお酒の賑やかな席にいるのが好きらしい。


「まあ…ちやほやされるの好きだし」


「好きな人が出来た」


そう言ったらとても喜んでくれた。


「なに?実家もそこそこに金持ちで?美大に通ってて才能あり?そして天然?」


ドがつく天然かもしれない。


「ちょっとだけだよ!変わってるけど…すごくいい人だと思う!」


紗栄は、手にした液晶画面に集まった合コンのお誘い文字を眺めながら言った。


「そういうのって世間ではお化けとか?チートだとか?天然言わないの!」


「やっぱ…彼氏だよね」


「王子だばか!」


まわりの友だちも頷いた。


「王子様」


私はその言葉を噛み締めた。

噛み締めていないと。

口もとがにやける。

ちょっと変わった。

いや…かなり変な人。


でも心也さんは私だけの王子様。


紗栄が忌ま忌ましげに携帯を振る。

文字は【王子】には変換されない。

そこから彼女の言葉が零れ落ちる。


「ち…返信はやくね?こいつら…がっついてんな~なんかとてもハズレの予感するわ!」



「心也さん。友だちに、心也さんのこと話したら。王子様みたいな人だって」


女子の会話の、分脈不都合な前後の部分は、はしょって。私は心也さんに話した。


「いや…王子様とか…」


彼は照れまくって狼狽えていた。

言った方の私も彼の顔をが見れない。



王子様…それ以上相応しい言葉はない。


手をつないだりしない。

服の裾や袖を少し指でつまんで歩く。

それが好きだった。

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