第5話【LOVERS ONLY】

【第六幕】


オペラおばさんは今も昔も変わらない。

ずっとそこにいる人らしい。

それは、心也さんが小学生の時から。

彼女は有名だった。


いつも公園で歌っている。


「あの大欅の下が、昔から彼女のお気に入りの場所なんだ。なんか…本当に彼女専用に作られたステージみたいに見えるよね」


心也さんは、私がすすめた紙袋の中からカレーパンをひとつ選んだ。


「いいの?」


「たくさん買いすぎたので」


遠慮がちに礼を言ってから受け取る。


「いつもは、お昼を近くの売店で買ったりもするんですよ。けど…つい絵に夢中になると、買うのも食べるのも忘れてしまう。それで、昔から母親にもよく叱られた」


なるほど、確かにすごい集中力だ。


私なら、あんな妖怪みたいな女の人が歌っているすぐ近くで、優雅に絵なんてとても描いていられない。


「このカレーパン」


彼がしみじみ噛み締めるように言った。


「すごく美味しいなあ」


本当にパンを美味しそうに食べる人。


「正直、彼女みたいな人は羨ましいんだ」


羨ましいですって?もしかしたら、この人も相当に、変な人なのかもしれない。


私は思った。


「オペラおばさんのお仲間ですか?」


私は疑わしそうに彼を見て言った。


「そうかもしれないね」


彼は私の言葉に笑みを洩らした。


「でも…自分の好きなことだけに、ひたすら夢中になれて。人目や評価なんて、まったく気にもせずに。あんなに堂々と出来るのって、本当は幸せなことなのかも」


なるほど…芸術家とそっち系の人は紙一重って言うものね。私は妙に納得した。


「僕は凡人だから」


心也さんは言った。


「自分の作品とか…人に褒めてもらえたらすごくうれしい。それに、もっと大勢の人に自分の作品を知って欲しいとも思うんだ」


「それ…すごく普通だと思います!」


承認欲求って言うのだろうか?


最近ではネットとかで、後先考えずにやらかす人間も多いようだけど。


音楽や美術の才に恵まれた人が、そう考えるのは、とても自然なことだ。


誰だって、情熱や魂を込めて作り上げたものは人の心に響いて欲しい。


共鳴して欲しいと願うものだろう。


「僕の通ってる大学では『普通は凡庸』とも言われがちだけどね…ありがとう!」


環心也さんは、東京でも指折りの名門として知られる美大に通う学生だった。


私も一応は大学生だけど。

美大や音大となると。


まったく未知の世界だった。


地元の高校は進学校ではあった。

みんな、受験をパス出来る推薦枠を取るのに必死で勉強していたっけ。

美大に進学した人は少ない。


美術の授業も、学校からよほど軽視されていたのか選択制だった。


そんな私の高校にも美術部はあった。

そこに特に仲のいい友達はいなかった。


美大生に『普通ですね』は禁句なのか。プロレスラーに『痩せました?』はNGなのと一緒なのかもしれない。


私はちらりと、梢の下で気持ちよさげに歌う件の御婦人の方に目を游がせた。


「目を合わせない方がいいよ!」


彼が私に囁いた。


「彼女は怒るとすごく怖いんだ」


私は慌てて目をそらした。


「以前…彼女を怒らせた僕が言うんだ」


心也さんは真面目な顔で私に頷いた。


「間違いない」


「あの…環さんは…彼女に一体なにを」


私は、もう気になって仕方ない。


彼に理由を聞かずにはいられなかった。





「本当に?」


「本当さ」


彼は真顔で頷いた。


「本当に環さんは…あのおばさんのところに行って『絵のモデルになって下さい!』そう言ったの?信じられない!?」


「ロケーションも最高だし」


そういう問題なのか。

絶対違うと思う。


心也さんは、過去にオペラおばさんをナンパしていた。やっぱり変な人だ。


「こんなに武蔵野の面影が色濃く残る場所で!彼女はなんて非常識で!アバンギャルドな存在だと思わないか?」


まあ…確かにそうだけど。


育ちがいいと言うか。

なんと言うか。


「一応…モデルになってもらうからには、一言でも断りを入れておかなくては!」


彼はそう思った。


すぐにオペラおばさんの前へと向かった。

カメラを首にぶら下提げて、のこのこと。


そして、彼女の前に立つと言ったのだ。


「あの…御迷惑はおかけしません!よかったら僕の絵のモデルに…」


返事はなかった。


「あの~ 僕の話、聞こえてますか?もしも…」


目を合わすのも危険な奇婦人を前に、怯むことなく。さらに一歩前に出て。

堂々そんなことを申し出たのだ。


すべて歌い終える前に、歌を中断された彼女は烈火の如く怒り狂った。


まるで、池田屋事件で大暴れの大立ち回りする、土方歳三のようだったらしい。

心也さんは、土方に袈裟懸けに切られた志し半ばの尊王攘夷の志士だ。


怒りに我を忘れ、訳のわからない日本語捲し立て、口泡を飛ばしながら詰め寄るおばさん。その迫力に押され、彼は足を滑らせた。


そのまま赤土の階段を転がり落ちた。


もしもしの「も」で落ちた。


「彼女の歌を邪魔したのが悪かった」


私は呆れて言葉がなかった。


同時に、その時の彼の姿を想像すると、途端に可笑しさが込み上げて来た。


この人…外見からは、ちょっと想像出来ないくらい面白い人かもしれない!


その後。彼は、衣服が赤土でどろどろになってしまったので、その日のスケッチを諦めて家に帰った。当然の話だろう。


「翌日またこの場所に来たけど…彼女は、いつも通りに歌っていたよ。僕がここにいても彼女はすっかり忘れた様子で、僕になんて目もくれないのさ」


「はあ…すごい根性ですね」


「オペラおばさんね」


「いえ環さんが!」


見たところ、お互いのテリトリーを守り、すっかり共存共栄共棲が成されている。


彼はちょっと思いついたように筆入から鉛筆以外のペンを取り出した。


彼がよく使うミリペン。


ステッドラーのピグメント ライナー というドイツ製のペンだ。


ミリペンは文字を書く筆記用具ではなく絵の下書きなど書くのに特化している。


通常のペンの仕様で手に馴染みやすい。そのため最近では、Gペンなどは使わず、これのみで作品を仕上げる、漫画家さんやイラストレーターさんも多いらしい。


「下書きに適していて、紙に一切痕が残らないんだ。0.03ミリからあるんだよ」


濃淡を描く鉛筆や、色彩を施す絵の具を使う前に使用する。美大生必須らしい。


後に心也さんが教えてくれた。


「色々試したけど僕はこれがいい。友達は『素早く描くとインクが掠れる』と言ってたけど。筆圧の問題じゃないかな」


ほどけていく。


心也さんという木に寄り添えば。

はらはらと膝に落ちる。

一葉一葉拾い集める。

それが私の大切な宝物になる。

そっと掌の中に隠すように。

心の奥にしまいこんだ。


ミリペンは細さが10種類くらいあって。

消耗品だが、一本500円前後と、普通のペンよりお値段も高い。画材も。


美大生はいつも金欠で、課題に追われてバイトもままならないらしい。


普段からお洋服もお洒落で、自由な学生生活を送っているイメージがあった。


「お洒落さんはほんの一握り」


心也さんは言う。


「大概はこんなかんじさ」


「黒いシャツは、もし塗料が跳ねても目立たないからね」


美大生の黒服着用率は高いらしい。


「こんな話面白くないでしょう」


彼の言葉に私は首をふる。


もっと彼の話が聞きたい。


そんな私には、いつしか鳥の囀りも、あんなに耳障りで疎ましく思えた彼女の声さえも、耳に届かなくなっていた。


「ならよかった」


彼は筆入れから選んだ0.5ミリのペン先を、素早く紙の上に疾らせた。


細密に描かれた湖畔の景色。


それは息を飲むくらい素敵だった。

けれど彼が鉛筆画の景色の中に描き足したのは、子供の落書きみたいな人物。


オペラおばさんだった。


その線には迷いも躊躇いもない。

彼の友人が指摘した掠れもない。


絵の中の彼女は、実物よりも大変に可愛いらしかった。まるで、彼の絵描きとしての非凡さを祝福でもするように、声高らかに歌い上げているように見えた。


「僕の中の課題のひとつは完了」


彼はスケッチブックを閉じた。

それでも立ち去ることはしなかった。


私たちは日が暮れるまでの間語り続けた。お互いのことや、好きな本や映画について。

他愛ない話ばかり話続けた。


「また会えますか?」


公園の閉園時間が近づくと彼が私に聞いた。一番聞きたかった言葉だった。


新しい恋は、真新しいぴかぴかの自転車の車輪に乗って滑り出した。


私たちはいつも探している。


新しい家。自転車。家。恋人やセックス。

新しい自分の居場所を。


「そんなに大昔の話じゃないけど」


この公園を散策していた時に生まれたという歌がある。とても有名な曲だ。


Tomorrow never knows


私はいつも自転車に乗って、その曲をハミングしながら公園に向かった。


明日のことは誰も知らない。


確かそんか歌詞だった。


好きな音楽。好きな食べ物。好きな本や映画。私たちはお互いの膝に並べた。


そして、手探りでそれらを繋ぎ合わせ、地図を作り、計画を立てた。


やがて公園の外へ出かけて行った。


手をつないで歩く。唇と唇が触れるまでに、時間はいらなかった。



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