第3話【LOVERS ONLY】



【第三幕】


三宝池の周囲を木立がぐるりと取り囲む。

音も静かに緑の陰を水辺に落とす。


植えられた桜の木はおよそ140本。

ヤマザクラは40、コブシの木が70本。


入り口の公園案内に詳しい。


春先に花を咲かせ、水辺を彩る木々の数は、桜を合わせて300を越える。


ソメイヨシノにヤマザクラ…コブシの花の季節はとうに終わっていた。


もう少し時期が早ければ、コブシやイチリンソウ、ニリンソウの花が綻ぶ姿も見られただろう。


江戸時代から此の涌水は不凍池と呼ばれた。いかなる冬の寒さにも、けして凍結することはなかったと言われている。


池と呼ぶにはあまりに広い。


中洲に群生する植物たち。


寒冷植物のミツガシワは、既に氷河期から存在していて、カキツバタやコウホネとともに沼沢の群落を形成している。


4月から5月にかけて、この公園で行われるお祭も終わっていた。


今、私が眺めている水辺。


その昔、石神井公園の三宝池にその身を投げて、若い命を散らしたのが照姫。

そんな名前の御姫様がいたらしい。


室町時代に石神井郷を領有した豪族、豊島氏の居城跡が、三宝寺池の南側台地にある。

石神井城跡だ。


城は中世の平城で、池と川という自然の地形を利用して 造られた。


豊島氏は文明9年、太田道灌との合戦に敗れた。その時に城も落ちた。


今では、空堀と土塁の遺構がわずかに、残るのみらしい。


通常は文化財保護のため、その場所は閉鎖されている。私たち一般人は、城跡には立ち入ることは出来ない。


道潅の軍勢に追われた豊島家当主泰経。

黄金の鞍を載せた白馬に跨がり。

この三宝池に身を沈めた。


その娘照姫は悲観のあまりに父の後を追い、この池にその身を投げた。


園内には彼女を祀る姫塚と殿塚がある。


彼女を偲ぶ祭が照姫祭。


その祭も今年は終わっていた。


公園は閑散としていた。


彼は、そんな三宝池の景観に一石投じることもなく。ベンチに座っていた。


見惚れるほどに、周囲の景色に溶け込みながら。黙々と絵筆をはしらせる。


黒鉛が白い紙を擦る微かな音。


私は、彼の気が散らぬように、幾分配慮しながら。彼の真隣にある、塗装が剥げたベンチの一脚に腰を降ろした。


途中で買った、藤ノ木パン店の紙袋が、膝の上でかさりと音をたてた。


上石神井の商店街にある、私お気に入りのパン屋さんだ。値段もお手頃で。

どのパンを選んでも本当に美味しい。


彼は周囲の景観に、完璧に調和しているように思われた。まるで絵画のよう。


この水辺の公園と、雑木林の風景の中。

そのまま絵の一部として、取り込まれてしまいそうに思えた。


それは私が息を殺し、息をひそめ、彼の仕種に見蕩れていたからかもしれない。


そんな彼は、スケッチに大変集中していて、野鳥の声すら耳に入らぬ様子だ。


もしも隣に照姫様が座っても、暫くは、気がつかないのではないかと思われた。


それにしてもうるさいな。


気が散る。


ここは武蔵野の面影残る。


石神井自然公園。


三宝池の目の前。


武蔵野の面影とはなにか?


国木田独歩の随筆よりもなお古く。

万葉集の中にも【武蔵野】という地名の記述は既に存在する。


武蔵野の面影と聞くと、普通に人は東京都心郊外の風景を思い浮かべる。


都内にも関わらず、緑が多くて、住むのによさげな場所。概ねそんな解釈。


物件を買うのにも、売るのにも、賃貸するにもかんじがいい。憧れを誘う。


魅力的なキャッチコピーだ。


武蔵小杉などの地価は「住みやすい」と評判で、近年ますます高騰しているらしい。


「本来…武蔵野という土地は、何処までも続く段差と、その境界線となる崖と、その崖上に群生する、森林地帯から成り立っていたらしいんだ」


本来…武蔵野とは、古代に地面から隆起した、武蔵野台地を言い表す言葉らしい。


いつか、心也さんが私に教えてくれた。


心也さんは、この土地の生まれの人だった。この界隈の縁起や謂れを、自然に耳にしながら育ったらしい。


学校の、公民や地学や歴史の授業でも、折に触れ、そうした話はよく耳にした。


東京湾の水などが侵食して、隆起した台地を削り、人の住む平地が出来た。


やがて武蔵の台地には【段丘】と呼ばれる段差が地表に残った。


刃で綺麗に浚ったような、大小様々な段差は、最長でも4~5メートルの幅で、うっかりすると気がつかない。


やがて、人が寄り集い人里となる。

人が暮らすに、何ら障りはなかった。


扇状に緩やかに傾斜する段丘。


その境界線にあるのが崖や断崖。


【崖線】


そんな名で呼ばれる境界。


かつて台地であった場所には、国分寺崖線や府中崖線などの名称が、今も残っているらしい。


崖から上は、人の通らぬ森や林。


今では見ることが出来なくなった、原生林の木立と野草が生い茂る。


虫や獣や鳥たちだけの栖であったはず。


舌状に隆起して広がる、赤土の段丘と、山野の境界に聳える崖線。


その石の壁づたいに人が歩き、いつしか踏み固められた道が出来た。


それが【はけ】だ。


はけとは、【まま】【はば】【のげ】等ともに、崖地形や丘陵山地の片岸を表す古語だ。国分寺崖線や立川崖線には、この方言が地名や町丁名として今も残る。


その語原は古い。柳田国男の著書によると、アイヌ語にもパケ、縄文時代から既にハケという言語は存在した。


羽毛、岾、坫、𡋽、額、端気、端下…都内の通りや、坂道に今も残る。


羽毛下通りとか。


大岡昇平という作家が、昭和25年に発表した【武蔵野夫人】という小説に登場する主人公は「はけの家」に住んでいた。


「土地の人はなぜそこが『はけ』と呼ばれるかを知らない」


小説の冒頭にはそう書かれているらしい…それも、後に心也さんが教えてくれた。


私は、そんな古い小説は読んだことがない。おそらく、これから先も読まない。


険阻な崖道を伝い歩き、時には擁壁を築きながら。人はその道を歩いた。


鬱蒼とした木立や、崖石が影を落とす堀切や、成熟した雄鹿の角のような、鋭くうねる細い道を歩く。そんな…昔の人の姿を、私は此処に来る度、思い浮かべる。


ふと、足もとに目をやる。


ぬかるんだ赤土が今もそこにある。


そしてその先に沌沌と揺蕩う水。


武蔵野台地と、そこに湧き出る清水は、切っても切れない。水無くしては。


何も生まれては来なかった。


私も中学の時に授業で習った。


関東ローム層。


東京や関東地方の土質を表す言葉だ。

それぐらい知ってる。


練馬区の地盤も、関東ローム層と呼ばれる火山灰土で覆われている。


上部の赤土と下部の凝灰質粘土に大別され…つまり水を通さない土質から成る。


その上に砂礫の層が重なり、保水性に優れた豊かな森に恵まれた結果。太古の昔より、地表に降り注いだ雨や雪は、完全に地の底まで染み渡ることはなく、豊かな湧き水として地表に噴き出した。


生物よりもさらに古くから、この星に存在したもの。それは大地と植物だ。


そして、この土地に湧いた水は、生命を育むだけでない。海同様に、生命そのものを生み出した。…些か大袈裟だろうか。


そんな私の妄言を聞いても、心也さんはけしてバカにしたりはしなかった。


「ないとは言えないよ」


そこが…前の彼氏とは違っていた。


この地に湧き出した、三宝池の豊かな清水が、石神井川の水源となった。


武蔵野台地は、湧水の恩恵によって、水利がとても得やすい土地だった。


ハケによって雨水や地下水が隔てられ、水の多いハケ下では稲作が、水の少ないハケ上では畑作が多く営まれた。


結果としてこの地は、関東でも有数の、肥沃な土地となった。清らかな水が涌き出る池や河川の周りを取り囲むようにして、次々と神社が建立された。


また、沖積低地のような洪水も避けることが出来る。古来から人口は多かった。


それを裏づけるように、崖線付近では、古墳時代の古墳や遺跡が、今なお多数残されている。


武蔵野台地の、東端にあたる淀橋台。

この場所に、地の利を見出したのが、太田道灌であった。


室町時代より石神井郷を領有した豪族、豊島氏と太田道灌の間に起きた戦乱は、この水源の地をめぐる争いでもあった。


道灌が築城した江戸城は、平川と目黒川の間を広くカバーする淀橋台の最東端に置かれた。道灌に続いて江戸に入った徳川家康も、台地を囲む圏谷にその利を見出だした。


戦に破れ、国を失った豊島氏と照姫は、この池に身を沈めた。


そんな…語り継がれる伝承が生まれたのがこの池だ。


それだけではない。


「石神井そのものが…実はそうなんだ」


心也さんが御先祖の代から住んでいる街。私が新生活を始めた街。石神井。


石神井には、神代の時代から石神井神社という石神様をお祀りした社がある。


祭神様は少彦名命という神様だ。そしてこの神社には、石剣が祀られている。


その昔『井から生じた石剣』井とは井戸を表す井ではなく、この三宝池を指していると言われている。だから石神井。


ここは始りの水が涌き出る場所。


もっとも、園内に散らばった人がよく集まるのは、もう一つの石神井池の方だ。


ここが、国から風致地区指定された時、水田への水路を塞き止め増設された。


そちらは、貸出しボートに乗ることが出来るため、家族連れやカップルで、いつも週末は賑わっていた。


ボート池は、園内の野球場や野外ステージとともに、自然と人との共存を目的として造られた。遊歩道もよく整備され、駐車場や道路も近い。


自然保護が目的とされている南側のこちらは、木立や赤土が多く傾斜していて、とても歩きやすいとは言えない。


それでも私は此処が好きだった。

心也さんと初めて出会った場所だから。


初夏に訪れて秋の紅葉を見るまで。


私も随分と、武蔵野地区の自然やら、歴史にも詳しくなったものだ。


今や私も、ちょっとした武蔵野通だ。


それは…心也さんが私に教えてくれたから。私も一応は文系の大学生だ。


けれど、地味でミニマムな歴史や、ましてふらりと訪れた土地の地形なんぞに、興味をしめすような人間じゃない。


心也さんが熱心に話してくれたから。

私は夢中で耳を傾けた。


もしも二人が出会ったのが、コンパの居酒屋で。彼が無類の自転車オタクなら。


私はきっと…ハブやクランクや、変速ギアの話だって熱っぽい瞳で聞いた。


ええと…名前が今は出て来ないけど…私に自転車のこと熱心に話してくれた彼には悪いけど…名前忘れた。


車なんて持ってなくてかまわない。

心也さんと、2人きりで、ただ公園を散策するだけの時間が楽しかった


まだ学生で…なにもない私たちには、時間だけは無限にあるように思えた。


彼が公園のベンチに座りながら、目の前に映る景色を見て私に話してくれた。


かつては家紋の旗を血に染めて、争いがあったという。清水湧く広い源の池。


昭和26年になると、住環境の変化によりかつての湧き水は絶えかけた。


水底では、今も水は湧き出てはいる。


『それだけでは、この区域の象徴とも言えるこの三宝池は維持出来ない』


そんな事情から、井戸が掘られた。

今は地下水が池の水を満たしている。


私が、ふらふらとあてもなしにチャリをこいで、この場所に来た時。

池の水は澱んで見えた。


初夏の頃とはいえ草子の昔とは違う。

気候も随分と盛夏の陽気に近い午後。


芽吹いたばかりの青葉に噎せかえる。

水辺から微かに漂う。

濡れた腐葉土は、魚の膓の臭気がした。


彼の薄い唇を見ていると、なぜか紅をさして見たくなる。時より憎らしくなる。


傾斜した赤土はそのまま水辺に呑まれ。見ているだけで吸い込まれそうになる。


裳裾を引摺り清水の底に消えた金絹。

城跡からは、この池が一望出来る。


おそらく城からも見えただろう。


今よりもずっと美しい。

澄水を湛えた、森に囲まれたこの池が。


ふと…私にはわかった。


豊島の殿様も姫様も…前にテレビで見た、モザイクかけられて、運ばれてた樹海のスーサイダーたちも同じだ。


一等美しい。


よさげな場所。


どうせなら、そこで死にたい。


きっと…そう思ったに違いない。


私は、いつか彼の肩に寄り添いながら。

そんなことを想う日があった。


水辺から、扇形に広がるのは、砂丘の波紋のような赤土の段丘。


それは遠い湾の侵食の痕ではない。


この水が荒ぶる時。曾ては土を殺いで、草木を薙ぎ倒しながら通った道だ。


宝塚劇団のトップのために用意される、それは特別な大階段みたいだ。


傾斜した土の段差のさらに上からは、雑木林が遮光の陰を落とす。


雑木林には、アオキやニワトコの他に、ネコヤナギやヤマブキが群生していた。


その雑木林から、せり出すようにして、地面へと剥出しの太い根を這わすのが、欅の一群だった。


欅の木は周囲の樹木を威圧するように、鋸歯のような葉をのばし、天に梢を広げ聳える姿はかなり迫力があった。


武蔵野の面影はそのまま此処にある。

私が此処まで歩いてきた遊歩道がハケ道だ。


丘陵の遥か彼方に見える景色。


「あれが立川崖線」


いつか彼が教えてくれた。


そんな記憶。


時計も隠したくなる。


静かでいいな。


水辺や花のまわりを蝶や蜻蛉が舞う。


虫を追うツバメの他に、カワセミ、アオジ…冬には数種のカモたちが飛来する。


この公園で耳にする、野鳥の囀りは、特別天然保護記念物に指定されている。


木々のざわめき、水のせせらぎ、鳥の囀り、虫の声。いくら重なり合っても、不愉快な不協和音にはならない。


人が造り出した音は、すぐ騒音や公害になるのに。すごいことだ。


ここは間違いなく私にとって最上級の、居心地のいい場所になるはずだった。


そこの彼との恋の始まり。


淡い期待と予感。


先ほどから、そこに横から割って入ろうとする。怪しい人影と耳障りな声。


さっきから、公園の景色に一石投じてばかりの人がいた。無視しても気になる。


一体なんなのだろう…あの人?


さっきから、ステージに立つ歌姫みたいな朱の衣装を着た女がいて、この公園で一番大きな欅の袂を占有している。


まるでプリマドンナ。


扇に枝を広げた欅を背にしたその姿は、孔雀のようにも見えた。


天に向かって両手を広げ、一人朗々と声を張り上げている。しかし下手くそ。


まったくもって聞くに絶えない。


何処から持ち込んだのか、おそらくは自前の衣装もよく見れば、あちこち破れ、薄汚れて見窄らしいものだった。


遠目から見ても厚化粧の女は、かなり年をとっていて、頭髪も金色に染めていた。

その髪色もいつ頃染めたものやら、かなり色が落ちかけていた。


厚化粧で何層にも塗りたくられた顔は、もはや性を超越。声を聞いて初めて「女?」と識別出来るレベルだった。


遠目からは美麗風。

近目で見たら相当やばい人だ。


一心不乱に歌う。


その目には、狂気が宿る。

どこの町にも必ず一人はいる。


頭のネジが外れた気の毒な大人。

それが彼女だった。


「彼女…オペラおばさんって言うんだ」


ほら都市伝説な名前まである。


息がかかるくらいの距離。

彼の顔があった。


躊躇いがちに彼は微笑む。

髪色と同じ鳶色の瞳。

想像よりも低い声。


私の耳もとで囁いた。


「この公園の主みたいなものさ」


「ここは…なにがあっても不思議じゃない」


後で聞けば、場の雰囲気故か地元では、心霊スポットなんて言われてるらしい。


夜歩くと、女の幽霊を見たとか、背後で足音や水音を聞いたとか…いまいちインパクトに欠ける幽霊話が浮遊している。


「あまり目を合わさない方がいい」


確かにそんな場所にも思えた。


「彼女…怒らせたら怖いからね」


なにが起きても不思議ではない。

そんな空気が此処にはある。


彼が私に初めて声をかけてくれた。

その話題がなんであれ。


私はミュートした。


心地よい森のざわめきも、鳥の声も、妖怪じみた女の歌声さえも消え失せた。


時が止まった。

時が止まればいい。

この人とずっと一緒にいたい。


「あの…パン食べます?」


膝の上に置いたままのパン屋の紙袋。

顔が近い彼の前に差し出した。


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