第3話【塩と電話と緑の灯】




【who are you?】


こっちが聞きてえよ…馬鹿野郎!





明け方に目が覚めた。


時刻はわからない。


窓の外はまだ暗い。


夜は未だ明けきらない。


夜中に目が覚める原因は大抵尿意だ。


俺は寝ている妻を起こさないように、ベッドからそろそろ這い出す。


2階の寝室のドアを開ける。


トイレの照明以外明りは点いていない。


家の壁のそこかしこにある、照明のパネルスイッチのガイドランプの色は緑。


消灯時間を過ぎた病院の照明と同じ。


去年の今頃胆石を患って入院した。


赤は人を不安にする。


信号の青も本当は緑。


我が家の夜もオールグリーンだ。


蛍光ランプの緑を頼りに。


階段を軋ませ。


降りてゆく。




「ええ!?こんなに高く飛べるの!?」


初回のヒロインのお約束の台詞らしい。


娘が教えてくれた。


まさかこの年で、朝からこんな少女向けのアニメを観ることになるとは。


数年前は予想もつかなかった。


所帯持ちになって、子供が出来るって、こういう事なんだな。今更ながら思う。


日曜日の朝のことだった。


幼稚園が休みの娘は、早起きしてプリキュア待機中。テレビの前を占拠中。


「早く朝ごはん食べちゃいなさい」


娘の美茉は、俺に黄ばんで朽ちかけた、乱杭歯を見せてげらげら笑った。


「み~ま~!?」


それを見て妻も笑っている。


つられて俺も大声で笑った。


俺は突っ伏したまま眠ってしまっていた。ダイニングで目をさました。


手元にあった空の酒瓶が倒れ、派手な音を立てて床に転がる。


娘と妻の笑い声が微かに聞こえた。


電話機のある方から。


今はもう…家に居るはずがない家族の声。


細波の飛沫のように消えた。


止むことのない人のざわめき。


ここが家なのか、都心の駅のホームなのかわからなくなる。


「ねえ…そこの君!電話というのは…この世の中に於いて、実に摩訶不思議で、奇っ怪な代物だと思わないか?」


なんだと?


「だってそうじゃないか!人間のコミニュケーション?そんなものは、本来人には見えはしないものだ!…その見えないものが、かたちになって見えている!それが電話というものなのさ!」


昔どこかで読んだか聞いた台詞だ。


よく通る男の声が記憶をなぞる。



「ところで…おたく誰?」


見知らぬ誰かが俺に訊ねた。





眠りは甘く、酒も日々甘くなるばかり。


電話から聞こえる声から逃れたくて。


飲んでは眠り。


気がつけば日は暮れている。


その間も家の置き電話はのべつ幕無し。


俺に語かける。


既に家の送電は電力会社に止められ。


忌まわしいコードは引き抜いた。


受話器が外れたままの電話機。


舌を垂らした、だらしない女のように。


俺に話かけてくる。


なぜこうなった。


なにに浚われて。


俺は今此処にいる。


夜は真っ暗闇になった。


目の前を音もなく通り過ぎる人影たち。


闇よりも濃く。


冷たい指先が時より俺の頬を撫でる。


送電か跡絶えた家に灯りは灯らない。


冷蔵庫の中身は静かに腐敗した。


緑のランプも消えたままだ。


わが家はオールグリーンではない。



目を開ける。


正午の光と一緒に、目の中にまず飛び込んで来る風景。


荒れ果てたリビングと、家の置き電話。


何処にも繋がらない電話は、塩と泥にまみれている。


俺が貼り付けた、ぼろぼろになった御札をのせたまま、いつもそこにあった。


祖父さんや親父に聞いた記憶を頼りに、地元では昔から名の知れた、物見屋の家を訪ねた。代替りしていたけれど。


そして言われた通りに、桐の箱に詰められるだけの塩を敷き詰めて。


その中に、御札を貼ったそいつを入れ、山奥の林に埋めた。言われた通りに。


「なんでまだそこにある!?」


俺は噛みつくように吠えた。


「だって…貴方夜中に突然出かけて…それをまたそこに…そこに置いたのは貴方よ」


そう言って、ひどく怯えるような目で、妻は俺に言った。


妻の右目には腫れた目尻を隠すために、白い眼帯で覆われていた。


ファンデで隠した、顔にできた紫の痣。

切れた口もとは、小刻みに震えて、少し血が滲んでいた。


あれは俺が…俺が彼女にそんなことを…


それを肯定するように、娘は俺と目を合わせることもせず、妻の背後に隠れた。


「離婚届けは郵送しました」


耳にあてた受話器から妻の声を聞いた。


今まで聞いたことのないような、凍りつくような彼女の声。


「財産分与も養育費も要りません!だから…美茉には今後一切近づかないで!」


普通は弁護士を通すものだ。


直接連絡して来たのは、夫婦として長年連れ添った相手への、せめてもの礼儀か恩情のつもりだったのか。


それにさえ、俺はすがりつこうとした。


「せめて…せめて、電話で話すだけでも…なあ…せめて…父親として…」


「届けに…サインお願い」


そう言って電話は切れた。


そう言えば…離婚届けの用紙も緑だ。


くぐもった俺の笑い声は、いつしか引き摺るような慟哭へと変わっていた。


それでも、2人俺と縁が切れる。


それで妻と娘は安全か?


安全に暮らせるならそれでいい。


どのみち俺は長くはないだろう。


妻が送った離婚届けは、もう家のポストに届いているだろうか?


最近は回覧板も回っては来ない。


妻と電話で話をしたのは昨日?


いや…一昨日?だったか?


考えると、頭の芯がきりきりと痛んだ。


家の電話のコードは、妻が娘を連れて出て行く前から引き抜かれたままだ。


俺は…無意識のうちにテーブルを両腕を叩きつけ、そのまま椅子から立ち上がる。

そのまま、ふらふらと歩き始めた。


リビングを横切り電話機のある場所へ。


しかし弱りきった両足は覚束無ず、すぐに縺れてその場に転倒してしまう。


そのまま床に突っ伏したまま、立ち上がる気力もわいて来ない。


下半身がじんわりと生温い。


俺は失禁していた。スエットから滲み出した尿が徐々に床にしみ溜まりを作る。


情けない。


そんな俺を嘲る笑い声。


鳴り止まない声が屋敷中に反響した。


「もう…どうなろうと構わない」


楽になりたかった。


「ひとおもいに殺してくれたらいい」


生きる望みも絶たれた俺は、その場に伏したまま瞼を閉じた。


また闇に落ちる。


そしてまた、灯のない夜の暗闇の中で、瞼を開ける。


痩せこけた顔で、眼だけをぎらつかせ、死を待つ獣のように夜明を待つだけ。


時折洗面台の前を通り過ぎる。鏡に映る屍のような男は俺なのか?


過去や未来、過ぎて行く季節。


時間にさえも足掛りを失った。


生と死、その境界も曖昧だ。


餓えていた。


底知れぬ孤独。


掻きむしるような涸渇。


誰か…誰かと…ただ、誰かと。


俺は…


繋りたい。


それのみが、俺を存在足らしめている


誰かと繋がっていたい。


見知らぬ誰かと。


懐かしい友と。


昔体と心を通わせた恋人と。


優しかった妻と。


そして…かけがえのない娘。


繋がっていたいんだ。


「せめて電話だけでも」


電話なら目の前にある。


手を伸ばせばすぐそこに、電話はある。


「せめて電話だけでも」


妻は許否はしなかった。


「娘に…美茉の声が聞きたい!」


どうしようもなく、寂しくて辛い…そんな時は…ただ、誰かに電話をすればいい。


俺の脳内に微弱な電流が閃く。


目に見えない回路。


どうした経緯で、何が原因で、俺がそれと繋がったか?今だって解らない。


それでも、次第に色濃く目の前に現れる。


夥しい数の人の影。


誰もが、誰かに語りかけている。


肉体を失ったとしても魂は求め続ける。

届かぬ人への思い。繋りを求めて。


俺も、その群衆の中に入るのだろう。


その狭間にある電話。


それは必ず繋がる。


俺には確信があった。


伸ばした俺の指先は震えていた。





ぱたぱたぱた。


軽やかな足音。


聞けばすぐに娘とわかる。


娘の足音。


それだけは、どんな雑音の中でも聞き分けられる。俺も妻も。


風邪をひいて元気がない時。


「幼稚園でなにかあったな?」


いつも家を駆け回っていた娘の足音が、俺たち夫婦に教えてくれた。


彼女が自分の足で歩き始めてから。

俺たちは追いかけ振り回された。


幸せな時間だった。


俺たちを幸せにしてくれた。


娘の足音。


「長い間お世話になりました」


妻が娘の美茉を連れて、この家を出て行った日。彼女は俺にそう言った。


妻は最後まで聡明で、律儀な女性のままだった。こんな俺に対してでさえも。


それでもその声は、俺自身と見えないこの家のなにかに怯えていた。


「一刻も早く、この家と目の前にいる、この男の前から娘を連れ出したい」


震える声の中には、そんな母親としての強い決意が感じられた。


そんな時でも俺は、酩酊してテーブルに突っ伏していた。


妻や子の前で、顔を上げることも出来ない。最近では恐ろしい夢ばかり見る。


目が覚めた時妻や娘の骸が転がっている。


そんなことか現実に起きかねない。


そんな恐怖に怯えていた。


妻の足音が遠ざかる。


せめて少しでも遠くへ。

離れて欲しかった。


「どうしたの美茉!?」


玄関で妻の声がした。


ぱたぱたぱた。


玄関のフロアからリビングに戻って来る。

娘の足音。


「パパに」


そんな娘の声を最後に聞いた。


目が覚めた時。これが延々終わらない、悪夢の終わりだったなら。


いつもと同じ家族、団欒がそこにあれば。


俺は目を開けた。


俺が壊した、荒れ果てたリビング。


ひび割れたサッシ。


その硝子窓越し、庭に停められたタクシーの黒い車体が見えた。


後部席の扉が開き、妻が娘を抱えるようにして車に乗り込む後姿が見えた。


すぐに車は走り去った。


それ以来、家族には会っていない。


「パパに」


そんな娘の言葉。


今になって思い出した。


俺が手を伸ばしかけたリビングの電話。


電話台の上には、塩漬けされた電話と、点滅しないパソコンのルーター。


それから3人で撮った、家族写真。


今は薄埃にまみれたフォトフレーム。


毎年夏になると家族で出かけた。


キャンプ場で撮った1枚だった。


娘はそこでそれを見つけた。


妻に教えてもらい押し花にしていた。


とても大切にしていた。


娘の宝物。


「パパに」


俺にはそれが緑の灯に見えた。


まだ色褪せてない。


四葉のクローバー。

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