第2話【塩と電話】

【who are you?】



「ええ!?こんなに高く飛べるの!?」


初回のヒロインのお約束の台詞らしい。


娘が教えてくれた。


まさかこの年で、朝からこんな少女向けのアニメを観ることになるとは。


数年前は予想もつかなかった。


所帯持ちになって、子供が出来るって、こういう事なんだな。今更ながら思う。


日曜日の朝のことだった。


幼稚園が休みの娘は、早起きしてプリキュア待機中。テレビの前を占拠中。


「早く朝ごはん食べちゃいなさい」


食事の席についたらテレビは消される。

早食いしても怒られる。


それを知ってる娘は聞こえないふりだ。


「み~ま~!?」


そろそろヤバイぞ美茉。


そんな…母と娘の攻防に割って入ったのは、家の固定電話の着信音だった。


ディズニー パレードの着信音。


めったに鳴らない。


簡素な電話台。


電話の他には、パソコンのルーター。


今年も泊りがけで出掛けた、キャンプ場で撮った。家族写真のフォトスタンド。


俺は受話器を取る前に、電話機のディスプレイを確認した。市外局番。


この界隈ではないが地元だ。


訳のわからない携帯ナンバーや、非通知なら取らない。


この頃では詐欺電も多い。


地元なら、親戚や知合いかも知れない。

俺は電話に出ることにした。


「美茉、テレビ切りなさい」


家の電話はテレビのすぐ横にある。


テレビをつけたままだと、うるさくて、相手の声が聞き取れないからだ。


「テレビ消して!」


お目当ての番組を見ていた娘は、不満そうな顔をした。


しぶしぶリモコンのボタンを押した。


「はい藤崎です」


俺は電話の向こうの相手に言った。


電話の相手は何も応えない。


「あの…どちら様ですか…」


それでも相手は何も言わない。


電話は繋がったままだ。


なんだ…イタ電かよ!


俺は受話器を置こうとした。


「さわちゃんいる?」


かなりの間があってから、相手がそう訊ねた。か細い老婆の声だった。


「さわちゃん…いる?」


老婆の声に聞覚えはない。


電話の向こうの、相手の声以外は、まったくの無音だった。


それでも俺はその時、その電話を奇妙だとも、不気味だとも思わなかった。


「さわは…もう30年以上前に亡くなりました」


さわは、俺の祖母の名前だった。


既に祖母は故人で、それも俺が物心つくかつかない頃に他界していた。


家に遺影は残っている。


当時まだ幼かった俺には、面影すらも朧気な人だった。


「祖母はもう随分昔に」


俺は相手に説明した。


耳もとで、驚くほど深い、大きな溜息が聞こえた。そして唐突に電話は切れた。


「誰からだったの?」


ダイニングの椅子に、どっかりと腰掛けた俺に妻が訊ねた。


娘は、リモコンを素早く手に取る。


番組の続きを夢中で見ている。


「『さわちゃんいますか?』だって」


電話の相手の言葉を、そのまま妻に伝えた。


「さわちゃんって」


「俺のばあちゃん」


「おばあさんの知合い?」


「さあね」


そうとしか言い様がない。


俺に聞いてはみたが、妻もさほど興味がないようだった。


「美茉!いいかげんにしなさいよ!」


すぐに、娘のお世話と日常の雑事に戻って行った。


俺は…妻が運んでくれたコー匕ーカップの縁に口をつけながら思いを燻らせた。


穏やかな心に波紋。


少しだけ波風。


これはオカルトめいた話ではない。


俺の祖母は、俺がまだ物心もつかない頃に亡くなっている。


30年以上も前の話だ。


生きていればとうに100は越えている。


俺は、父親が40を過ぎてから、漸く授かった子供だった。


電話の主は祖母の知合いだろう。


生きていれば、とうに100を越えていたはずの祖母を「さわちゃん」とちゃんづけで呼ぶあたり、同い年かそれ以上。


いずれにしても、祖母と近しい年齢の、老婆に違いない。


それとて、あり得ない話ではない。


ある日、突然昔のことを思い出して。祖母の嫁ぎ先に電話をしたくなった。


100を越えた老人だってない話ではない。


「さわちゃんいる?」


沙和。


俺には、昔そんな名前の恋人がいた。


記憶に薄い祖母とは、偶然にも名前の読みが一緒だった。


出会ったばかりの頃に…そんな話を彼女にしたこともあった気がする。


沙和は…その時も、さして関心がないように思えた。俺は彼女に恋していた。


祖母と同じ名前の恋人。


そんな些細な偶然でさえ。


運命の糸だと心を踊らせていた。


遠い記憶。


「さわちゃんいる?」


忘れられない。面影。


「さわちゃんはいないよ」


俺は無意識に呟いていた。


誰よりも深く彼女を愛していた。


道ならぬ恋。


結ばれることはなかった。


「パパ」


娘の美茉が、俺の顔を見上げていた。


「おなか痛いの?」


心配そうに俺に訊ねる。


知らずに睫毛の先が濡れていた。


「はは…大丈夫だよ!」


俺は娘の頭を撫でた。


「ちょっとだけ、まだ小さい頃にね…お祖母ちゃんのこと、思い出しただけだよ」


ふいに、キッチンで洗い物をしていた妻と目が合った。彼女は俺に軽く頷いた。


すぐに皿をスポンジで擦り始めた。


家族団欒の始りの日曜。


ささやかな嘘をついた。


「誰が…電話して来たんだろうな」


家の電話はなにも答えない。

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