第17話 硝煙の唄
砂埃が舞い上がり、腹の底に響く重低音が地を駆ける。補給物資を積んだヘリが着いたのは、最前線から二十キロほど離れた駐屯地だった。
簡易的なプレハブに、流れる汗も拭かずに働く人々。そして何より、ハッチが開いた瞬間の硝煙の空気。
忘れていたと思っていた記憶が、無意識にシオンの底から這い出てきそうだ。
「……ミヤビ、バケツとってくれ。もう限界だ」
「なっ?!またか?……全く、どれだけ苦手なんだ……」
プロペラの振動が収まると同時に、シオンは蹲った。えづきながら外を見るシオンの背中を、飛び立った時から二時間ミヤビはさすり続けていた。
「まさかシオンが閉所恐怖症とは……。他の飛行機は大丈夫だったろ?」
「……大きな荷物で囲まれてるのがダメみたい。外出れば大丈夫……うぇ」
「先行きが不安だ……。まさか敵がこんなところにいたとはね」
長年にわたるストレス環境下でのシオンの戦争後遺症は、その大多数が緩やかに取り払われていた。
時折見せる黒い目や、苛まれる悪夢さえ除けば日常生活に問題はほとんどなかった。思わぬ症状が発見できたことに、ミヤビは複雑な気持ちだった。
先に詰められた荷物が次々と取り除かれ、貨物庫内に光が差す。二人の姿を見た瞬間、作業していた兵士たちが一斉に手を止め、四指を見せる敬礼をした。
「ご足労おかけしました!死神様!ハイルレイン准特尉は基地でお待ちしております!」
仰々しい態度を取られても、ミヤビは眉を動かなさなかった。
輸送機から一歩足を出すと、世界が変わる。そこは、一年前までシオンが沈んでいた場所だった。
玉虫色の制服に囲まれて、基地に使われている古城を歩く。無数の大人たちが色を殺しながら、それぞれの作業だけに目を向けていた。
シオンたちが通れば、誰もが敬礼をした。立ち止まった。その仕草を、体が覚えていた。
「戦争なんて、やりたいやつがやればいいのに……」
先導役の兵士は、死神と目を合わせない。スーツ姿の女と、銀色の髪の少年は、この場の誰よりも戦場に似合っていない。
ものの十分で、死神たちは寂れた玉座の前にいた。頑強なはずの扉は半分が金属で補修され、帳を照らす燭台は電球に役目を奪われていた。
仕事に戻っていった兵たちを尻目に、ミヤビは数度戸を叩く。返事が来るより先に、彼女は中へ足を踏み入れた。
「此度の来訪、感謝する、死神どの。自分はハイルレイン・ブリッツァー准特尉だ。この地域一帯の司令官を務めている」
ミヤビの後に、シオンにも手が差し伸べられた。筋骨隆々な司令官は、薄手の手袋をはめていた。指が二本足りなかった。
二人に腰を下ろすよう促すと、司令官は自らで紅茶を淹れ始めた。ハーブの爽やかな香りが胸を満たす。硝煙の匂いがいくらか晴れた。
「まさか、死神をこの目で拝める日が来るとは。聞いていた話だと、知らないうちに来て知らないうちに消える、と言われていたな」
「なに、私たちにも気分が変わる時くらいある。別に珍しい話じゃないさ。まぁ、酒の席で肴くらいにはなるだろうけどね」
薄い味が喉を通り、生ぬるい風が髪を撫でる。どこの戦場も変わらなかった。
部屋の中は最低限の物資以外なにもなく、王の間と言うよりは事務室だ。あちこちに書類が並べられ、非常用の持ち出し袋も備えられている。
シオンは、自分がどこの組織に属していて、なにと戦っているか知らなかった。いつだって、少年兵が戦うのは人ではない。目を閉じて、彼らは型を撃つ。自分たちと同じ、型に入れられた目のない敵を。
けれど一つだけ、シオンは思い出してしまった。自分が撃った少年のことを。そいつが、目の前の人間と同じ服を着ていたと言うことを。
「それではそろそろ本題に入らせていただく。無駄な言葉は省かせてもらおう。今回、切手を舐めたのは確かに私だ。だが、実は別の兵たちの分もお願いしたい」
「少年兵たちだな。それで士気を保たせたいんだろ?どこにいる?すぐに案内しーーーー」
「最前線だ」
ミヤビの言葉を遮るように、シオンは思い切りカップを置いた。沸々と、体が熱くなっていた。
「少年兵は常に大人の前にいる。いなくなっても変わりはいる。報告もいらない。そう思っているお前たちを、俺は今すぐ殴りたい。こんな事はやめさせたい」
半分を通じるように英語で、もう半分を訛りの強いスペイン語で、シオンは伝えた。ハイルレインの氷の目が、銀の少年を貫いた。
「察しが早くて助かる、死神どの。もう手紙は用意させた。あとはあなたたちの力だけが必要だ」
ハイルレインは、何百という手紙の束を段ボールから取り出した。黒く煤まみれのものや、何度も書き直してくしゃくしゃになったものもある。端に血が付いているものもあった。
縛られた手紙を解いて、一枚一枚ミヤビは読んだ。何通かに一枚は、シオンも読んだ。
戦争で活躍して、お母さんを楽させます。憎い敵をやっつけて、国に貢献します。僕は怖くない、安心して。
日が傾いた頃、徐にミヤビは腰を上げた。
「ライターはあるか?マッチでもいい」
「……煙草か?ならこれをやる」
ハイルレインは、ぼろぼろの胸ポケットから紙煙草とライターを取り出しミヤビに渡した。
最初に出会った時を、シオンは思い出す。世界が変わったあの日、月に向かって伸びる紫煙と、美しい死神がいた。
だが、ミヤビは煙草を咥えなかった。少年兵たちの手紙に火を付けて、空に放り投げた。
「……残念だが、アレは私たちが届けるモノじゃない。私たちが届けるのは想いだ。国のお偉方を悦ばせるような安い手紙じゃない。それと、死神の便箋は特別製だ」
冷めた紅茶に口を当て、ハイルレインは目を閉じる。沈黙の後、彼は小さく「そうか」と言った。
目の前にある男の銃を、シオンは今すぐ窓から投げ捨てたかった。そんな事でこの争いは終わらない。分かっているのに。
「俺を最前線に連れて行ってくれ。俺が手紙を、想いを受け取ってくる」
今のシオンは兵士じゃない。従うのはミヤビだけ。畏れるものは記憶だけ。やるべき事も、帰らなければならない場所もある。
幾重もの死線を乗り越えた男でさえ、今のシオンにはただの依頼人だった。
「いいだろう。だが、命の保証はしかねる。それでも良いなら電話をつなぐ」
「すまないが二人分に変更してくれ。私も行く。ここにも手紙を出したい者はいるだろうが、優先は向こうだ。我慢してくれと伝えておいてくれ」
了解の返事をし、ハイルレインは受話器を取る。話された言語がどこのものかは分からなかったが、その特徴的な挨拶にシオンは聞き覚えがあった。
別れ際にする、不思議な抑揚での常套句。昔、直接手を下した少年兵を思い出す。銃口に向かって、確かにその言葉は飛んでいた。
ハイルレインが電話を切ってから僅か一時間で、死神たちの移動が決定した。いつもの仕事道具に、いつくかの荷物を車に乗せて、その荷物と一緒に荷台に乗り込む。
日はもう半分ほど沈んでいた。
「向こうの指揮官は私の息子、ハルバレインが執り行っている。君たち死神は、宗教要員として安全が保障される。伝達事項は以上だ。他になにか質問はあるか?」
戦場の夜に月が咲く。シオンは車から降りた。
「……一つだけ、どうしても答えてほしい」
「私の知る限りは答えよう。死神は機密の外に生きる者。そう国際法で決まっている」
「一年前の春、相手の国の第四十七師団を、夜中に奇襲した奴らがいた。アレは、あんたの指示だったのか?」
ミヤビは止めなかった。シオンの髪が揺れる。運転手が懐に手を入れた。
「……いや、その事件は私の指示ではない」
答えが出てもなお、シオンは眉に力を込めていた。続きを待つように。
「君が言うのは、おそらく五月五日の事件のことだろう。国際規定により、日没から日の出までの戦闘は禁じられている。我が軍がそれを破った。指揮していたのはツァンゼンモルゲン至督。衛生兵や文民までも巻き込んだ大罪への罰として、彼は処刑された。残りの兵士たちも、みな今は牢の中だ。
……これ以上の詳細は、本部から文官を呼ぶ必要があるが、どうなさる死神どの?」
黙って首を振り、シオンは車に戻った。出発と同時に、強くミヤビの手が握られる。
「おい運転手、あなたに家族はいるか?」
「…………いない」
「私たちはすべての人間の想いを届ける死神だ。だから、もし君が私を撃とうと私は君の想いを届ける。それを覚えておけ」
黙って星を仰ぐミヤビへ向けて、運転手は敬礼をした。
車が最前線のキャンプサイトについたのは、もうすっかり日が沈んだ後だった。最低限の灯りと虚空の活気だけが、この世界を覆っていた。
大気に混じる血の香りと、消せぬ火薬の焦げた痕。そこには大勢の少年たちがいた。
みな、年はシオンと同じがそれより小さいくらい。誰もがやつれた顔をして、目の前の飯だけを見つめている。
「一年前の君と同じだ。私が初めてあった小さな少年兵とね」
予想はできていた。だから、驚かなかった。
ただ、シオンは目を瞑った。届かぬ想いが渦を巻き、褪せぬ希望が蓋をされた天井を見た。
引き継ぎの書類を提出すると、とたんに三人の大人が走ってやってきた。みな、どこか緊張した面持ちだった。
「食事の準備ができております、死神どの。ハルバレイン准中尉がテントでお待ちです。ワインもありますから、どうぞ」
少年たちは一切れのパンを争っている。満足そうに味のないスープを飲み、腐った肉を食べる。
そこには、一年前のシオンがいた。その現実を、改めてシオンは思い出した。
「俺はみんなと一緒のご飯でいい。用意してくれたのはみんなに分けてくれ」
「……私もそうしよう。問題はあるか?」
やってきた将官は首を振り、すぐに元来た道を走っていった。戻って来た彼が持っていたカロリーバーを、シオンはポケットに突っ込んだ。
設営されていたテントに荷物を置いて、死神たちは食堂フライへ向かう。一人の少年が、カンパンのかけらを舐めていた。
「お前は負けたのか?あの争いに」
シオンの問いかけに、少年は答えなかった。首を動かすのも億劫に、彼は舌の上でカンパンを転がしていた。
「食え、少年。これは慈悲ではない。私の仕事だからだ。わかるな?」
ミヤビが差し出したカロリーバーを、彼は初め目を丸くして見つめていた。が、やがてゆっくり手を動かして、もそもそと蹲って食べ始めた。
その晩、シオンは学んだ。少年たちは慈悲を嫌えと教えられていること。敵に捕まるなら死を、施しや優しさは隙だと。
シオンの羽根はやっと開いた。だけど、彼らは永遠に空を仰ぐことはない。枕のないテントの中で、シオンはフリーアへ頭の中で手紙を綴った。
「ここの子供達とは言葉が通じない。また勉強が増えたな、シオン」
少年たちとはミヤビが通訳をしてくれていた。まだ自分たちが死神とは明かさずに、非戦闘員だということだけ伝えておいた。
「……泣き言は言わない。涙も、食いしばった歯も、絶対見せない。俺が来たいって言ったんだ。それに、いつまでもミヤビに頼ってばかりじゃいられない。……でも」
並べられた二つのベッド。一つを物置に、二人は小さなベッドに座っていた。
背中に触れるシオンの髪がくすぐったかった。それがふと消えたかと思えば、シオンは膝に頭を載せていた。
「……今日だけ。今晩だけ、こうしていさせて」
強い心は、ただ頑強なだけじゃない。時に優柔で、脆く、弱くなる。
その日、シオンは初めてミヤビに甘えた。戦場でも死神は暖かかった。夢を見るシオンへ、ミヤビは目を細める。
「頼ってばかり……か。お互い様だ、シオン」
想いの渦が夜を抱き、硝煙とともに朝日が昇る。秘密を閉じ込めたミヤビの顔を、シオンは夢の中で見た。
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