Good-bye my memories

第16話 後退

 夢を見ていると、シオンは気がついた。幼き日の自分の姿を、背後から見つめていた。

 シオンは畑にいた。見渡す限りの広大な、両手に収まりきらないほどの土の上を、軽快に走っている。

 緑の大地の反対側に、小さな家があった。そこにいた泥だらけの男と、産まれたての赤子を抱いた女に、シオンは見覚えがなかった。

 幼きシオンが手を伸ばす。だが、名もない少年が掴んだのは、踊り狂う炎だった。

 世界が紅蓮に包まれていた。知らない軍服を着たおじさんたちが、鍬を持つシオンへ歩み寄る。

 その手が頭に触れた。シオンの手には、重たい金属の感触があった。



 ふかふかのベッドの上で、シオンは天井を仰いでいた。手には一冊の本。有名なフランスの文学を、原文のまま読む特訓をしていた途中だった。

 窓を開けて朝日を拝む。小春日和の爽やかな風が、本のページをめくっていった。

 袖が詰まったパジャマを脱ぎ捨て、クローゼットから適当に服を選ぶ。今では自分の服も、全シーズン分揃っていた。

 シオンたち死神は今、スペインにある死神郵便局の支部に泊まっていた。珍しく、今は四人全員が揃っている。

 フリーアとの手紙も崩れるほど溜まった。そして何より、ミヤビと出会ってから一年が経とうとしていた。

 ひさびさに早起きをしたシオンは、みんなを驚かせようと、ひっそり階段を下る。薄い壁一枚隔てた向こう側で、ミヤビが小声で話していた。

「……だから、次の依頼は私一人で行く。シオンには、帰ってこないかもしれないと伝えてくれ」

「……わかりました。お嬢様がいないと、しばらく寂しくなりますなぁ」

「……シオンには私が言っておくわ。彼になら泣き顔見られてもいいもの」

 全ては聞き取れなかった。けれど、なぜかミヤビの姿が、いつかの夢に重なった。あの時の陽炎のように、消えてしまうんじゃないかと思った。

 整えられた銀の髪をかきあげ、シオンは目を細める。

「……おはようみんな。早いな。俺の朝ごはんある?」

「あぁ、おはようシオン。今朝は早いな。待ってろ、すぐ作ってやる」

「あらぁ、ミヤビのじゃ満足できないわよ。フライパン貸しなさい、私がシオンの胃袋掴んでんのよ!今は」

「なっ!?私だってたまには誰かのためにパンケーキを焼きたいんだ。局長命令だ!その手を離せぇ!」

「お二人とも大人気ない。シオンくんならたくさん食べられるでしょう?」

「あぁ。俺は二人の作ったものを食べたい」

 毎朝のご飯も、その後のみんな揃っての仕事も、お風呂の後にテレビを見て笑うのも。その全てが、シオンを戻してくれた。

 運ばれて来た甘い香りのパンケーキを頬張り、満足げな顔をするシオン。コックも胸を張っていた。

 部屋に戻ったシオンは、読みかけの本のページを繰る。さっき聞いたことは、飛行機を折って外に投げ捨てた。

 依頼がない日は退屈だった。届けなければならない想いが、世界に落ちているんじゃないかとも思った。だから手紙を書く合間に、よく新聞を読んだ。

 世界の朝は銃声が目覚まし代わり。そんな記事を見ると目を逸らしたくなった。

「さって、なにか面白い本の情報は載っていないか」

 熱心に戦場からの記事を読んでいると、ミヤビがテーブルの反対側から新聞を奪った。

「……ねぇ、ミヤビ。世界で一番愛があるのはどこだと思う?」

 真面目な話の時にはコーヒーを淹れる。それが、この一年でシオンが気づいた自分の癖だった。

「そうだな……。きっとここよりも、空の向こうにいる人たちの方が圧倒的に多い。答えは空の向こうだ。それ以上は知らん」

「……俺は戦場だと思う。四十二番も、他のみんなもそうだった。親とか兄弟とか、地元の友人とか。あそこにはいろんな愛があった」

「……君は優しすぎる。それでいてとても強い」

 新聞を閉じ、ミヤビはゆっくりコーヒーを口に含んだ。煎り立つ香りが部屋を満たし、砂時計のように湯気が舞う。

「……少しドライヴに行こう。仕事の準備をしてね」

 ミヤビの部屋からダンボールを持ってきて、二人は車に乗った。四つあった手紙の箱は、三つになっていた。

 どこへ向かうのか、ミヤビは言わなかった。森を抜け、山を越えた。ずっと、二人は黙ったままだった。

「この場所を知っているか、シオン?」

 目の前の広大な大地を、シオンは知らなかった。丘の中腹から見た街は、赤レンガと木の調和が綺麗だった。

「知らない。けど、綺麗なところだ」

「……そうだね。少し、散歩しよう」

 車から降りて十分、二人は街で一番高いところにいた。そこには、街を見守るように、大きな岩があった。

 無数の名前が刻まれたそれが何なのか。シオンは一度だけ見たことがあった。

「安心しろ。この場所では誰もが他人の話を聞かないことになっている。ここは平和の展望台と呼ばれていてね、とても昔戦争があった時、多くの血が流れたところなんだ。だからこそ、これの背後にはあんな美しい街がある」

「……うん」

 緑の大地に、黒のスーツは浮いていた。風が髪をなびかせ、目を太陽の方へ向けさせた。

 ミヤビは太陽を背負っていた。

「……正直言うと、私は怖いんだ。たしかに私はシオンを死神にすると言った。だけど、戦場に連れて行ったが最後、また君が、戻ってしまう気がして……」

 物珍しいことを口走る死神へ、シオンは優しい目を向ける。もう視線の高さは一緒になっていた。

「俺は大丈夫。俺はずっと、ミヤビと一緒に学びたい。だから、連れて行って」

 銀の髪が木枯らしに舞う。生命の息吹を風が運び、太陽は悠然と空に立つ。

 けれど、ミヤビはいつも通りだった。

 シオンの愛した死神は、人を想う死神は、誰より夢の泡が弾けるのを恐れていた。

「ずっと私は怖かったんだ。フリーアの時に、君がもう一度銃を握ってしまったあの日から。

 いつか、シオンが居なくなるんじゃないかって。偉そうなことを言った私が、何もできなかったらどうしよう、って。

 シオンは成長した。ダヴィの知恵と、シーターの技術があれば、どこでだって生き抜ける。

 私はシオンがそうなることを望んでいたんだ。……けど、やはりダメだ。シオンが私と会う前に、私がいなくても生きていける君に戻ってしまったら、私は……っ!」

 ミヤビの言葉は途中で途切れた。彼女の口を塞いだのは、他ならぬシオンの唇だった。

 いつか同じことをしてもらった。シオンなりの恩返しだ。

 年甲斐もなく目頭を紅くした死神に、若き死神は告げる。ずっと抱いてきた想いを。

「俺だって怖い。戦場へ戻ったらどうなるかわからない。

 でも、俺はそれ以上にミヤビを信じてる。俺のミヤビへの愛を信じてる。

 俺がいなくなったら、またミヤビが連れ戻してくれる。だから、ミヤビがいなくなれば俺も探す。

 最後のその時まで、俺はミヤビと一緒にいたい。

 俺の全ては、あの時からずっとミヤビのものだ」

 死神の胸は熱かった。ミヤビが細くなったのか、シオンが逞しくなったのか。

 どれくらい時間が流れたか。雲に隠れた太陽が顔を出した。ミヤビは一口水を飲んでから、車の方へ踵を返した。

「帰るぞシオン。すぐに遠出の準備だ。今度はかなり長い間向こうに滞在するだろうから、宿泊先も決めないとな。もちろん、二人分だ」

 今度ミヤビは振り向かなかった。急いでシオンは後を追う。

 その日は四人で食事をした。その日がみんな揃っての最後の晩餐になることを、心のどこかで、シオンは気づいていた。

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