第15話 拝啓、空の向こうへ
手紙の受取拒否、蜻蛉返し。どちらも初めてだった。返事が返ってこなかったものや、何も書かれていない便箋が返ってきたことはある。
だが、出した手紙がそのまま返ってくるのは未知だ。
動揺する四人とは裏腹に、タクシーは足を止める。目的地前で降りはしたものの、ルミの脚は鋼になっていた。
「やっぱり、いらなかったんですよ。才能のあるアーシェが死んじゃって、才能ない私が自分で書いた歌詞を送る。多分、怒ってます」
寿命が一年減ったことよりも、彼女は送ったことを後悔していた。
涙はなく、ただ俯いていた。冷え冷えとした風が肌を撫で、氷の空気が体を抱く。自分の無力感に、ミヤビもシオンも立ち尽くすしかできなかった。
空の向こうは、案外近い。けれど近いからこそ、逸れてしまった路は交わることがない。
ルミの足が、会場と逆の方向へ向けられる。凍った雫が、地面に当たって砕け散った。
「どうしよう……ミヤビ」
「……信じるしかない。ルミの、アーシェの想いを」
死神が干渉していいのは、あくまで手紙のやり取りにだけ。内容に関しては、深く関わりを持ってはいけない。
今のシオンは、掟など頭から離れていた。ルミに駆け寄って、何も言わずに抱きしめようとした。
その隣を、金の髪が颯爽と揺れて行った。
「あなたには才能がある」
覚束ない足取りのルミをつかんだのは、真摯な目を携えたシーターだった。
「あなたの音には、優しさと愛がある。それをできるのは、ほんの限られた人だけなの。
あなたの音を届けたいのは誰?空のアーシェなの?それとも、今夜あなたの歌が好きだって見にきてくれている、あなたを愛する人たちなの?」
力がこもるシーターの手を、ルミは振り払った。
「そんなの……そんなのどっちともに決まってるじゃないですか!選べませんよ!ズルイですよ!
私は『シエル』の二人みたいに才能ないし、でもみんな幸せにできないし!逃げるのが卑怯なのは分かってます!でも、せっかく来てくれた人をがっかりかせたくないんです!
音楽好きだし、でもアーシェはもっと好き!だから中途半端になるくらいなら、何もないところからやり直したいんです!」
夜の街に、ルミの大声が響き渡る。奇跡の夜には似つかわしくない殺気に、道行く人は目をそらした。
今にも決別しそうな二人の雰囲気に、シオンは耐えられなかった。走り出そうとしたシオンの肩を掴んだのは、まゆをあげ優しい顔をしたミヤビだった。
震えるルミを、シーターは抱きしめた。
「選べなんて言わないわ。どっちも取ればいい。そのために、私はここにいるの。そのために私は死神に協力しているの」
「でも、どうやって……?シエルのカバーもそんなにレパートリーないですし……」
「何言ってるの?歌詞はあるんでしょ?なら、メロディーを奏でれば曲は完成する」
「まさか即興で……!?そんなこと、どうやって……」
「安心して。私は天才だから。それも、あなたお墨付きのね」
驚いた表情のルミが聞き返す間も無く、シーターは半ば強引に会場へ連れ入った。
店内に足を踏み入れた瞬間、懐かしい焙煎された豆の匂いが、ルミの涙腺を刺激した。
「いらっしゃい。おかげでお客さんもずいぶん来てくれた。『タイヴァス』と、シーターさんには感謝しなければ」
ルミが想いを綴り、シオンたちが街へ出ている間、シーターはこの店でピアノを弾いていた。
クリスマスで人が集まった時期に、魂を揺さぶる演奏をすれば、噂が噂を呼びつける。そうして彼女は、今夜の観客を集めたのだ。
他ならぬ演奏者自身として。
「おおっ!久しぶりだなルミちゃん!またあの歌声聴かせてくれよ!」「タイヴァスの優しい音色を聴かせてたら、よく赤ん坊が眠ってねぇ。大助かりだったよ」「うちの店で買ってくれたピアノ、まだ使ってる?」
顔見知りばかりの、小さな小さなコンサート。それがなによりも、ルミにとっては最高のプレゼントだった。
シオンとミヤビは客席に座り、コーヒーを飲みながら二人を待った。本当に、シオンはルミの歌が好きだった。
控え室でコートを脱ぎ、淡々と二人は演奏の準備をする。あれだけ怒鳴った後のせいか、指も足も、十分温まっていた。
「あ、そうそう。歌詞の流れだけでも確認しときたいから、ちょっと見せてくれる?嫌なら問題ないけど」
絢爛豪華なドレスに着替え、長い金髪を紐でくくる。その姿は、十年前からまるで変わっていなかった。
御守りがわりの便箋を受け取り、シオンが丁寧に貼った封印を剥がしてゆく。取り出した手紙に目を通したシーターが、顔だけで驚いた。
「……あなたの想いは、ちゃんと届いていたわ」
頭を撫で、シーターは扉の前に立つ。聞き返すより先に、大きな拍手が波のように襲ってきた。
開かれた扉の先には、なんども触ったこの店のピアノと、迎えてくれる温かい人々。そして奇跡を期待するかのように、天から雪が舞っていた。
ホワイトクリスマスと酒と音楽とに人々は熱を上げ、待たせるのが申し訳なかった。歩み出るシーターの肩に掴まって、一緒にステージで礼をする。
光と雪が反射する空間で、ルミは思い出していた。ついさっき待機室で、シーターが言っていたことを。
「五年前の、活動をやめてしまったシエルは、きっとあなたを羨むわ。当時の彼女には、一人で続けるという勇気ある選択ができなかったから」
スポットライトなんてない。派手でも立派でもないやり方で、ルミは、タイヴァスは、大空への息吹を感じていた。
拍手の波が収まると、シーターが鍵盤に指を重ねた。その瞬間を、シオンは今か今かと待ちわびていた。
力強い伴奏が、喫茶店にいる全員の耳を奪った。波の中を揺蕩っているような、空を泳いでいるような。不思議な音だった。
シオンはその曲に聞き覚えがあった。どこか懐かしくて、けれどまだ何かが足りないような。
「君のいる空へ、私はおはようの挨拶をする」
知らないうちに、ルミは唄っていた。
今まで口にしなかった想いが溢れ出てくる。ずっと悩んで、届けたかった愛が、空へ飛び立っていた。
その唄は、聞く人々の心にそよ風となって届いていた。込み上げてくる感傷に、観衆は目を閉じた。
楽しかった子供の頃の夏休み。夕焼けの中を手を繋いだ帰り道。友人と喧嘩をして、夢を語り合ったいつか。
空へ消えていった全てへの想双曲。それが、『タイヴァス』最後の答えだった。
「……やっと完成したよ、ミヤビ」
閉じたシオンの瞼に、敬礼をする仲間がいた。彼らは死神の手紙で愛を知って、空へ行った。
『文を持つ死神』である自分の手が、やけに重たい気がした。
いつしか曲は盛り上がりの最高潮に達し、そよ風だった郷愁が津波のように押し寄せていた。シーターのピアノが街ゆく人の脚を止め、ルミの唄が心を射抜く。
気づけば、喫茶店の外に人の輪が出来ていた。
最後の休符が弾かれると同時に、喝采が二人の音楽家を渦巻いた。手が痛くなるまでシオンも続けた。
「本日は、『タイヴァス』最後の演奏をお聞きくださり、本当にありがとうございます。みなさんの中には、私たちを応援してくれた人もいます。叱ってくれた人もいます。
そんな、恵まれた環境だったから、きっと……私はこうして音楽を続けているんだと思います」
立ち上がったルミが、深く深く礼をする。震える彼女の肩に、シーターは優しく手を添えた。
「本当に、ありがとうございます。私は正式な『タイヴァス』のメンバーではありませんが、それでも、この街の奇跡を感じ取ることができました。
空へ向けて歌詞を綴ったルミと、想いの音色を奏でさせてくれたアーシェに感謝を。そして、世界にあるすべての想いに、祈りを。
今日は本当に、ありがとうございました」
二人が礼をすると、もう一度大きな拍手が街を包んだ。
温かい目をしたみんなが見守る中、奇跡の担い手たちは外へ出た。雪の降るクリスマスの空、満天の星に向かって、ルミは手を伸ばす。
その先にあるどこかへ、想いを告げるように。
「この曲の名はーーーーーー」
クリスマスの朝日が昇ってから二日目、シオンたち死神は空港にいた。
あのコンサートからほぼ丸二日、ルミはシーターの鬼のような特訓で、完璧に曲を弾けるようになった。元々がアーシェの残した曲なので、耳への負担はいささか軽い。
サンタクロースを待ちわびたシオンのクリスマスは、翌朝ツリーの下にあった赤い包みを開けた時点で満足に終わった。
早速その日のうちに手紙を書いて、フランスへ送っていた。
すっかり雪の積もった空港で、三人は窓ガラス越しに飛行機を眺めていた。
「もう行っちゃうんですね……。師匠の特訓がなくなるのはいいけど、シオンくんもミヤビさんも、もっとゆっくりしていってもいいのに」
「聞こえてるわよ、ルミ?」
「うわっ……!師匠、前の便で帰ったんじゃ……」
「搭乗時刻に遅れちゃってね。まぁ、シオンがあんなの見つけちゃったら、そりゃ放っておけないわよね」
「だ、だって……!俺聞いてなかったし、それに、あの写真に写ってたのって……!もがっ!」
言い切る前に、シオンの口は塞がれた。
今朝方ルミの家で、シオンは見つけてしまったのだ。とあるコンサートホールで撮られた、四人がいる写真を。幼き日のアーシェとルミ、華やかなドレスを着ていた透き通るように美しい黒髪の女の人と、どこか見覚えのある金髪の美女。
額縁に飾られたそれは、ルミの宝物だった。
「それで、これからはどうする予定なんだい?続けるんだろう?音楽」
「えぇ。死神さんたちに繋いでもらった想いを、もう一度世界に響かせようと思います。そのうちコンサート開くんで、その時は絶対来てくださいよ?」
「約束しよう。……さて、そろそろ時間だ。行くぞシオン、シーター」
別れ際、ルミはミヤビとハグをした。北の大地に見合わぬほど、彼女は暖かかった。
三人の死神が乗った飛行機が空を泳ぐ音を聞きながら、ルミは空港のピアノに手を添える。
「みなさん、ぜひ聞いていってください」
なんども練習した最初の音。想いを込めた演奏を、空へ届けるように。
その曲の名は、
「拝啓、空の向こうへ」
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