第13話 夢の導火線

 鉛のような雲の下、凍てつく大地の隅っこでは、朝からピアノの練習が行われていた。

 ルミのアパートはとても古い家屋だが、壁は分厚い。それに、彼女の演奏はご近所でも評判だった。

「今のが、私たちのオリジナルの曲です。でもまだ全然完成には程遠くて……。それに、これは使えません」

 曲を作るのも歌詞をつけるのも、やっていたのはアーシェだった。ルミの目が見えないからではなく、才能だったと彼女は言った。

 写真も楽器も、この部屋には全て残っている。十年の歳月が詰まった想いが、潤滑油の匂いと一緒に家を満たしている。

 外を見れば、深々と雪が降っていた。まだシーターが公園にいるのではないかと、シオンはさり気に窓をのぞいたりした。

「やっぱり、迷惑だったりしますかね。せっかく天国でゆっくりできてたのに、って、怒られませんか。わたし、怖いんです。もし、返事が来なかったらって思うと」

 死神が運べるのは、手紙に込められた想いだけ。何も見えないからこそ、彼女は形のないものが怖かった。

 死神達は答えを出せなかった。だから、シオンは言った。他でもない、死神に救われた一人として。

「ルミは、今でもアーシェが好きなの?」

「もちろんよ。相棒としても、友人としても。他の人と組むなんて考えられないくらいね」

 死神の手紙が帰って来なかった人を、シオンは何人も見た。けれど、みんなそれに満足していた。

 二度と届けられない想いが、空の向こうへ届いた。それだけで、心は軽くなる。

「初めてルミのピアノを聞いた時、俺、すごいって思ったんだ。きっと届いてる。それに、もうすぐクリスマスだ。プレゼント贈るのは悪いことじゃない」

 彼方の世界は、すぐ近くにある。届く愛は色褪せない。いつか、ミヤビが教えてくれた言葉だった。

「……そうだよね。気合い入れて、涙流すくらいの歌詞を書かないと。今年はわたしがサンタクロースになりましょう!」

 お礼として、ルミはもう一度鍵盤を弾いた。『シエル』が作った鎮魂歌で、シオンは昼寝をした。




 調律の取れた心地よい音色と、漂うシチューのにおいでシオンは目を覚ました。キッチンに立つミヤビを見て、自分の腹が減っていると気づいた。

 外からジングルベルが聞こえ、大通りではパーティーが開かれている。

「違う!ここの弾き方はもっと、こう、魂を洗濯機に入れられて洗われるような、そんな感じよ!ちゃんと耳を澄ましなさい!」

「はい師匠!こんな感じですか??」

 しかし、世間の波など他の海。珍しく声を荒げたシーターが、髪を縛ってルミの背後で鬼の形相をしていた。

「……困ったものだ。と、シーターも思っているだろうね」

 食器が擦れる音と、近づいてくる甘いホワイトクリームのにおい。器に並々と注がれた白色のシチューを二人分、ミヤビは机に置いた。

「先に食べようか、シオン。あのシーターじゃ、あと一時間は自分の腹の虫に気づかないだろうね」

 ピアノの前にいたのは、これまで電話をしてきたどれにも当てはまらない彼女だった。疲れるそぶりも、飽きた表情の一つもなく、シーターは音を奏でる。楽譜は置かれていなかった。

「困ってるの?シーターは」

「困ってるさ。あれだけ熱を上げさせられてはね。ルミが本当に、自分で言う通り才能がないなら、シーターは優しく教える。時間の許す限り、ルミが望む技術を惜しみなくね」

「ルミがすごいのは知ってる。なら、シーターはルミのやる気を出すためにわざと厳しくしてるのか?」

「それも正解。だけど、本心はきっと焦ってるんだ。自分が留まっている間に進もうとしている者がいる。そしてその想いを、ルミの辿る軌跡の先を観たいと思ってしまう。そんな自分にね。可愛いだろ?」

「あぁ。可愛い」

 シーターの過去を、シオンは知らない。どうして彼女が死神になって、そして今人の想いを紡ぐのか。

 本当に死神がやるべきことを、シオンはシーターから教わった。想いを憂う人が空の彼方へ飛べないのなら、自分がその翼となればいい。

 ミヤビと二人、笑いながら飲んだシチューは、舌が火傷するくらい熱かった。

 シーターの猛練習が終わったのは、日付が変わりそうな時だった。夢中でお腹の空きも忘れていた彼女たちだったが、一度ピアノから離れればすぐにキッチンへ走った。

 白息が空へと消える様を、シオンは屋上で眺めていた。クリスマスまであと二日。慌てん坊のサンタクロースを探しているのだ。

「ミルクいる?ホットハチミツ入りで、ぐっすり眠れるよ」

 差し出されたアツアツのミルクを、シオンは何度か吹いて冷ましてから飲んだ。

「よく俺がいるってわかったね。今日歩いてた時も思ったんだけど、ルミってエスパーなのか?心の音を聞いたり、奏でたりするの?」

「子供の純粋な瞳刺さるわぁ〜。まぁ、でもこれもエスパーっちゃエスパーかな。この屋上はほとんど人来ないから、誰かいたら息遣いとか音でどこいるかわかるの。それに、シオンくんはインクの香りもするしね」

「……ねぇ、ミヤビ怒ってなかった?すぐ戻るって言ってもう二十分は経つんだ。最近、夜更かしすると怒られる」

 ルミはミヤビの母親っぷりに苦笑した。シオンは、アーシェが起こしたと言うトラブルに腹を抱えた。

 手に持ったカップが冷んやりとしていく様を感じながら、シオンは空を見た。澄んだ空気の向こう側には、何億の光のオーケストラがあった。

「この空はさ、ずっと向こうがあるんだよ。知ってた?シオン」

 ベンチから腰を上げ、ルミはフェンスに体を預ける。

「あぁ。勉強したからな。ルミの真上に月があるよ」

「空の向こうは、私じゃなくても見えない。どれだけ眼が良くても、耳が聞こえても、彼方へは届かない。だから、私たちは想うんだ。と、私は思うよ。どうかな、小さな死神くん」

 空へ目を向けたまま、手を伸ばした。届くはずもない距離、握り返されることもないだろう。

 けれど、シオンは知っていた。想いは時を超え、場所を超えることを。世界の愛の場所を見て、感じた彼だから。

 やがて冷えたのか、ルミはそっと差し伸べた手を降ろした。杖をついた彼女の肩を支えながら、シオンはこれまでの旅を思い返していた。

「……残念だなぁ。それっぽいことして、セリフまで考えたのに。ちっとも思いつかないや、手紙の内容」

「べつに焦らなくていい。死神は、いつまでも待つよ」

「なるべくクリスマスに合わせたいの。今年は、『タイヴァス』が結成されてからちょうど五年だし。ちなみに、十周年とかまででも大丈夫?」

「ミヤビは一番長い人で十年って言ってた。多分、何年でも問題ないよ」

「十年はさすがに……。でも、やっぱりクリスマスまでに完成させる。私だって、できるって事を教えておかなくちゃね」

 壮大な天に指を指し、ルミは得意げに笑った。

 空の向こうは意外と近くて、想いがあれば渡って行ける。

 いつか読んだ物語に、サンタクロースがいた。クリスマスの夜に現れて、子供達に奇跡を残す存在。違うものはあれど、死神も似たようなものだと、シオンはその時から思っていた。

 何ができて、何をすべきか。ミヤビのように流麗に想いは運べない。ダヴィのように寛容に、シーターのように美しくもない。だから、シオンは自分なりの『死神』を持ち始めていた。

「奇跡を探そうよ」

 自分の上から降ってきた言葉に、ルミは顔を上げた。

「死神の手紙は、想いの奇跡を運ぶんだ。ルミがアーシェを好きなら、きっと想いはどこかにある。

 ルミに才能がないから手紙をかけないんじゃない。まだ、どこにあるか見つかってないだけなんだ。

 眼が見えないなら、俺が一緒に探す。クリスマスまでに、絶対見つけよう。俺はとっても眼がいいし、耳も敏感だ。鼻はミヤビのお墨付きだ。絶対見つかる。見つけてみせる」

 鉄柵の上に立ち、シオンは月を向いていた。寒空の下でも、灼熱の大地でも、月は変わらずそこにいる。派手で目立つ太陽と違って、夜の中に淡くある。

 見えないはずのルミの眼に、眩い光が舞い込んでいた。

「ありがとね。小さな死神くん。なんだか、君を見てるとできるって気がしてくるよ。……それで、シオンはどんな光を見せてくれるの?」

 試すようなルミの顔。柵から飛び降りたシオンは、ポケットからガマ口を取り出した。

「毎月ミヤビはお小遣いをくれる。でも、俺には手紙代しかいらないから。それに、今夜は俺がエスコートするから」

 半ば強引に手を引かれ、二人は部屋へ駆け戻った。寝ている大人を起こさないように慎重に身支度を整え、灯りを消して鍵をかける。

 午前一時を回っても、大通りは眠っていなかった。雪こそないが、薄氷も張る気温の中、人々は酒と温かい飯で夜を流れていた。

 裾の余るコートを羽織ったシオンが、ルミの手を握ってゲームセンターへ入った。

「できるゲームはある?俺、まだこういう所ちょっとしか来てないから、教えてよ」

 シオンは空港でもらったマップに印をつけていた。帰りにミヤビと寄ろうとする所をリストアップしておくのが、仕事の中の楽しみだった。

「そうだなー。ピンボールならなんとか。よく昔二人でやったんだ。練習終わりとかにね」

 古ぼけて、塗装も半分剥がれたピンボールのスコアを競い合った。初めてにしてはシオンは筋があり、勝ちと負けを繰り返した。

 薄暗い店内に、客は二人だけ。眠そうな顔した店長も、祭り気分か店をずっと開けていてくれた。

 決着が着く頃には、二人ともほどよく身体が温まっていた。

「俺の負けだー。強いなルミ。なんでそんな……」

「これは見えてなくても感覚でいけるからね。というか、これしか練習できなかったんだけど。まぁ、私の実力は街一番だから」

 祝杯のコーラを仰ぎながら、二人して笑いあっていた。

「さ、次はどこに連れていってくれるの?死神くん」

「着いてからのお楽しみ」

 そこにあったのは、塞ぎ込んだピアニストと少年兵の姿ではない。夜更かしをして内緒で出歩く、ちょっとだけ大人になった子供達だった。

 シオンのエスコートは、お世辞にも完璧とは言えなかった。けれどその必死さと、無邪気な少年の笑顔が、ルミを救ってくれた。

 アーシェと二人でよく行った食堂で、甘いケーキを食べた。学校帰りによく寄った雑貨屋さんでネックレスをシオンがプレゼントしてくれた。

『シエル』のCDを買った音楽ショップで歌を歌い、初めてドレスを繕った服屋でマフラーを買った。

 次の店の扉をくぐった瞬間、ルミは思わず足を止めた。まさか、シオンがここに来るとは思っていなかったからだ。

 その店は、二人が打ち合わせをする時に使っていた喫茶店だった。雰囲気のいい店内に、耳に溶けるような音量のレコードがかけられている。

 マスターの入れてくれるほろ苦いコーヒーを、ルミはもうかれこれ半年は飲んでいなかった。アーシェが消えた一年前から、来るたびに胸が痛くなり、脚は重くなっていた。

「マスター、オリジナルブレンド二つ。俺は砂糖たっぷりで」

 カウンターに腰掛けると、炒り立つ豆の香りが漂って来た。この待っている時間を、いつも二人で新曲について語りながら過ごしていた。

「……アーシェが死んじゃったのはね、交通事故だったの。覚えてるんだ。あの日、曲のことで喧嘩して、家に帰って、それで後悔してね。謝ろうって電話、何回もかけたなぁ。

 でも、出たのは病院の人でさ。バカだなぁって。私もアーシェも。ほんとに。

 悔しかったなぁ。絶対有名になれると思ってたし、何よりそこそこ知名度あったんだよ?地元限定だけど。テレビにも出たしね。ケーブルだけど。それで、楽器屋さんから切手をもらったの

 ……ごめんね、シオンくん。死神さんはもっといろんな人見て来てるし、しょぼいとまではいかないけど、そんな珍しいは話ではないでしょ?」

 自分より十歳近く年下の少年に頼ってしまうのが情けなかった。でも、噤む想いは溢れでる。

「そんなことない。どんな想いも、過去も、全部まとめて愛なんだ。愛に大小はない。俺はそう思ってるよ」

 もう一度、ルミの目に光が映えた。シオンは太陽じゃない。いわば、彼は月だった。

 ルミの鼻腔を、抜けるような深い香りが通っていった。

「お久しぶりです。ルミさん。中々来られなかったから、私、すこし寂しかったですよ」

 カウンター越しに微笑むマスターの物腰は、最後に来た日となんら変わりなかった。

 一口飲んだコーヒーも、合わせて出るクッキーも。何一つ変わっちゃいない。アーシェと食べた、あの時の味だ。

「うまいな。明日ミヤビに教えてもう一回くるよ。その時は、四人一緒だ」

「一緒……。うん。一緒だ」

 あっという間に、ルミはコーヒーを飲み終えた。蘇る想いが、記憶が、胸の中から滲み出てくる。一杯の思い出が、瞼の裏に映っていた。

『マスターに頼んでさ、あそこのピアノでライブしようよ。お客さんもそこそこいるし、成功したらファンゲット!』

『あの店なら音響もいいし、通い慣れてるしでいいね。私もちゃんと歩ける。それに、あの店でかかってるレコード』

『『シエルのだし!』』

 不意に、ルミは目頭を押さえていた。

「……弾いていきますか?調律はしてあります。いつか、来てくれるんじゃないかって。何せ私は、あなたたちがあそこに立った時から、『タイヴァス』のファンですから」

「俺も聞きたい。ファン二号なのは残念だけど」

「……タイヴァスは変わらない。これからも、いつまでも。だから、レコード出たら、ちゃんと買ってよね」

 上衣を椅子にかけ、ルミは鍵盤の前に座る。鳴らした音は、いつも使っているピアノと全く同じ音で奏でられた。

 想いは心から溢れるだけじゃない。鍵盤に、楽譜に、サイフォンに、部屋に、そして町全てに。

 想いのカケラは、見えない世界に散らばっていた。

 ルミは奏でた。空の先へ、音を届けるため。そして最期の一音が上がると同時に、作りかけの曲は完成していた。

「……決まった。タイトルも、どんな歌かも」

 夜が明けるまで、音符の螺旋は空へ昇っていった。朝方になって舟を漕いでいたシオンは、マスターが家まで運んでくれた。

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