第12話 夢の舞台

 いつものようにミヤビは言った。外が冷えたせいか、窓ガラスに雲がかかっていた。

 手渡された便箋を、ルミは物珍しげに触っていた。器用に手紙を取り出し、一番下に自分の名前を書いた。慣れた手つきだった。

 それから彼女は、雪が積もるまで何も書かなかった。想いを募らせた、暖かい沈黙が満ちていた。シオンはこの時間が、仕事で二番目に好きだった。

「……不思議です。切手を枕に貼った夜に、書くことは決めていたんですよ。でも、いざ目の前にすると、なんて言うか、出て来ませんね」

「無理に今書く必要はありません。私たちがいては集中できないでしょう。完成した頃に、取りに来ましょうか?」

「それもいいけど、うーん……。やっぱり、手紙も歌詞を書くのも同じよねー。どうせなら詩的な言葉で綴りたいわ」

「ルミはミュージシャンなのか?さっきのピアノ、俺感動した。ファン一号だ」

「こら、今までファンが居なかったみたいに言うな!まぁ、実際全然いなかったんだけどね。ピアノなら、シーターさんもお上手でしたよね?もしかして、昔からやってました?」

「えぇ、まぁ。ミヤビに教えたのも私だしね。この死神、半年くらい前女子力欲しいって私に泣きついてきたんです」

「……さぁ。昔のことは覚えてないな」

 シーターともルミとも、シオンはすぐに仲良くなれた。厚い雲がかかり、星の見えない夜だった。

 次の日は、朝から公園へ行った。世界中を旅する死神の話を音楽のネタにしたいと、昨日の晩に彼女は言ったのだ。

 凍える手をこすりあいながら、二人の死神はベンチにいた。今朝方ホテルでシオンはシーターを起こしに行ったが、揺すろうがつねろうが彼女は枕を離さなかった。

 東の空が薄ぼんやりと明かりを孕む頃に、ルミは公園に顔を出した。眼の見えぬ彼女が器用に木や柵を避けられるのが、シオンは不思議だった。

「わざわざすいません、死神さん」

「いえ。私たちにできることなら、喜んで協力します。シオンにも街を見せたかったので」

 白い息が三つ、細い路地で揺れている。肺いっぱいに吸い込んだ澄んだ空気が、血液を作り変えてくれる気がした。

 路地裏の古びたアパートが、ルミの家だった。鉄錆くさい階段を上がり、凍てつくドアノブを回す。シオンが三人分の朝ごはんを買いに行っている間に、ルミは部屋着に着替えた。

「本気なんだね。音楽に」

「はい。目指せ、ワールドツアー!って感じで曲作ったり、練習したりしてますよ。……してるんです。今でも、一日も休まず」

 部屋の中は、歩けば音が聞こえて来そうなほど音楽一色だった。壁にはギター、大きなピアノ、音符の形のクッションまで。

 楽譜や本が仕舞ってある戸棚の中に、一枚の写真が飾ってあった。二人の少女が、バイオリンとピアノの前で抱き合う、綺麗な一枚だった。

「……死神さん、『シエル』って知ってます?とっても有名だった音楽グループで、ピアニストもヴァイオリニストも天才って言われてたんです」

「あぁ。これは、確かフランスで行われたコンサートの会場だね」

 写真に映っていた劇場に、ミヤビは覚えがあった。そのグループの名前にも。

「さっすがです。そこにある写真は、私たちがまだ十歳だった頃のものです。隣の赤毛の子はアーシェって言いまして……」

 語られる想いは時を超え、場所を超える。ルミの想い出は、耳を傾ければ心が癒されるようだった。

「当時『シエル』って言えば、世界中の少女たちの憧れだったんです。私もアーシェも、彼女たちを真似して音楽を始めました。名前は『タイヴァス』って。そこも合わせて。たった五つしか違わないのに、あんな大きな舞台で、臆する事もなく魂を奏でる……。いつか、私たちも、って」

 誰かに伝えたかった想いが、別の誰かを引き寄せる。彼女たちの想いで、少女たちは誰かに愛を伝えたくなった。

「あ、それはコンサートへ行ったら、たまたま舞台に呼ばれて、そこで撮ってもらったやつです。緊張したなぁ……。ちなみに、『シエル』の二人との写真もあるんですよ」

 顔が見れないのが残念だなぁ、とルミは笑ってみせた。

 それからシオンが帰ってくるまで、ルミは自慢のレコードをかけてくれた。『シエル』の心を撫でる音色は、長い旅路に疲れたミヤビを癒してくれていた。



 三人分の朝ごはんを市場で買ったシオンは、温かい袋を片手に公園を走っていた。マフラーを巻いた鼻がジンジンする。もう一度ルミのピアノを聞きたくて、足は知らずに急いでいた。

 ちょうど公園の出口にかかった時だった。ベンチに座った氷像のように美しい女の人に、シオンは目を奪われた。

「……シーター?寒くないの?」

「寒いわよ。ちょっとおいでシオン。お姉さんを暖めなさい」

 白い息が二つ、陽が当たり始めた公園で揺らいでいる。買ってもらったコーヒーを握りながら、シオンはぴったりくっついていた。

「ルミの部屋に行かないのか?朝ごはんなら、俺の分を分けるよ」

「アンタはちゃんと食べなさい。ミヤビにもらうから。……じゃなくて、うん。ちょっと迷っててね」

「シーターはピアノがうまい。ルミもうまい。二人の演奏を、俺はもう一度聞きたい。……俺がシーターに言えるのは、これくらい」

 立ち上がったシオンは、袋から焼きたての熱いパンを取り出し、それをシーターの膝に置いた。

「俺はシーターの事よく知らないけど、好きだってことはわかった。ミヤビやダヴィと同じくらい。だから、明日はもっと早起きして」

 息を弾ませながら朝靄に霞むシオンを、シーターは見送った。少年の温もりが残ったパンを、冷めないうちに急いで食べた。

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