Dear the million sky
第11話 死神の音色
深々と降り積もった雪が踏まれる音が、シャンゼリゼ通りをこだましていた。白い息を揺らしながら、赤いマフラーを携えたサラリーマンが帰路を急いでいる。
クリスマスまであと一週間に迫った街の中は、浮き足立つ人たちの、楽しげな空気で満たされていた。
街の外れにある簡素な宿で、シーター・レイモンドはベッドに横たわっていた。一時間ほど窓の外を見ていた彼女は、いい加減喧しい腹の虫を抑えながら、震える携帯電話をとった。
無機質な画面に浮かんだその名前に、彼女は思わず「やった」と呟いた。
「はいは〜い。……なんだ、シオンじゃないの。なに?なんの用?」
機械越しのミヤビの声に、シーターは身を起こした。話の内容に適当に相槌を打ちながら、眠気覚ましのコーヒーを淹れる。
「了解よ。次はフィンランド、3日後ね。珍しいじゃん、私呼ぶなんて。まぁ、私もシオンに会いたいし、わかったわ」
黙りこくった携帯をベッドに投げ捨て、シーターは窓際のテーブルに腰かけた。外ではジングルベルの音が奏でられ、恋人たちが手を繋いでいる。
ぱちぱちと弾けた音を立てる暖炉を見つめ、彼女はバッグから一枚の便箋を取り出した。宛名欄のない、妙な上質紙だった。
陽に灼け黄ばんだその紙を、シーターはトランクの一番下へ押し込んだ。
「……そうか。あれからもう、十年も経ったのね……」
十分も経たずに、彼女は宿を後にした。凍った白い息が、今年は寒冬であることを告げていた。
肺を満たす空気が、全身に今が真冬であることを教えてくれていた。
インドからの二十時間を超えるフライトを終えたシオンは、飛行機を降りるや否や大きく背伸びをした。
時計はまだお昼を指していたが、冬のフィンランドの空は昏い。けれど空港は、迫るクリスマスへ向けて絢爛豪華な装飾が施されていた。
「すごい。ねえミヤビ、あれがモミの木?サンタはどこにいるんだ?ここが出身地なんだろ?」
ロビーには見上げるほど巨大なクリスマスツリーがあった。いくつもの星やお菓子で彩られたその下で、赤い服を着たおじいさんたちが子供にクッキーを配っている。
童顔なせいだろう。そばを歩いていたシオンも、サンタからのプレゼントをもらった。
「今回はシーターと一緒なんだろ?俺、会うの初めてだからな。楽しみだ」
死神の仕事は、ほとんどミヤビと二人きりだった。たまにダヴィが移動や宿泊の面で手を貸してくれるが、それでも三人で行動するのは稀だった。
あくまでも、ダヴィやシーターは人間だと、ミヤビは言った。本当の死神は自分一人で、二人は協力してくれているだけだと。その後に、ミヤビは頭を撫でてくれた。
シオンには、その行動の意味がわからなかった。
電話越しにしか話したことがないシーターと仕事をするのが、シオンは3日前から楽しみだった。
「ツリーを右に行った出口にいるはずなんだが……」
キャスターを引きながらミヤビの後ろをついて行くと、ふと、聞いたことのある旋律が流れてきた。ミヤビといつかミュージカルで聞いた、『聖夜の奇跡』という曲だ。
空港に備え付けのピアノで奏でられた音色が、道行く人を捕まえる。音の中心を輪に、何十人という人集りができていた。
「うまいな。見てきてもいい?」
「いいよ。二階へ行こう。そっちの方が見やすい」
吹き抜けの廊下には、せめて一曲だけでもと、大勢の人が耳をすませていた。三階から身を乗り出している人もいる。
フェンスを乗り越えて、シオンはピアノへ目を向けた。
「キレイだ……」
氷のような肌をした、彫刻のような人だった。腰まで伸びた金の髪が、鍵盤を弾く度に揺れている。
何かに取り憑かれたように、祈るように彼女は奏で続けていた。楽譜をめくることもなく、ただ一つの言葉もなく。
けれどそこには、欠けた月のような、語れない物足りなさがあった。
「……彼女は……」
ミヤビが階段へ戻ろうとした時と同時だった。静かな輪の中から一人が歩み出て、目を閉じて奏でる女の背後に立った。
それから始まったのは、まるで、腕が四本ある一人の人間の演奏だった。一枝の乱れもなく、呼吸さえ合っているのではと思うほどの、調律された音。
先に演奏していた女の人も、乱入に旋律を乱されることなく、むしろ活き活きと音を弾ませた。
目を奪われていたシオンとは裏腹に、ミヤビはどんどんピアノへ近づいて行った。
ふと、二人が頷きあった。同時に音が一層強さを増し、そして舞い落ちる羽毛のように、優しく曲は終わった。名前のないピアニストに、惜しまんばかりの賞賛が贈られる。
満足げな顔をした人々が、拍手を置いて歩み始めた。崩れる輪の流れに逆走し、シオンはピアノの二人の元へ向かった。もらった感動を、言葉にして返したかった。
人の群れが消えた鍵盤の前で、二人は握手をしていた。それを見ていたミヤビが、微笑みをこぼした。
「相変わらずだね、シーター。腕が鈍ってなくて何よりだよ」
後から入ってきた人へ向けて、ミヤビは視線を送った。フランス語だった。
「……あら?ミヤビじゃない。もう来たの?てっきり次の便だと思ってたわ」
ぱあっと、女の人は目を輝かせた。電話で聞いたままのシーターの声に、シオンはようやく状況を理解した。
最後の死神は、目がくらむほどの美人だった。ミヤビを抱きしめた腕は雪のように白く、陽を返す金の髪は、宝石のようだった。
「銀の髪に碧い目、あなたがシオンね。よろしく。死神郵便局の局員、シーター・レイモンドよ」
目を細め、細雪の指がシオンの目の前に差し出された。
「あぁ。よろしく、シーター。英語じゃなくていい。俺とはフランス語で話して」
「あら、向上心が強いのね。ミヤビには英語とスペイン語だけって聞いてたわよ?」
「今、フランスの女の子と手紙を交わしてるんだ。勉強してるけど、ミヤビはあんまり語学を教えるのが上手くない。いきなり上手くなって、驚かせたいんだ」
純粋なシオンの願いに、シーターは瞳を濡らした。少年を自分の胸に押し付けて、「可愛い!」と頭を撫でている。
「……いい少年ね、ミヤビ。だからあなたも……」
背中に回された手に、少し力がこもった。シーターの心臓は、少し早かった。
「さて、出会い頭のお話はこれまで。仕事をしよう」
ミヤビの柏手一つで、二人は落ち着きを取り戻した。
シーターのシオンを見る目が、なぜだかとても寂しげだった。
「今回の依頼人はどこの人?空港から遠いと面倒ね」
「いや、すぐそこだよ」
ミヤビは一声かけてから、ピアノの前にいた女の人の肩に手を置いた。驚いた彼女は、けれど、少しの間ミヤビがどこにいるか分からないようだった。
「……あの、どなたですか?ピアノ、使いますか?」
慌てて荷物を手に、女の人は席を立とうとした。彼女が掴んだのは、近くにあったシーターのキャリーケースだった。
「急がなくていい。私は、あなたが呼んだ死神です」
彼女は驚いた顔をしなかった。旧知の友人が来た時のような声色で、しかし丁寧に謝辞を述べた。
それから、四人は街場の喫茶店へ足を運んでいた。眼の見えぬ彼女は、タクシーで空港まで来たらしかった。背負った大きな楽器ケースを、ぶつけないよう慎重に歩いていた。
白い杖を片手に、シオンが彼女の手を引いた。
暖かい店内で、運ばれて来たコーヒーをすすりながら、シオンは雪の降り始めた空を見上げていた。
「ルミ・テレクシアです。死神さんは……三人もいるんです?」
「いえ、死神は私。彼女はシーター、この子がシオンです」
「切手を舐めたら死神の郵便屋さんが来るなんて、素敵ですね。貰っておいて良かった。サンタクロースと一緒で、信じる人のところには現れてくれるの?」
見た目よりも幼い彼女の雰囲気は、とてもさっきの旋律を奏でた人と同じとは思えなかった。
「どうかしら。でも、たとえ信じていなくても、死神は来てくれるわよ。そこに想いがあるなら。ね、ミヤビ?」
「一通につき寿命一年。返事が来るからわからない。でも、死者への想いがあるのなら、私が責任を持って届けよう。それでもいいなら、この便箋をどうぞ」
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